エンドロールはまだ早い 02

トントンと誰かが部屋の扉をノックした。鏡に映る自分とひたすら睨めっこしていた勇利はカエルが潰れたような呻き声を上げる。足早に洗面所を出て扉を開けば、向こう側には予想通りヴィクトルが立っていた。三つ揃えのツイードを身にまとい、髪をきれいに撫でつけていつもは前髪で隠れている左目をあらわにした彼は、ハリウッドスターもかくやと思われる輝きを放っている。数百カラットのダイヤモンドが服を着て歩いているようだ。上品な黒のシャツと白のジャケットの対比は鮮やかで洗練されている。
勇利の全身を素早くチェックした彼は、おや、と目を丸くした。
「まだ仕度ができていないのかい? 早くしないと始まってしまうよ」
「ネクタイがなかなか決まらなくて……」
「ションナカネー」
ヴィクトルは目を細めて笑うと部屋の中に入ってきた。勇利の肩をつかみ、くるりと体を反転させる。
「俺がお前に一等似合うものを選んであげようじゃないか」
「いつもいつもすみませんっ」
「本当にね」
暗にお前は手がかかると揶揄されてしまい勇利は頬を引きつらせる。いい加減正装に慣れなければとは思うのだがどうしても気後れしてしまうのだ。
今宵、勇利とヴィクトルは国が主催するクロージングパーティー、いわゆるバンケットに招待されている。長きに渡り世界の主要国で開催されたグランプリシリーズは今日で一旦幕を下ろし、選手たちは次の大会に向けて再発進する。グランプリファイナルが終わった今、勇利が最も欲しているのは実家の温泉でゆったりくつろぐ時間と寛子お手製のカツ丼であるのだが、そんな我がままが通るはずもない。
しのぎを削り合ってきた他の選手たちと健闘を称え合い、交流を深め、世話になった人々には感謝を示して英気を養うのもまた自分たちに課せられた義務だ。頭ではわかっているのだが理性と感情は別物である。
社交界なんて勇利には縁のない世界だ。テーブルマナーだってろくに知らない。お洒落なスーツを着て、華やかなパーティーに参加して、笑顔を振りまく。必要であれば相手の腹を探ったり、自分を売り込んだり、本音と建て前と嘘を使い分けたり、などということは考えただけでげんなりする。
昨年、勇利はバンケットに参加せずさっさと帰国してしまった。出来ることなら今年もそうしたかった。
「僕は壁の花になるから、ヴィクトルは一人で楽しんでください」
「何を馬鹿な。周りがユウリを放っておくわけがないだろう」
トランクから出してきたいくつものネクタイを勇利の首元に合わせては取っ替え引っ替えしているヴィクトルは歌うような調子で言った。とても楽しそうだ。ずっとにこにこしている。
「今日のユウリは最高にエレガントでスマートでクールだ。魔法が解けるのは夜の十二時と決まっている。いつものお前に戻るのはまだ早いぞ」
「…………うん」
有終の美を飾るなら、最後の最後まで気を抜かず自分の精一杯でやり遂げよう。ヴィクトルに恥をかかせないためにもそうするべきだ。勇利は腹をくくった。
「これで完璧だね」
ヴィクトルが勇利の背中をぽんと叩く。彼が選んでくれたのはシンプルな黒一色のネクタイだった。生地はシルクだ。ライトグレーのスーツに合わせることで全体的に締まって見える。
「ありがとう、ヴィクトル」
「礼には及ばないよ。そろそろ会場に行こうか。本当に遅刻してしまう」
「はい!」
颯爽と歩き出すヴィクトルの背中を勇利は足早に追いかける。パーティー会場になっているのはホテルの一階にある大広間だ。部屋を出てエレベーターで階下へと向かう。
大広間の正面で勇利は一度立ち止まった。胸に手を当てて深呼吸する。もしかしたら今日の本番前よりも緊張しているかもしれない。
「落ち着いた?」
ヴィクトルの問いに勇利はひとつ頷き歩みを再開した。――意を決して会場に足を踏み入れる。真っ先に視界に飛び込んできたのはきらめくシャンデリア、鼓膜を震わせるのは優雅な音楽とさざめく笑い声だった。まさに豪華絢爛。何もかもが光り輝いて見える。星の王国に来たみたいだ。
「………すごい」
場の雰囲気に呑まれ勇利は思わず立ちすくんだ。しかし勇利の存在に気付いた人々が彼をそのままにしておくはずもない。
「――ユウリ!」
誰かが勢いよく抱き着いてくる。勇利は多少よろめきつつ懐に飛び込んできた誰かの体重を受け止めた。相手の顔を見てぱっと笑顔を咲かせる。
「ピチット君!」
「金メダル獲得おめでとうユウリ! 負けたのは悔しいけど、ユウリが勝ったのは自分のことみたいに嬉しいよ!」
「あ、ありがとう……。僕がここまでやってこられたのは、君のお陰だ」
五年もの間、勇利は目の前の太陽みたいに明るい友人と同じ部屋で暮らした。デトロイトに来て間もない頃、勇利は周囲に馴染めずに浮いていた。英語を流暢に喋れず、元々引っ込み思案な性格の勇利は人間関係を構築するのが壊滅的に下手だった。けれどピチットは辛抱強く勇利の話に耳を傾け、距離を縮める努力をしてくれた。勇利の悩みを彼はなんでも聞いてくれたし、塞ぎ込んでいるときは外に連れ出したり、励ましたりしてくれた。
彼がルームメイトでなかったら。彼に出会えていなかったら。勇利はきっと途中で折れていた。デトロイトで過ごした五年間、ピチットは勇利の支えになってくれた。そんな彼の期待にようやく応えられたことがとてつもなく嬉しい。
「本当に――ありがとう」
ピチットの手を取り心の底から感謝を述べる。勇利が感極まって瞳を潤ませていると背後から「おい!」とこの場にはそぐわない怒声が聞こえてきた。感傷が一瞬で吹き飛ばされる。振り返れば予想した通りの人物、ユーリ・プリセツキーがこちらを思いきり睨んでいた。
ロシアのユーリはずかずか大股で詰め寄ってくると――「ゴプニクみたいな歩き方をするんじゃない。品がないぞ」というヴィクトルの小言を彼はきれいに聞き流した――日本の勇利の額に利き手の人差し指をぴっと突きつけた。
「来年こそは俺が勝つ。ついでにヴィクトルもぶっ倒して俺が世界王者になる。首洗って待ってろ」
「……あ、うん」
叩きつけられた挑戦状に対し、勇利の口からこぼれたのはなんとも間の抜けた返事だった。勇利はしまったと口を抑える。案の定、ユーリは勇利の反応が気に入らなかったらしく、まなじりを限界まで吊り上げ爆発寸前だ。彼の成績は二位。彼は勇利と戦って惜しくも敗れたのだった。
ユーリの肺がみるみる膨れ上がる。感情のままに勇利を罵倒しようと彼が口を開いたそのとき。
「ユーリ! ヴィーチャ!」
鋭いしわがれ声が飛んできた。名前を呼ばれた二人が弾かれたように声のしたほうへ振り向く。
「ジジイ!」
「ヤコフ!」
少し離れたところに彼らの愛すべき老コーチが立っていた。手招きをして二人を呼んでいる。
「ユウリ。少し彼と話をしてきても?」
そわそわと喜色を滲ませているヴィクトルに勇利は苦笑した。積もる話もあるだろうし、引き止めることなどできやしない。勇利が了承するとヴィクトルは破顔した。ユーリの首根っこを引っ掴み、ヤコフのもとへずるずる引きずっていく。勇利は小さく噴き出して二人を見送った。先程まで話していたピチットもいつの間にか姿を消している。
パーティーはもう始まっている。とりあえず勇利は空腹を訴えてくる腹の虫を黙らせることにした。会場に用意されている数種類のオードブルを皿に取り分け、壁に身を寄せる。声をかけてくる幾人かと会話をしつつ、その場を動かずにオードブルを消化していく。取り分けたものが粗方なくなり、そろそろメインディッシュに進もうかと勇利が考えていると不意に肩を叩かれた。
「お疲れさん」
「あ、」
顔を上げるとすぐそばにジャン・ジャック・ルワロが立っていた。真っ赤なルージュがよく似合う例のフィアンセも連れている。ジャンはテーブルに置いてあるワイングラスを取り上げると、勇利と自身のパートナーに手渡した。自分もワイングラスを手に取って掲げる。
「ユウリ・カツキに」
乾杯。三人の声が揃う。中に注がれていた白ワインを勇利は口に含んだ。あっさりした口当たりで美味しい。
「イザベラ、少し席を外してくれないか」
ジャンがフィアンセに向かって言う。彼女が気を悪くしないかと勇利ははらはらしたがその心配は杞憂に終わった。彼女は肩をすくめて「少しだけよ」と微笑むと静かにこの場を離れた。
「彼女とは長い付き合いなんですか?」
「ジュニアハイスクールの同級生さ。俺が彼女の美しさに一目惚れしたんだ」
楽しそうに話すジャンに勇利は生返事をした。そういう恋の駆け引きみたいなことは苦手な分野だ。
「それはともかくとして、だ」
ジャンの顔から笑みが消える。優男と周囲から認識されている彼の思いのほか鋭い眼光に射抜かれて勇利はたじろいだ。
「君、来シーズンはどうするんだ? ヴィクトルは復帰するのか? 元々一年間だけのコーチだったんだろう?」
「来シーズンについては……まだ、わかりません。ヴィクトルがどうするつもりなのかも僕は知らない、です。彼からは何も聞いていません……」
思わず返事を濁してしまった勇利だけれども、既にほとんど腹は決まっていた。先日誕生日を迎えて勇利は二十四歳になった。もう選手としてのピークは過ぎている。体力は下降の一途を辿るだけだ。ならば潔く舞台を降りよう。それが勝生勇利が最後に示す選手としての矜持だった。
(ヴィクトルは選手に戻るのかな……)
ここまでずっと二人三脚をしてきたがヴィクトルに選手として復帰するつもりがあるのか勇利は知らない。情けない話だが彼は何も教えてくれなかった。もしかしたら勇利が自分の意思で道を選ぶのを彼は待っているのかもしれなかった。
ヴィクトルが復帰するとなったら、きっと欲が出る。彼に戦って勝ちたいと勇利は思うだろう。更なる高みに臨むだろう。それが本当に自分にとって正しいことなのか考えもせず。
もう十分だ。演技が終わって嵐のような拍手と歓声を浴びながら勇利は思った。今日の演技で勇利は自分の全てを出しきった。たとえ金メダルを逃していたとしても、この胸は今と同様に満ち足りていただろう。憧れのヴィクトルさえも超越したことを点数が教えてくれた。
今日のような演技はもう二度とできない。だからヴィクトルと直接刃を交えられずともいいのだと勇利は誰に引きずられるわけでもなく自分で決めた。
「とりあえず帰国する前にヴィクトルと話し合おうと思っています」
明日。朝一番に彼に話そう。自分の気持ちを素直に打ち明けて、もしもヴィクトルが選手に戻るのならきちんと別れの挨拶をしよう。
「そうかそうか。俺としては続けてくれたほうが嬉しいが、無理強いはできないしな。まあ、縁があったらまたどこかで会えるだろ」
「はい、また会える日が楽しみです」
差し出された手を、握る。勇利とジャンが固く握手を交わしているといきなりヴィクトルが横から割り込んできた。
「ユウリ! どうしてこんな隅っこにいるんだい! すっごく探したんだぞ!」
「あ、えっと、ごめんなさい。食事に集中したくて」
「食事!? 食事なんてどうでもいいだろう? 今一番大切なのは俺とユウリのツーショだ。ほら、笑って!」
ヴィクトルは勇利の肩を抱き寄せると素早く携帯を掲げてシャッターを切った。ピースをする余裕もなかった。小さな四角い枠組みの中に満面の笑みを浮かべているヴィクトルと目を丸くして驚いている勇利が収まっている。端っこのほうにくつくつと喉の奥を震わせて笑うジャンもいた。
「あははは、この顔笑えるぞ! 上げておこう!」
「え、やめてくださいよ恥ずかしい!」
「そんなの俺の知ったことか! 世界中のファンが俺たちのツーショを待ってるんだ!」
はははは! と声を立てて笑うヴィクトルの顔は赤い。もうすっかり出来上がっている。酔っ払った彼のテンションについていくのは正直大変だ。勇利がげんなりしていると、ジャンが片目をつむって言った。
「ま、頑張れよ。潰れたらその辺に転がしておけばいいのさ」
「はあ……そうですね。そうですよね」
もう子供ではないのだ。ヴィクトルが酩酊して前後不覚になろうと勇利が面倒を見る必要はどこにもない。誰彼構わず絡みに行くヴィクトルを見て、勇利は放っておこうと決めた。決めたのだけれども。
「結局こうなるんだよなあ……っ!」
ヴィクトルの体を支えながらエレベーターに乗り込んだ勇利は思いきり悪態をついた。時刻は夜更け。パーティーもお開きとなり、参加者は三々五々会場から去っていった。勇利は飲みすぎてまともに歩けなくなったヴィクトルをヤコフから押し付けられ、彼を部屋へ運ぶ羽目に陥った。
絶対に嫌だやりたくないと勇利は首を横に振ったのだが、会場に勇利の味方は誰一人としていなかった。酒を飲んだヴィクトルがめんどくさいというのは太陽が東から昇るのと同じくらい当たり前のことだったのだ。
「お、おも、い………」
よろめきながら一歩一歩廊下を進む。ヴィクトルの部屋に辿り着く頃には息が完全に上がってしまっていた。ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返しながらヴィクトルのズボンのポケットを漁り鍵を取り出す。鍵を施錠して彼の部屋の中に入った勇利は、ここが外国でよかったと心底神に感謝した。上がりかまちがないのがありがたい。
ヴィクトルの体をベッドに放り投げて勇利は膝から崩れ落ちた。ものすごく体力を消耗した。フリープログラムをノーミスで踊りきるよりも辛かった。
「…………ほんっとにこのひとは」
最初から最後まで自分を振り回してくれる。そのお陰でこの一年間、勇利は失敗しても深く落ち込んだり苦悩せずに済んだ。ヴィクトルが来てから勇利の世界は目まぐるしく動き始めた。彼と一緒に美味しいものを食べて飲んで。たくさん練習して、笑って、驚いて、勝って、泣いた。色鮮やかな日々だった。ずっと彼の隣にいたかった。しかしそれは、それだけは決して口に出してはいけない願いだ。
「貴方と一緒にいられて、僕はとても幸せでした」
ヴィクトルがかけてくれた魔法はもう解けかかっている。
「ありがとう、ヴィクトル」
そして、さよなら。小さくささやいて勇利はヴィクトルのまぶたにそっと口付けた。
翌朝。勇利が話をしようとヴィクトルのもとを訪ねたところ、部屋の中はもぬけの殻だった。彼も、彼の荷物も忽然と消え失せている。絶句した勇利の視界に飛び込んできたのはベッドボードに残された書き置きだった。
――ラスベガスに行ってくるよ! 探さなくてもいいからね! ユウリは俺のことが大好きだから探さずにはいられないだろうけど!
書き置きを読んで勇利が絶叫したのは言うまでもない。
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