うかれ頭のあなたは愛しい

ヴィクトルが間借りしているゆ〜とぴあかつきは木造家屋だ。建物はところどころが古びて、腐りかけている。軒先に掲げられている看板の塗装も剥げていて、全体的にうらぶれている感じがする。
けれども日本人は侘び寂びとやらを愛でる独特の感性を持っている。勇利の家族も従業員も常連客に至るまで、ゆ?とぴあかつきがぼろいとは思わないらしい。むしろ少し寂れているくらいがいかにも田舎町の温泉という雰囲気を醸し出して情緒を誘うのだとか。
ヴィクトルにはとんと理解できない感覚だ。天然の湯はひたすらに心地よく、食事も美味なので、不自由さとは無縁だけれど。
長谷津には古い建物が多い。地震があったときはぐらぐら揺れて、ヴィクトルは柄にもなく怯んでしまった。あのときは練習中で、丁度着氷したところだったのだ。そこに突然の揺れが来た。彼は転びはしなかったものの、バランスを崩して両足をついてしまった。減量中のためスケートを禁止されている勇利のほうをちらりと見やれば彼は「……びっくりしたあ。震度三くらいかな?」と至って呑気そうにしていて少しだけ腹が立った。
古い建物に付き物の弊害はもうひとつある。家鳴りがひどい。
廊下を誰かが歩く度に、キシ、キシ、と床板が耳触りな音を立てる。これには三日で慣れたけれど、物音を耳にしてふと目が覚めてしまうことがある。今もそうだった。
ヴィクトルは寝ぼけまなこをこすりながら時計を確認した。時刻は午前五時。まだ日も昇りきっていない内に誰かが廊下を歩いている。きっと尿意を催したのだろう。無視して二度寝を決め込んでもよかったけれど、なぜかひどく気になってヴィクトルは上半身を起こした。
部屋からひょっこり顔を出せば勇利の背中が見えた。トイレに行くにしては恰好がおかしい。寝間着からジャージに着替え、大きなトートバッグを右手に持ち、首から水筒を提げている。こんな時間に外出でもするつもりだろうか。
「ユウリ」
気付けばヴィクトルは小さく勇利の名前を呼んでいた。彼が弾かれたように振り向いて目を丸くする。
「もしかして起こしちゃいました……?」
「うん。俺の安眠を妨げるなんていい度胸だよね」
「す、すみません」
素直に頭を下げる勇利にヴィクトルはくすりと笑みをこぼした。気位の高い子猫ちゃんをおちょくるのも楽しいけれど、聞き分けのいい子豚ちゃんを困らせるのも存外楽しい。
「こんな時間にユウリはどこへ行くつもり?」
「ちょっと、お花見の場所取りに。ええと、Cherry-blossom viewing picnic party」
「ハナミ?」
ヴィクトルは聞き慣れない単語を口の中で繰り返した。今日は定休日なので、とか、普段家業の手伝いをしていないので場所取りくらいは僕が、とか勇利が色々説明しているけれど、そのほとんどをヴィクトルは聞いていなかった。故郷に思いを馳せていたからだ。
ロシアの春は、いつだって、濁っている。雪はなかなか降り止まないし、泥が雪解け水と混ざり合って道路や車を汚すし、あまりいいことがない。ただ、春の初めに降る雨だけは昔から好きだった。
春の雨垂れは凝り固まった雪を溶かしてくれる。汚水をすすぎ、清らかに透き通る景色を連れてきてくれる。
日本の春はヴィクトルの目から見て素晴らしいものばかりだ。地面から顔をのぞかせる新芽はきらきらとまぶしく、そこら中でウグイスの鳴き声が聞こえる。ひらひらと視界を横切るモンシロチョウに、満開の桜に、風に揺れる蒲公英。色の洪水が巻き起こったような、美しいものたち。新しい命の誕生を謳歌するものたち。
日本人が春を愛でたくなるのも無理からぬことである。
「ねえ、ユウリ」
「はい?」
「俺も付き合っていいかな、場所取り」
「え、でも、きっとすごく退屈ですよ。みんなが集まるのはお昼ですし」
「その退屈な時間も花見の醍醐味なんだろう? マッカチンを連れてくるから玄関で待っててくれ」
「はあ………」
勇利は釈然としていない様子だったけれど、彼が納得するかどうかはヴィクトルには関係がない。ヴィクトルは今までも、これからだってやりたいことをやるのだ。やりたいことしかやらないのがヴィクトル・ニキフォロフだ。
部屋で眠っていたマッカチンを起こして、ヴィクトルは手早く着替えを済ませた。玄関に行けば勇利はきちんとヴィクトルを待っていてくれた。これが勇利ではなく自分のリンクメイトたちだったらヴィクトルを待たずにさっさと出かけてしまうだろう。健気なことだ。かわいらしいとしみじみ思う。
「行ってきます」
「イッテキマス」
外に出る。朝の冷たい空気が二人の体を包み込んだ。長谷津の町はまだ眠りの中にあって、ひっそりと静まり返っている。
「花見はどこで?」
「長谷津城の公園で。人気スポットなので、毎年人がいっぱい来るんです。……変装しなくて大丈夫ですか?」
「ヘーキヘーキ。ファンをあしらうのは得意だから。ユウリもファンに声をかけられたら笑顔で対応するんだぞ? ファンは多ければ多いほどいい」
「そうですか? 面倒なだけだと思いますけど」
ヴィクトルは肩をすくめた。
アウェーの戦場でも自国のファンが大量に駆け付けてくれれば、そこはホームグラウンドと変わりない。彼らがかけてくれる魔法の恩恵に与った者にしかこの感覚はわからないだろう。
いつか勇利もそれを実感する日が来るだろう。ヴィクトルがあれこれ説明するまでもない。
てくてくと歩いている内に公園に着いた。ひらひらと大量の花びらが舞い落ちる。ヴィクトルは目を細めた。
「嗚呼――きれいだね」
朝日が昇る。もやが晴れていく。陽光に照らされて花びらの輪郭がぼんやりと滲む。色が薄まって、地面に落ちた花びらの一枚一枚が白く光を放つ。風に巻き上げられてくるくると螺旋を描く。体が無性にうずき出す。じっとしていられなくなる。
「俺と踊ろう、ユウリ」
「え、え、わっ!」
勇利の手を強引につかんでヴィクトルは踊り出した。さながらツバメのごとく。軽やかにステップを刻む。勇利は困惑しながらも、ちゃんとヴィクトルの動きについてくる。上出来だ。
スロージャンプ、リフト、ツイストリフト、手をつないでのデススパイラル。視界の端でマッカチンがぴょんぴょん飛び跳ねている。この瞬間が、一分一秒が、楽しくて楽しくてたまらない。
「はは、あはははは!」
「っふ、ふふふ、はは、あははは!」
気付けば二人は大声をあげて笑っていた。笑って、踊って、笑って、踊って。何もかもを忘れて、幼い子供のように無我夢中になって、情熱的な恋人たちのようにお互いの手を決して離さずにいた。
――数時間後にやってきた勝生夫妻と真利は踊り疲れ、レジャーシートの上でマッカチンを挟んで寄り添って眠る二人を目撃するのだった。
inserted by FC2 system