エンドロールはまだ早い 01

ゆ〜とぴあかつきは年々観光客が減っている長谷津の町にしては珍しく、黒字経営の温泉である。かといって暮らしに余裕があるわけでもなく、諸々の支払いを済ませればあとに残るお金は雀の涙ほど。
それを上手いことやりくりしてどうにか家族が食べていけているというのが、勝生家の現状だった。
姉の真利は高校を卒業すると進学ではなく就職を選び、弟の勇利は奨学金制度を利用して大学に入った。
自分にはもったいないくらいよく出来た子たちだと利也は常々思っている。
仕事が忙しくろくに構ってやれない時期もあったが、真利も勇利も立派に育ってくれた。あの子たちに手を煩わされたことは今まで一度もない。
父親としては誇らしくもあり、寂しくもある。もっと甘えたり、我がままを言って親を困らせたり、子供の特権を活用してもよさそうなものだ。
けれど二人はそうしなかった。
本日の営業もつつがなく終了し、居間で従業員の給与計算を終えた利也は少し休憩を取ろうと立ち上がった。まだ雑務が残っている。外の空気を吸ってにぶってきた思考をしゃっきりさせたい。
突き当りの角を曲がって利也はふと足を止める。庭に面している縁側に勇利が腰かけていた。
星空を見上げ、ぼんやり物思いにふけっている様子だ。こんな夜半に部屋を抜け出してあの子は何をしているのだろう。
「勇利、そがんとこでぼーっとしてなんしよっと?」
「あ……」
利也が声をかけると勇利は目線を上げて罰の悪そうな顔をした。さっと目を逸らして、口をもごもご動かす。
「ごめん、なんでんなかよ。大丈夫」
利也は顔を下に向けている勇利をまじまじと見つめ、ふっと微笑をこぼした。勇利はいつも、いつだって親の手助けを必要としない。辛いときも、苦しいときも、自分一人でなんとかしようとする。とうに亡くなった彼の祖父が今も生きていれば、それでこそ九州男児だと手を叩いて笑うだろう。
しかしどんなに強くても心の拠り所は必要だ。それを示してやるのもまた父親の仕事だろう。
「勇利、暇しとるならこっち来んね」
「何?」
利也が手招きすると勇利は腰を浮かした。背後に勇利の気配を感じながら、利也は長い廊下をゆっくりと歩いた。めし処の敷居をまたぎ、厨房に入る。きれいに片付けられている厨房の流し台の上には、袋にたっぷり詰まった青梅が置いてあった。昼頃に常連客が持ってきてくれたものだ。
「こいで梅酒作るんよ」
「え、今から? 僕、明日早いんだけど……」
「そいけんがらばい」
眠れないのなら、眠たくなるまで手を動かしたほうがいい。あれこれ考えていても、事態は何も変わらないのだから。日本酒の一升瓶、氷砂糖、蓋付きのガラス瓶、竹串。梅酒を作るのに必要なそれらを利也は手際よく並べ、勇利に食卓に運ばせる。利也は戸棚からざるとビニール袋を出すと席に着いた。
「まずはヘタ取りばい」
ガラス瓶の消毒と青梅のアク抜きまでは仕事の合間に寛子がやってくれている。利也は竹串と青梅を手に取った。慣れた手付きでヘタをくり抜いて、実はザルに移し、ヘタはビニール袋に捨ててしまう。
「やり方はわかったやろ? 勇利もやってみんね」
「………うん」
勇利が渋々というふうに青梅に手を伸ばす。一度目は力みすぎて手から青梅が落ちてしまった。二度目はなかなかヘタが取れず竹串で実を抉ってしまった。三度目にしてようやくぎこちないながらも上手くヘタが取れると、勇利は嬉しそうに笑った。息子の様子を横目でうかがっていた利也もまた微笑む。
二人は黙々とヘタ取りに励んだ。
「今から漬けとったら、勇利が帰ってくる頃には美味しくなっちょるばい」
――明日、勇利はデトロイトに発つ。プロのフィギュアスケート選手として活躍するために、勇利は世界へ羽ばたくことを決めた。いつ日本に帰ってこられるかはわからない。もしかしたら地元の成人式にも勇利は出られないかもしれない。
利也の言葉に勇利の手が止まる。こちらを見る勇利の瞳はゆらゆらと揺れていた。今にも泣き出しそうだ。
「……これでほんとによかったのかな? 家も継がずに僕だけ好きなことしてさ、真利姉ちゃんに全部押し付けて、それで、成功できなかったら、どうしよう」
勇利の顔がぐしゃりとゆがむ。両手で顔を覆って肩を震わせる息子の背中を利也は無言でさすってやった。
勇利は昔からずっとフィギュアスケートが好きだった。女の子みたいだとからかわれても、好きだからやっているだけだと自分の気持ちに素直に行動できる子供だった。自分の気持ちを偽らないのがこの子の美徳だと利也は思う。
勇利が生まれてきてくれたとき、利也は本当に嬉しかった。真利が生まれたときもそれはそれは嬉しかったけれど、待望の長男の誕生に利也は年甲斐もなく舞い上がってしまった。
ゆくゆくは勇利に仕事を教え、経営を教え、自分のあとを継いでほしいと思っていた。勇利が望むのであれば、自分の持てる知識を全て息子に授けるつもりだった。しかし勇利は利也とはまったく異なる道を選んだ。
プロになりたいんだと震える声で勇利が打ち明けてきたとき、利也の胸に失望や落胆といった負の感情はなかった。勇利は長谷津の町で一生を終えるような器ではないとどこかで予感していたのかもしれない。
もっともっと広い世界を勇利が望むのなら、利也は背中を押してやるだけだ。いつ枯れるかもわからないような温泉のために、勇利の情熱や夢を殺す必要はどこにもなかった。
だから今までもこれからも利也が勇利にかける言葉は変わらない。
「成功できなくてもよかよ」
真利にしても押し付けられたなどとは思わないだろう。勇利には自分たちにはない才能があって、その才能をとことん伸ばしてほしいと真利も願っているはずだ。
勇利がやりたいことをやって。それで駄目だったらまた考えればいい。人生は果てしなく長い。その遠大さをいつか息子も思い知る日が来るだろう。
勇利は手の甲で涙をぬぐうと青梅のヘタ取りを再開した。勇利の頭をぽんぽんと叩き、利也もヘタ取りに集中する。鼻水のすする音と、小さく聞こえる嗚咽がBGMだった。
やがて嗚咽は聞こえなくなり、安らかな寝息に取って代わる。隣を見れば勇利が青梅を握ったまま座布団の上に横たわっていた。目蓋を赤く腫らし、熟睡している。
利也は自分が羽織っていた半纏を勇利にかぶせてやるとヘタ取りに戻った。ヘタ取りはもうすぐ終わる。新しい朝がすぐそこまで迫っている。


座敷の隅でどっと笑い声が弾けた。営業時間の終了したゆ〜とぴあかつきでは現在温泉 on ICEの打ち上げが盛大に行われている。近所のジジババや常連客が集まってめし処は大層にぎやかだ。日本式のバンケットといったところだろうか。
「ユウリはどこにいるんだぁ……?」
先程から一向に姿の見えない勇利を探して、ヴィクトルは廊下をふらふらさまよっていた。めし処の喧噪がここにまで聞こえてくる。大きくなったり、小さくなったり、寄せては返す波のようだ。
「ユウリぃ」
師匠としては頑張った弟子を精一杯褒めてねぎらってやりたい。手をついてしまったのはいただけないが、自分の真似ではなく土壇場で勇利は自分なりのエロスを見つけた。見事だった。
あのとき、あの瞬間、ヴィクトルは勇利の瞳の中にきらめく星を見つけた。くすぶっていた種火が大きく燃え上がるのを見た。酩酊しそうなほどの色香、優雅に翻る手首、蠱惑的な流し目。あろうことか、勇利はこのヴィクトル・ニキフォロフを誘惑しようとし、やり遂げた。
むしゃぶりつきたくなるほどの、女の、貌。蜜をたっぷり含んだ闇の中に光る花。最高にぞくぞくした。狂おしいほどに自分を求める彼、あるいは彼女を手折ってやりたいとさえ思ってしまった。
自分の真似をしているだけでは世界の頂点には立てない。自分はエンターテイナーであるという自覚が、勇利には致命的なまでに欠けていた。誰かに何かを見せたい、伝えたい。強く、強く切望して、山ほど練習して、そうしてやっとフィギュアスケーターは表現者たりえるというのに。
これからは多くの人間が勇利のとりこになるだろう。求められれば彼は応えるだろう。今回ヴィクトルにしてみせたように。
「お、こんなところにいたのか。ユウ、」
「しい! 邪魔しちゃ駄目!」
やっと見つけた勇利の背中に声をかけようとした瞬間、ヴィクトルの背中を誰かがはたいた。呻きながら振り返ると背後にミナコが立っていた。ミナコは唇に人差し指を当てながら、顎をくいっと動かした。ミナコの視線を辿りヴィクトルは得心する。
勇利は縁側に座って誰かと喋っていた。てっきり客の一人かと思ったが、違う。あれは利也の背中だ。どうやら勇利はここでずっと利也と盃を交わしていたらしい。彼らのそばには果実酒の詰まったガラス瓶が置いてあった。
「あれは何?」
「梅酒。利也さんと勇利が二人で作って約束したんですって。勇利が帰ってきたら、これを飲もうって。だから今は空気読んで大人しくしてなさい」
「ミナコは俺の扱いが雑だな」
「私からしたらあんたも十分ケツの青い子供ってことよ」
「ひどい言い草だ」
仮にも世界王者であるロシアの英雄をつかまえて子供呼ばわりだ。だが歯に衣着せぬミナコの言動が自分には好ましい。ヴィクトルは肩をすくめて苦笑した。
声までは聞こえないが、勇利がすっかりくつろいでいるのが表情でわかる。ヴィクトルと相対するとき彼はいつも難しい顔をしているが、今は屈託のない笑みを浮かべている。美しいと素直に思った。
誰がなんといおうと勇利は美しい。姿かたちがという話ではない。彼の健やかさが美しいのだ。
温かな家族や気さくな人々に囲まれて育った勇利はのびやかな気性と豊かな感受性を知らず知らず、はぐくんできた。それはユーリやヴィクトルが逆立ちしても手に入れられないものだ。だからこそ、彼の眼差しと指先とステップには魂が宿り、観客の情緒を誘う。
「リトル・ダンサーという映画をミナコは知ってるかい?」
「知ってるわ。男の子が周囲の偏見や父親の反対を押し切ってバレエダンサーを目指す話でしょ。生徒たちを集めて鑑賞会もやったわ。好きよ、あの映画」
「一番好きなシーンはどこ?」
「そうね………先生が訪ねてきて、お兄さんと喧嘩して……ビリーがタップダンスをするところかしら。明るい曲が逆にビリーの鬱屈した感情を訴えてきて」
「俺はね、ビリーの父親が自分の主義主張を曲げてスト破りに参加するシーン。あのシーンが――一番嫌いだ」
「………………」
遠い過去、遠い故郷を思う。ヴィクトルの父親は典型的なロシア人で差別主義者だった。フィギュアスケートなどゲイのやるスポーツだと言ってはばからず、ヴィクトルがどんなに勝ち続けても、才能を見せつけても、頑として息子の活躍を認めようとしなかった。息子に対する愛は確かに存在していたけれど、かといって偏見を隠そうともしなかった。だからヴィクトルはシニアに上がるのと同時にマッカチンを連れてさっさと家を出た。父親と息子の間で板挟みになっている母親を見ているのが忍びなかった。
父親と母親が離婚したのが十八歳のときだった。父親は軍人で戦争に行って死んだ。最後の最後まで和解はできないままだった。
日本人は何を考えているのか時々よくわからない。自分が悪くもないのに謝ったり、とりあえず笑ってみたり、変なことばかりだ。けれど少なくとも長谷津に住む人々がヴィクトルは好きだ。好きになった。ここにいると過去に戻りたくなる。今ならもっと上手くやれるはずだと思ってしまう。勇利と彼の父親のように。それがたとえ上っ面だけだとしても。
「………ないものねだりしたって意味ないわよ」
ずばり、ミナコに一刀両断されてしまいヴィクトルは嘆息した。やはりミナコは敏い。おそらく、今まで出会った女性の中で一番。
「ないものねだりはしないさ。そんなみっともない真似、俺がすると思うかい?」
ないものねだりはしない。だが「ある」ものねだりをするくらいは許されるだろう。勇利が声を立てて笑う。遠くで池の鯉が跳ねる。ヴィクトルは柱の陰に隠れながら、勇利の笑顔を食い入るように見つめていた。
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