エンドロールはまだ早い 03

その店はオフィスビルの地下にあった。たったの数日ですっかり通い慣れてしまった道を辿り、人ひとり通るのがやっとな細い階段を降りていく。硝子がはめ込まれた木製の扉を開けば壁に掛けられたいくつかの絵画と、カウンターの向こうにずらりと並ぶボトルのきらめきがヴィクトルを迎えてくれた。ぴかぴかに磨き抜かれた床を踵でコツコツと鳴らして歩く。
バーテンダーでもあり店主でもある男はヴィクトルを一瞥し、静かに視線を戻した。その間もシェイカーを振る手はよどみなく動いている。
右から三番目のカウンター席。振り返ればステージで歌うシンガーがよく見えるそこがヴィクトルの定めた彼の特等席だった。
ゆったりと足を組みテーブルに肘をつく。女性シンガーの甘いソプラノに耳を傾けながらヴィクトルはラスティ・ネールを注文した。
サングラスで顔を隠していてもヴィクトルの魅力は損なわれない。星の光を宿したプラチナブロンド、鼻筋の通った顔立ち、すらりと長い手足。パーツだけで彼は神に愛された特別な人間なのだとわかる。
客の視線を集めながら誰と話すわけでもなく、ヴィクトルは目の前に差し出されたカクテルを口に含んだ。
「あのイカサマ野郎。次会ったらただじゃおかねえ」「私ポーカーには自信があるの。このあとカジノに繰り出しましょ?」「ビギナーズラックなんて眉唾だと思ってたのになあ……。あんなことが現実で起こるなんて驚きだよ」
現在ヴィクトルが訪れているのはラスベガス。眠らない街と名高いここでは毎日がお祭り騒ぎだ。大道芸人が連日メインストリートを練り歩き、夜になれば目に痛いほどのネオンが色の洪水を巻き起こす。聞こえてくるのはどこどこで一杯食わされただの、なんのゲームで勝っただの負けただのそんな話ばかりだ。
本来ヴィクトルは騒がしい場所を好まない。美術館や図書館といった物静かな場所で思索にふけり、己の内側に深く潜行する時間をヴィクトルは愛しているし、フィギュアスケーターである彼にとってその時間は必要不可欠だった。
ヴィクトルがここに来た理由をヤコフが知ったなら顔を真っ赤にして怒り狂うだろう。ユーリならどうだろうか。かわいらしい顔を思いきりゆがめて「くだらねえ」と吐き捨てるに違いない。想像してヴィクトルはわずかに口の端を上げた。
「楽しそうに飲んでるな、あんた。そんなにその酒が美味いのか?」
いつの間にか左隣の席に男が一人座っていた。ヴィクトルは背を向けていたので彼の存在にちっとも気付かなかった。体を反転させて目をまたたかせるヴィクトルに対し、男は気さくな笑みを浮かべて右手を差し出してくる。
「エリックだ。よろしく」
「俺のことはヴィクターと呼んでくれ。ここで出されるものはなんでも美味しいよ。カツ丼には負けるけれどね」
差し出された手をゆるく握る。エリックの眉は左右対称に整えられ、爪にはきれいにトップコートが塗られている。体にぴったり張りつくシャツとスキニーパンツ。極めつけに胸ポケットから飛び出ている虹色のハンカチ。笑顔の仮面をかぶりつつ、ヴィクトルは盛大に舌を鳴らしたい気分だった。
「俺はここの常連なんだが、あんたすっかり噂になってるぞ。サングラスをかけたいい男が連日通ってきてるってな。かわいこちゃんや美人がいくら声をかけてもちっともなびかねえって。………なあ」
エリックに肩を抱かれる。ヴィクトルは眉を跳ね上げた。見た目に反してたくましいヴィクトルの太腿をエリックのもう片方の手が這う。まったくもって馴れ馴れしい。彼がつけている香水もきつすぎてヴィクトルの趣味ではない。
「あんた、女が駄目なんだろ?」
エリックがヴィクトルの耳元でささやく。熱に浮かされた彼の瞳を見つめ、ヴィクトルはほんの少しだけ哀れに思った。どんなに求めても、焦がれても、彼の望むものは手に入らない。彼の目の前にいる極上のご馳走に手をつけていいのはこの世でただ一人だけ。
愛を愛とも知らず、見返りさえも求めない無垢な魂の持ち主だけだ。
「それなら、俺と、」
「マスター、いくらだい?」
みなまで言わせずヴィクトルは肩に回っているエリックの手をどけた。グラスに残っていたカクテルを一息に呷り、提示された金額をカードで支払う。
「なんだよ、つれねえな……」
背後から聞こえてくるエリックのぼやきを聞きながらヴィクトルは店をあとにした。あの店にはもう近付かないほうがよさそうだ。
階段を昇りきったところでふと立ち止まりヴィクトルは服の匂いを嗅いだ。顔をしかめる。
「臭いな」
あの男の香水が移ってしまった。最悪だ。ホテルに帰ったら真っ先にシャワーを浴びなければ。
ふうとため息をついてヴィクトルは夜空を見上げる。ラスベガスに来て五日が経った。そろそろ迎えが到着してもいい頃だ。
この街はどこもかしこも明るすぎて星のひとつも見えやしない。
ホテルに戻ったヴィクトルは手早くシャワーを済ませると髪も乾かさずにベッドに寝転がった。天井をぼんやりと見上げる。ここにいると日本で過ごした日々がはるか遠くの出来事のように思えてらしくもなく不安になる。
「………早くおいで、ユウリ」
勇利は必ずここに来る。ヴィクトルを追いかけてここまで来る。
もしも勇利が来てくれたなら、二人にとって素晴らしいことが起こるだろう。ヴィクトルは静かに目を閉じた。彼の口からすうすうと安らかな寝息が聞こえてくるまでいくばくもかからなかった。


深い眠りについたヴィクトルが次に目を覚ましたのは夜が明けて正午を過ぎてからのことだった。こちらに来てからというもの、体内時計がすっかり狂ってしまっている。
起きてまず最初に思ったのは陽光がまぶしいということ。それから腹が減ったということだった。
ルームサービスを取るか、それともホテルのレストランで食べるか。少しだけ悩んでヴィクトルはレストランで食べるほうを選んだ。そうと決まれば早速行動開始だ。
昨夜はシャワーを浴びてすぐ寝入ってしまったのでヴィクトルはバスローブ姿のままだった。着ていたそれを脱いでカジュアルな服装に身を包む。
ネイビーブルーのワイシャツと黒のスラックスはヴィクトルの引き締まった肢体によく馴染んでいた。
姿見で全身をチェックしたのち、髪を整えるため洗面所に向かう。長年愛用していたブラシとコームは勇利にあげてしまってヴィクトルの手元にはもうない。ヴィクトルが今使っているのは日本で買ったつげ櫛である。櫛には椿の花が彫り込まれており、彼はその精緻で美しい意匠に一目ぼれしたのだった。
「ふむ……こんなものかな」
鏡に映る自分が満足げに笑っている。寝癖だらけの髪はワックスできちんとスタイリングされ、人前に出ても恥ずかしくない清潔さを取り戻した。
ヴィクトルはポケットに携帯と財布と鍵をしまうと部屋を出た。部屋のドアに鍵をかけ悠々とした足取りで歩き出す。何を食べようか考えながらエレベーターに乗り込み一階で降りる。乗り合わせた客はいずれもヴィクトルの顔を見て驚きの表情を浮かべたが、客層が客層だからか不躾に彼の素性を追及してくる者はいなかった。セレブとのパイプがいくつかあるとこういう場面で苦労せずに済む。このホテルに泊まるのを決めたのも人伝の紹介があったからだ。
(白身魚のポワレがいいかもしれない)
それからポタージュスープ。そのどちらもレストランのメニューに記載されていたはずだ。
ロビーに設けられているラウンジを横切り、レストランの入り口を通り抜けようとしたとき、この場には相応しくない大声が聞こえてきた。天井や壁にぶつかって反響する。ヴィクトルは声のしたほうに目を向けた。一人の男がものすごい剣幕でホテルの支配人に食ってかかっている。ロビーにたむろする宿泊客は一様に侮蔑と嘲笑の色を浮かべて騒ぐ男を遠巻きにしていた。男は周囲から向けられる視線にとんと気付いていない。
「ヴィクトルはここにいるんですよね!? お願いします! 今すぐ彼に会わせてください!」
己の名を呼ばれヴィクトルは目を瞠った。彼に名前を呼ばれた瞬間、ただの雑音でしかなかった声がちゃんとした言葉の連なりになって鼓膜を震わせる。ヴィクトルは体を大きくわななかせた。
「ユウリ……っ!」
彼の声を自分が聞き間違えるはずもない。重そうなリュックを背負った背中に声をかければ、男がゆっくりと振り向いた。ヴィクトルは「アメイジング!」と歓声をあげる。
ユウリが俺に会いにきた! やはりお前は俺を追いかけずにはいられなかった!
ヴィクトルはあふれる衝動に突き動かされるまま勇利に駆け寄った。彼の額や鼻や頬や唇にキスの雨を降らせて思いきり抱きしめたい。彼の瞳の中に自分がいるのを確かめたい。
勇利に触れようと手を伸ばす。しかし。
「――せからしかふうけもんが!」
繰り出された拳がヴィクトルの左頬にめり込む。予想だにしない勇利の攻撃を受け止めきれずヴィクトルはよろけた。愕然とする。殴られた頬がやけに熱い。
勇利はぎらぎらと怒りに燃える瞳でこちらを睨んでいた。そのくせ今にも泣き出しそうだ。それは今までヴィクトルが目にしたことのない、新しい勇利の顔だった。
「……ユリオがどんな気持ちで日本に来たのか、今の僕にはよくわかる」
早く冷やさないと頬が腫れてしまう。幸い口の中は切れていないようだ。そんな見当違いの思考をしながらヴィクトルは勇利の言葉を聞いていた。
「あなたは約束を守ってグランプリファイナルの表彰台まで僕を導いてくれた。キスクラであなたが僕を誇りだと言ってくれたときは死んでも構わないと本気で思った。僕とヴィクトルはちゃんと絆でつながってるって思ってたのに!!」
涙に濡れた双眸は黒曜石と変わりない。ヴィクトルは彼にしては本当に珍しく己の軽率な行動を後悔した。勇利を傷付けたかったわけじゃない。
「どうして何も言わずにいなくなったりしたの。ヴィクトルは僕をどうしたいの。言葉にしてくれなきゃあなたが何を考えているのかちっともわからない」
言いたいことを全部ぶちまけて、力尽きた勇利がその場にうずくまる。両手で顔を覆って肩を震わせる勇利を見るのは身を切られるよりも辛かった。ヴィクトルは膝を折りそっと彼の両肩に手をかけた。
「……ここでは目立ちすぎる。俺の部屋に行こう、ユウリ」
俺がここに来た理由を全部話すよ。
長い沈黙が続き、やがて深いため息をこぼした勇利はのろのろと顔を上げた。彼が泣き止んでいることにヴィクトルはひどく安堵した。
勇利を連れてロビーを離れる。支配人には騒ぎを起こした詫びとしてたっぷりチップを支払う必要がありそうだ。
自分の部屋に戻り勇利をソファに座らせるとヴィクトルは冷蔵庫からサングリアのボトルを取り出した。テーブルに伏せた状態で置かれているグラスを引っ繰り返し中身を注ぐ。それは単なる時間稼ぎでしかなかった。
何から話せばいいのか、勇利にどのような声をかけるべきか。ヴィクトルは逡巡したが最初に口から出てきたのは月並みな謝罪の言葉だった。
「ごめんね、ユウリ。俺がお前に何も言わずにここに来たのは、俺がお前の存在や意思を軽視したからではないよ。俺はユウリのことをどうでもいいなんて思っていない」
むしろその逆だ。
「よく聞いて、ユウリ。俺がラスベガスに来たのは馬鹿な真似をしようと思ったからだ。だから、プライドと世間の常識を何もかも忘れて馬鹿になれるこの街に来た」
ここでは毎日がお祭り騒ぎだ。数日過ごす内にヴィクトルもすっかり感化されて頭の中がお花畑になってしまった。今なら彼に余すところなく自分の想いを伝えられる。
「俺はこれから振り付け師として第二の人生を歩もうと思う。ユウリ、俺はお前を見つけて新しいインスピレーションを得た。俺にとってお前はひらめきの泉だ。お前がいれば俺の世界は色褪せない」
それは喜びに満ちた生だ。祝福であり、呪いだ。
「ユウリには俺の隣を歩いてほしい。対等なパートナーとして」
勇利の正面に跪いて手を取ると、彼はぱかっと口を開けた。そうだとも。ヴィクトルは微笑む。ロシアの皇帝。生ける伝説とまで言わしめたこの自分が自ら膝を屈する相手はあとにも先にも勇利しかいない。
「俺と一緒に生きてくれ、ユウリ。俺はお前を愛しているんだ」
「………っ!」
勇利の目が限界まで見開かれる。眼球がこぼれ落ちそうだ。ヴィクトルは辛抱強く彼の答えを待った。
「僕は………」
「うん」
「僕は……駄目だ、ヴィクトル。あなたと一緒には生きられない」
口の開け閉めを何度も何度も繰り返し、彼が喉から絞り出したのは拒絶の言葉だった。彼の声は悪路を走る車に乗っているときみたいに震えていた。ヴィクトルはひゅっと息を吸い込む。鈍器で頭をぶん殴られたような衝撃が彼を襲った。
「どうして……? どうしてなんだ、ユウリ、」
勇利は自分に好意を抱いている。ヴィクトルはずっと前から勇利の気持ちに気付いていた。最初はただの憧れでしかなかった感情に狂おしいほどの情熱と執着と透き通るような慈しみが混じるようになった。どこからかはわからない。ただヴィクトルは彼の中に生まれたものを大事に育て、道筋をつけてやった。「Yuri on ICE」。彼のスケートに対する愛とヴィクトルに対する愛は複雑に絡み合っていて、解きほぐすのは勇利のためにならなかった。
そうして彼は銀盤に唯一無二の愛を捧げた。どうしてそれを自分には与えられずにいられるのか。そんなことをすれば彼の心は瀕死に近い傷を負う。ヴィクトルは眉を潜めた。
勇利が欲しい。彼の濁りなど知らない清廉な魂に寄り添っていたい。勇利とて似たようなことを思っているはずだ。
勇利は膝に置いた手をぐっと握りしめて視線を落とした。
「……僕は一度家族の期待を大きく裏切った。お父さんもお母さんも早く孫の顔が見たいってずっと言ってる。ヴィクトルだってわかってるはずだ」
もちろんわかっている。反LGBT法を犯せば国民の多くが自分の敵に回るだろう。国の面汚しだと連日バッシングを受けるだろう。けれど。
「俺は気にしないさ。ユウリといられる幸せに比べれば些末事だ」
「僕はそんなふうには言えないよ。ヴィクトルみたいにはなれない。――絶対に」
「…………」
ヴィクトルは顔をゆがめた。もう二度と家族の期待を裏切れないと勇利は考えている。もしかしたらフィギュアスケーターとしての寿命をまっとうしたら家族のために尽くすとずっと前から決めていたのかもしれない。流されやすいように見えて彼が頑固なのはよく知っている。これ以上は平行線を辿るだけだ。それでも食い下がらずにはいられなかった。
「お前の気持ちは変わらないの? この先何年経っても?」
「この先のことは……わからない。でも、もし、もしも、」
自分たちにとって世界がもう少し優しいものになったなら、可能性は生まれるかもしれない。彼はそう言って、ヴィクトルは睫毛を伏せた。
「それなら俺は世界が変わるのを待つよ。ずっと待っているから」
ゆっくりと勇利の頬に手を添えてヴィクトルは腰を浮かした。ため息に似たキスを一度だけ交わす。キスが終わると勇利は静かに立ち上がって部屋を出ていった。ドアの閉まる音が虚しく響いた。
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