朝の一番素敵なもの

目を覚ますとひんやりと冷たい空気が寝室に満ちていた。ごそごそと起き上がってあぐらをかいて伸びをする。中途半端に引っかかっていたシーツが落ちて肩甲骨があらわになった。筋肉が静かに波打つ。
ベッドから降りると少しだけ肌寒く、勇利は床にほったらかしになっていたヴィクトルのバスローブを拾って羽織った。窓の外はまだ薄暗い。みんなまだ夢の中だ。
勇利はスリッパを履くと寝室を出てリビングに向かった。寝室も、廊下も、リビングも、家中が冷たい。まるで氷を大気に溶かしたようだ。静謐で、澄んでいる。息を吸えばきれいな空気が肺から指の先まで伝わって体中が清められていく感じがした。ヴィクトルの家で迎える朝はいつだって静かで、まるで世界に自分だけしかいないような気分になる。
ソファで眠っていたマッカチンJr.が、ぱた、ぱたと小さく鳴るスリッパの音で目を覚まし首を持ち上げた。勇利が唇に人差し指を当ててしーと息を吐き出すと、賢い彼は静かに首を落として再びまどろみに身をゆだねた。
リビングのカーテンを開けて勇利はキッチンに立つ。彼が歩く度にひらりひらりとバスローブの裾が揺れて、太股のシャープなラインが見え隠れした。
勇利は寝ぼけ眼のまま電気ケトルに水を入れて、コーヒー豆が陳列してある目の前の棚を眺めた。無造作にエメラルドマウンテンの袋を選んで封を切る。豆を手動のミルに入れてゴリゴリと音を立てながら挽いていく。その内にポコポコとお湯が沸騰する音が聞こえてくる。豆を挽く音とお湯が沸騰する音がひとつの音楽みたいに調和して、やわらかく空気を震わせる。
豆から粉になったコーヒーの元をネルに注いで、ゆっくり電気ケトルを傾けていく。ふつふつと小さな泡ができては消えていく。粉が膨らんで厚い層を作る。黒い液体がポットに落ちていく。
素っ裸に近い恰好でコーヒーをドリップする自分がちょっとだけおかしくて笑みがこぼれてしまう。こんなに無防備で大胆な姿をさらせるのだってこの時間帯だけだ。普段の臆病で恥ずかしがり屋で引っ込み思案な自分からは想像もつかないに違いない。
首から上に湯気が当たって頬が自然と上気する。肌寒さは薄らいだけれどバスローブを脱ごうとは思えなかった。こんなに自分の心を安心させてくれる匂いがするのに手放すなんて無理な話だ。
コーヒーを自分専用のマグカップに注いでキッチンから移動する。ソファに座ってマグカップに口を付けながら、外の様子を眺めた。
ちびちびとコーヒーを飲んでいると空が白んできた。月の輪郭が段々とわからなくなって、星も見えなくなる。サンクトペテルブルクの何もかもが黄金色に包まれて、燦然と輝くその一時。その瞬間を見るのが勇利はとても好きだった。
窓から差し込んでくる陽光に照らされて勇利の髪もきらめきを放つ。吸い込まれそうなほどに深く、艶やかな光だ。
コーヒーを飲み終えると体が芯からぬくまって、眠気が蘇ってきた。こんなところでこんな恰好で寝るのは、はしたない。体を重ねたあとに裸で寝入ってしまうのは勇利の体力が限界だからで、好きで全裸でいるわけじゃない。ああ、でも、けれど。
まぶたが重い。重くて、重くて、勇利は本能のままソファの上に横になった。マッチカンJr.の尻に鼻を埋める。スリッパが足からぽとりと滑り落ちる。空になったマグカップをラグの上に置いて勇利は目を閉じた。


愛しい人のぬくもりがまだベッドに残っている――。ヴィクトルは大きな欠伸をしながらベッドを出た。昨晩、床に脱ぎ捨てたズボンを足に通し、上半身はむき出しのまま寝室を出た。リビングに近付くにつれてコーヒーの香りが濃くなる。爽やかな朝に相応しい清涼な香りだ。
「……おやおや」
リビングに足を踏み入れたヴィクトルは珍しい光景を目にして、口角を持ち上げた。裸にバスローブだけ羽織った勇利がソファに体を横たえてすぅすぅと寝息を立てている。朝の白い光に包まれて眠る勇利は、宝石のように美しかった。艶やかな髪の毛も、けぶるような睫毛も、滑らかな肌も。
のそりと起き上がったマッカチンJr.がソファを降りてきてヴィクトルの足にまとわりつく。彼の頭をひと撫でし、ヴィクトルは足音を殺して寝室に戻った。
ラグの上に落ちていた携帯を拾ってリビングにとんぼ帰りする。携帯のカメラを起動し、息を潜めて勇利に近付く。彼の全身をフレームに収めて、シャッターボタンを押す。カシャリと軽い音がして、ヴィクトルは知らず詰めていた息を吐き出した。早速写真をチェックする。
「うん、とてもいい」
幸せそうな顔で眠る写真の中の勇利はとても清廉な雰囲気をまとっている。裸同然の姿をしていてもそこには健康的な美しさがあるだけだった。
勇利が起きてこの写真を見たらびっくりするだろう。恥ずかしがって消してくださいと懇願されるかもしれない。しかし消すのはもったいない。もったいないからSNSに上げてしまおう。彼の愛らしい姿を全世界に見せびらかして、優越感に浸りたい。
「怒らないでくれると嬉しいな」
多分、きっと、勇利は困ったり恥ずかしがったりするだけで怒ったりはしないだろうけれど。ヴィクトルはずるい大人で。ずるい大人だからこそ、勇利の優しさや甘さに付けこみたくなる。我ながら救いようがないとは思うのだ。
「自重する気は更々ないけれどね」
ヴィクトルは携帯をテーブルに置くとコーヒーを飲むためにキッチンに立った。
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