枯れていくけど寂しくないわ

お客さんの顎に剃刀を当てる瞬間はいつだって緊張する。力加減を間違えてしまわないように。肌を傷付けてしまわないように。手が震えそうになるのをなんとか抑えてくるくるくるり。海を泳ぐ魚みたいに華麗に手首を返してシェービング剤をすくい取っていく。剃り残しを発見した場合は慌てず騒がず逆剃りを実行してはい終了。熊野筆の洗顔ブラシでお客さんの顔を洗い、髭剃りは無事に完了した。
「お疲れ様でしたー」
「いやあ、ちゃんの髭剃りはやっぱり気持ちがいいねえ」
よっこらしょと上半身を起こしてうんうんと頷くのは常連客の柏木さん。定年退職をしてからは趣味の釣りに精を出している気さくなおじいちゃんだ。お世辞かもしれないけれど柏木さんが長くうちに通ってきてくれているのは本当のことで、ついつい顔がほころんでしまう。
「ありがとうございます。嬉しいです。お父さんにもその言葉、聞かせてやりたいなあ」
「あっはっは。ちゃんが立派になって、天国のカッちゃんも誇らしいだろうな」
先代の店主だった私のお父さんは去年の夏、心臓の病気を患って亡くなった。お父さんが死ぬまでは二人三脚で運営していたこの店を、今は私一人で回している。私が理容師の資格を取ってこの店で働き始めるまでお父さんとは何度も衝突した。柏木さんはその過程を知っているので、どうしても口が軽くなってしまう。彼は元々お父さんの友人だった。
会計を終わらせて外に出る。
「またのお越しをお待ちしております」
ぺこりと頭を下げて私は去りゆく柏木さんの背中を見送った。次の予約は午後の二時で少しだけ時間に余裕がある。この隙に昼食を済ませてしまおう。くるりと踵を返したその瞬間。
「――さん」
背後から名前を呼ばれた。それはずいぶんと懐かしい声だった。振り返って私は目を丸くする。
「勝生、くん……」
高校時代のかつてのクラスメイトが店の前に立っている。隣には長身でプラチナブロンドの外国人。陽光に照らされて銀色がきらきらダイアモンドみたいに光っている。ヴィクトル・ニキフォロフ。ロシアの皇帝。リビングレジェンド。
彼が長谷津にいることも、勝生くんの実家で暮らしていることも私は知っていた。たまに町中ですれ違うこともある。だからって彼とお近付きになりたいとは微塵も思わなかった。私にはそういうミーハー心というものが欠如しているらしい。
「あの、さ」
「うん?」
「僕たちの散髪、お願いできるかな?」
「いい、よ」
勝生くんと目が合う。懐かしく甘酸っぱい思い出が次々蘇ってきて、私の意識は過去に舞い戻った。


五月。春。きれいに咲いていた桜はもうだいぶ散ってしまって緑の葉っぱが目立つ季節になった。高校二年生になった私たちは新しい友人や新しい担任に慣れつつあり、女子たちの中では早くもいくつかのグループが出来上がっていた。そのグループは主に部活動における人間関係によって成立するもので、帰宅部の私は同じ帰宅部の子たちとつるんで行動することが多かった。
「体育祭についての諸々は明日のLHRの時間に話し合うからなー。みんな一応考えとけよー」
教壇に立っているのは数学担当の小木先生。私たちの担任でもある彼はおおむね好意的にクラスに受け入れられていた。小木先生は今年で二十九歳になる。この高校で教えている人間の中ではまだ若いほうだ。サッカー部の副顧問も務めていて、無駄に熱血というわけでもなく、話せばわかるというタイプ。
女子のスカート丈にいちいち目くじらを立てたりしないし、一見してわかる程度の化粧でなければ見逃してくれる。今年は当たりだと小木先生のいないところでクラスのみんなはしばしば喜んでいた。
「それじゃあ、解散。ああ、と勝生はこのあと職員室まで来るように」
窓の外をぼーっと見つめていた私は先生に名前を呼ばれて眉を潜めた。なんだろう。めんどくさいな。このあとバイトがあるのに勘弁してよ。それより勝生くんって誰だっけ。
ぐるりと教室を見回してみても勝生くんが誰なのか私にはわからなかった。HRを終えた小木先生はさっさと教室を出ていく。静けさに満ちていた教室がにわかに騒がしくなった。
「あんたなんしよったん?」
「さあ、知らない。それより勝生くんって誰」
「あの人」
話しかけてきた友人が人差し指で一人の男子生徒を示す。櫛を通しただけの黒髪に、ださい眼鏡、太眉。その姿に私は見覚えがあった。彼はフィギュアスケートをやっていて、若手の中では将来有望株らしい。何かの大会で優秀な成績を収める度に体育館の舞台で表彰されている。
勝生くんを眺めて私はへえと思った。地味だし。暗そうだし。とてもすごい選手には見えないけど。あの人がそうなんだ。
とても校則を破るような人間には見えない。私にだって校則を破った覚えはない。そんな二人が担任に呼び出された理由とはなんなのだろう。勝生くんが立ち上がり、教室を出ていく。
「私も行ってくるわ」
「頑張ってねー」
私はバッグを手に取って彼のあとを追いかけた。「失礼します」勝生くんは小さな声でつぶやくと職員室に入っていった。私も彼にならって「失礼します」と声に出す。小木先生は自分のデスクにコーヒーを用意して私たちを待っていた。
「先生、私このあとバイトがあるんで早くしてください」
「お前なあ……」
教師に向かってずけずけと物を言う私に対して小木先生は呆れていた。隣の勝生くんはあからさまにびくびくしている。男のくせに情けないったらない。私はふんと鼻を鳴らした。
「だったら単刀直入に言わせてもらうが、お前ら、これは一体どういうつもりだ?」
ぴらりと小木先生が私たちの眼前に掲げたのは進路希望調査票だった。それは二枚あって名前欄には私と勝生くんのフルネームが記されている。ただし肝心の第一志望、第二志望、第三志望の欄は空白のままだった。私は舌を鳴らす。
「プライバシーの侵害です、先生。サイアク」
「こんなもんはな、おおよその目安でしかないんだぞ。適当に書いて済ませりゃいいんだ。それなのに空白で提出とはな。嘘も方便って言葉、知らないのか?」
「知ってますよそれくらい」
私は小木先生から決して目を逸らさなかった。後ろめたさなんて私は少しも感じない。この人が言いたいこともわかる。確かに進路希望調査票なんて、自分が全然思ってもいないようなでたらめを書いて終わりにしてもよかったのだ。そうするのが賢いやり方というものなんだろう。だけど私にはできなかった。
「ああ、そうかい。じゃあ、まあ、いいよそれは。それより俺が聞きたいのは進路だ、進路。高校を卒業したらどうするんだ」
「……わかりません」
意外なことに小木先生の問いに答えたのは私ではなく、勝生くんだった。やけにはっきりした口調で、さっきまでおどおどしていた勝生くんとはまるで別人だ。私は驚いた。勝生くんはとっても力強い眼をしていた。
「わからないから、書けませんでした。今年中にはちゃんと決めるつもりでいます」
「………わかった。わかったわかった。そう言うならそれでもいいさ。わざわざ悪かったな」
行ってよしと小木先生が手を振る。私たちは頭を下げて職員室をあとにした。廊下を並んで歩く。
「私の家って床屋さんなの」
下駄箱までほんの数分の距離だった。上履きをしまって靴に履き替えながら私はなんとなく勝生くんに話しかけていた。勝生くんが「うん」と相槌を打ってくれる。ちゃんと聞いてくれるのだとわかって、少しだけ嬉しくなった。
「お客さんは男の人が中心。お父さんは私に店は継がせないって。床屋は男がやるもんで、女がやるもんじゃない。理容師よりも美容師の資格を取ってお洒落なサロンで働けってさ。そのほうがお前のためになるって。これって男女差別だよね?」
さんはお店を継ぎたいの?」
「……うん。でも言ったら絶対お父さんと喧嘩になる。馬鹿言ってんじゃねえって殴られるかも。だから、書けなかった」
三者面談で突っ込まれても面倒だ。だからって嘘を書くのも嫌だった。私は本気なのに。真剣なのに。その気持ちを嘘で塗り固めるなんてそんなの真っ平だ。
「僕は逆だなあ」
勝生くんがぽつりとつぶやく。逆って? 私が訊くと勝生くんは視線をさまよわせた。話そうかどうしようか迷っているのがわかったから、私は黙って勝生くんが口を開くのを待った。外から差し込む陽光が玄関をとろみのついたオレンジ色に染め上げている。
「お父さんのあとを継ぐよりも、やりたいことがあって」
「フィギュアスケート?」
彼の実家は温泉を経営しているらしい。私の質問に勝生くんがこくりと頷く。
「多分言えば笑って許してくれるんだろうけど、本心はどうなのかなって、不安になる。姉ちゃんがさっさと結婚して婿を取ってくれたらいいんだけど」
「そっか」
世の中はどうしてこうもままならないんだろう。父親のあとを継ぎたい私と、継ぎたくない勝生くん。私たちは正反対に位置していたけれど、とてもよく似ていると思った。面倒事を避けるために嘘をつけない不器用なところが特に。
「きっと」
「うん」
「どっちを選んでも後悔する」
そう言って勝生くんは悲しそうに笑った。そんなことないよと私は言えなかった。勝生くんの葛藤は勝生くんだけのもので、私には到底理解できるはずがないのだから。
玄関を出たところで私たちは別れた。勝生くんは真っ直ぐ校門に向かい、私は自転車置き場を目指す。その途中、私は衝動に駆られて踵を返した。
「勝生くん! また明日!」
声を張り上げて彼の名前を呼ぶ。勝生くんが振り返り、目を丸くした。また明日! もう一度叫ぶと彼は照れ臭そうにふにゃりと笑って、小さく手を振ってくれた。私はよしと拳を握る。何がそんなに嬉しいのかわからないけれど、胸は確かに弾んでいた。


七時になった。揚げたばかりのコロッケを並べ終えた私は隣にいた店長に声をかける。
「店長、時間になったので上がります。お先に失礼します」
「ああ、お疲れ。明日もよろしく」
「はい」
形ばかりの会釈をしてスタッフルームに直行。スタッフルームでは休憩中の先輩ともうすぐシフトに入るはずの先輩がぺちゃくちゃとお喋りしていた。どちらも大学生の男の人だ。私はさっさと着替えを済ませて彼らにも頭を下げる。
「失礼します」
「おー、お疲れー」
「気を付けてな」
ひとつ頷いて外に出た。ずっと揚げ物をして汗ばんだ肌に吹きつける外の風が気持ちいい。ゆっくりと息を吸って吐く。お腹が減った。早く晩ご飯が食べたい。駐輪場に置いてある自転車に鍵を突っ込んでサドルにまたがる。ペダルを回して走り出そうとしたその瞬間、ブレザーの胸ポケットに入れてある携帯がヴーヴーと震えた。お母さんからの電話だった。
「もしもし?」
、あんた今どこにいるの? バイトは終わった?>
「うん、そう。今から帰るところ。何? どうかしたの?」
<それがねえ、祥子がお友達とスケート場に行ったまま帰ってこないのよ。ちょっと寄ってみてくれない?>
「スケート場ってアイスキャッスルだよね? ん、わかった。行ってみる」
私と妹の祥子は七つも年が離れている。まだ小学生の祥子の門限は六時だ。祥子は親の言い付けをむやみに破ったりするような子ではない。門限を一時間もオーバーするなんてあの子に何かあったのかもしれない。心配だ。
私は自転車で走り出した。ペダルの回転数がぐんぐん上がる。アイスキャッスルはせつに着いたとき、私の息は切れ切れになっていた。脇腹が痛むし背中は汗でびしょびしょだ。あんまりにも暑くて途中でブレザーを脱いでしまった。あとであせもが出来ないことを祈る。
建物の中に入って受付カウンターに近付く。カウンターの向こうには見覚えのある女の子が立っていた。
「あれ、ちゃん?」
「優子先輩………?」
私も彼女も目を丸くする。優子先輩とは同じ委員会に所属していたので面識がある。
「ここでバイトしてたんですね」
「そうだよ! っていうか前にちゃんに話したことあるよね?」
「ごめんなさい、忘れてました」
「ひどいなあ」
ころころと鈴の音を転がすように笑う。かわいくて気立てがよくておっぱいが大きい優子先輩は学校のマドンナみたいな存在だった。彼女を狙う男子は大勢いたけれど、彼女が誰かと付き合ったとか別れたとかそういう噂を耳にしたことは今まで一度もない。
ちなみに私の顔面偏差値は高校に入学してから二回ほど告白されたことがあるレベル、だ。
「あの、うちの妹がここにいると思うんです……。門限過ぎてるから迎えに来ました」
「ああ、祥子ちゃん! 藍子ちゃんにそっくりでかわいいよね。特に目がぱっちりしてて……っていうか、門限過ぎてるんだ! うわあ、ごめんね! ほんっとにごめん! こっちこっち」
優子先輩に手招きされて私はスケートリンクへとつながる通路を歩く。汗だくの体が一気に冷えていく感覚に私は身震いした。さむ。カゴにブレザーおきっぱにしないで持ってくればよかった。
「ほら、あそこ」
優子先輩が指を差す。そこに祥子と祥子の友達がいた。数は全部で三人。みんな私たちには気付かず、夢中になって何かを見つめている。面白いものでもあるんだろうか。私は彼女たちの視線を辿ってはっとした。
スケートリンクの中央に先程学校で別れた勝生くんがいた。シンプルな黒のシャツ、黒のズボンという出で立ちで、手には専用の手袋をはめている。
勝生くんは私たちの視線など意に介さず優雅にスケートリンクを滑っていた。弧を描くように視界を横切っていく。ふっと彼が身を沈めた。そして――跳躍。三回転のジャンプをきれいに決めて着氷する。削れた氷がきらきらと輝いた。私は大きく目を見開く。何かを言おうとして、でも何も言えなくて口を閉じる。これは、何。私が見ているのは、誰。
ここは無音のはずだ。静寂が場を支配しているはずだ。それなのに私の耳には音楽が聞こえてきた。リズムを刻むような軽やかなステップにぴったりなアップテンポの曲。会場に響き渡る手拍子。目の色も肌の色も髪の色もまったく違う人々が、勝生くんの演技に魅了される。興奮に頬を染めて、瞳を潤ませて、スタンディングオベーションをしたくてうずうずしている。そんな光景がまぶたの裏に見えた。
「…………迷う必要、ないじゃん」
だってあんなに上手なのに。あんなにきれいなのに。こんなにも私の心を震わせているのに。好きで好きでたまらないんだって、見ているだけで伝わってくるのに。家族の気持ちを慮って、周囲の期待に押し潰されそうになって袋小路にはまってるなんて、馬鹿みたい。すっごく馬鹿みたい。
「かっこいいなあ」
本当にかっこいいなあ。自分の技術をとことんまで磨きたいっていう向上心がある人に私は憧れる。そういう人に私自身がなりたいのだ。
「あ、お姉ちゃん!」
ようやく私に気付いた祥子があっと声をあげる。どうやらうちの門限が何時までか思い出したらしい。泣きそうな顔をして謝ってくる祥子の頭を私は撫でてあげた。
「お母さん、怒ってないから大丈夫だよ。ただ心配させたことはちゃんと謝りな。私からも説明してあげるから」
「うん……ありがと、お姉ちゃん」
勝生くん。勝生勇利くん。ただのクラスメイトでしかなかった男の子の存在が私の心に深く刻み込まれた瞬間だった。
翌日から私たちは目を合えば挨拶を交わすようになったし、ちょくちょく話すようにもなった。ただのクラスメイトがちょっとだけ親しいクラスメイトになった。私たちの交流は本当にささやかでひっそりとしていたので、周囲から囃し立てられることもからかわれることもなく続いた。


夏が来た。夏といえば花火の季節だ。バイトの人たちが集まって花火をするというので、私も参加することになった。集合場所はもちろんコンビニ前である。全員が集まるのを待っている間に、私たちはコンビニで花火とお菓子を見繕った。店長は「ここは俺が出しといてやる」と言って代金をただにしてくれた。よ、店長太っ腹! 日本一! 店長大好き! みんなが囃し立てると店長は「うるせえ。さっさと出てけ」と素っ気ない態度を取ったけれど目は笑っていた。
外に出る。先輩たちがげらげら笑い転げながら、花火だ花火だとはしゃぐ。全員が集まると私たちは砂浜を目指した。街灯の少ない暗い道を歩いていく。海は少し遠かったけれど歩いているだけでとにかくおかしくて、楽しくて、そんなのは全然苦にならなかった。
「よっしゃ! 火ぃつけろ! 火!」
海に着いた私たちは早速花火を開始した。赤、黄、緑、白、青。闇の中に色が弾ける。鮮やかな色彩が脳裏に焼きつく。火の粉が散る。熱いしけむたい。でもそんなのどうでもよくなるくらいにきれいだ。
「うわ、ばっかてめえ!」
「逃げろー!」
誰かがネズミ花火に火をつけた。恐ろしい速度で熱い火の塊がこちらに襲いかかってくる。私は大口を開けて笑いながら走った。夢中に走っていたのでネズミ花火の命が尽きたことも、みんなの笑い声が遠くなったことにも気付かなかった。
ふと振り返って私は驚く。遠くてあんまりにも暗くてみんなの姿が見えなくなっていた。花火に照らされて手首や顔がちらちら映し出されるけれど全身を肉眼でとらえるのはひどく難しい。みんなのいたところに戻ろう。私が踵を返そうとしたとき、ワン! と犬の鳴き声が聞こえた。私は辺りを見回す。
「………勝生くん?」
1メートルくらい離れたところに勝生くんらしき人影が見えた。私はじっと暗闇に目を凝らす。砂浜に膝を抱えて座り込んでいる勝生くんの隣に茶色のプードルがいた。首輪にリードがつながっていて行儀よくおすわりしている。プードルは尻尾を千切れんばかりに振っている。勝生くんの手にはつけっぱなしの懐中電灯が握られていて正面をぼんやりと照らしていた。
私が声をかけると人影が動いた。膝に埋めていた顔を勝生くんが上げる。視線がぶつかった。ずず、と鼻水をすする音。
、さん」
あ、泣いてる。勝生くんの声を聞いて私は一発でわかってしまった。どうしよう。気まずい。かといってあからさまに無視するのもどうかと思う。どうしよう。どうしよう。どうしよう。
「もしかして向こうで花火やってたの、さん?」
「う、うん」
話しかけられて私はぎこちなく頷いた。闇の中で「そっかあ」と勝生くんが微笑む気配がする。
「楽しそうだね」
「楽しい、よ。うん。楽しい」
迷って、逡巡して、ためらって。私はえいや! と一歩を踏み出した。大股で歩きちょっとだけ距離を空けて勝生くんの隣に座る。ずずずず。また鼻水をすする音。私は彼にかける言葉が見つからず黙って海を眺めた。耳を澄ませばやわらかな波の子守歌が聞こえる。見上げれば満天の星が見える。幾千幾万の宝玉に負けず劣らず光り輝く無数の白い粒。私は急に悲しくなった。
今日はいい夜だよ。こんなに素敵な夜なのにどうして君は泣いてるの。そう言えればいいけれど、そこまで踏み込んだらきっと彼を傷付ける。ただでさえ傷付いている彼を追い詰める真似はしたくない。だから私は沈黙を守った。しばらく波の音と勝生くんの嗚咽だけを聞いていた。やがてすすり泣きは止まった。
さん、みんなのところに戻らなくていいの?」
「……も、どったほうが、いい?」
「………………」
「………………」
私は段々と居たたまれなくなってきた。勝生くんは明らかに私を気遣っている。というか、なんでこの人僕の隣から動かないんだろうと不思議に思われているに違いない。そもそも泣いている現場を異性のクラスメイトに見られるなんて最悪の事態のはずだ。でも、だって、私は、私は。
「失恋、しちゃったんだ」
「え!?」
声が裏返った。死にたい。両手で顔を覆って砂浜に寝転がりたい衝動を私は必死にこらえる。なんでそんなことを急に話す気になったんだろう。というか勝生くんには好きな人がいたのか。なんだ。そっか。そうかあ。
「ずっと好きだった。明るくて、優しくて。でも、妊娠してるって聞いて、」
「え、相手いくつ?」
「僕たちのふたつ上」
「……いつ産まれる予定?」
「今年の11月だって。父親は僕の幼なじみみたいな奴で……だから、二人が幸せになるのは嬉しいんだ。嬉しいのに、辛くて、辛い」
「うん………」
その痛みは私にもわかる。好きな人がこっちを見てくれないのは辛い。好きな人の視界に入ってもいけない自分が惨めで情けなくなる。ねえ、勝生くん。どうしてそんな話を私にするの。どうして話してくれたの。そんなことをされたらますます辛くなる。
さん、結局お父さんのお店を継ぐって聞いたけど、本当?」
話題が変わった。私はぱちぱちと瞬きをして肯定する。
「継ぐ」
「お父さん、認めてくれたんだ」
「んー、まあ、渋々折れたって感じ。ちょこちょこ接客してお客さんを味方につけて泣き落としとか土下座とか喧嘩とかいっぱいやったよ。正直説得にはもっと時間がかかると思ってた………勝生くんは、進路、決まった?」
「留学しようと思ってる。向こうでスケートを続けたいなって」
「………そう」
いつか長谷津に帰ってくるつもりはあるのか。聞こうとしてやめた。勝生くんがスケートを続けてくれるのは嬉しい。でも失恋をきっかけに彼が留学を決めたのだとしたらとても悲しかった。ねえ勝生くん。それは現実逃避と何が違うの。もうここにはいたくないほど君は深く傷付いたの。自分のことを誰も知らない土地に行けば君の傷は塞がるの。
違うでしょう。そうじゃないでしょう。後悔したくなくて勝生くんは迷ってたはずなのに、そんな選び方じゃあまた余計な後悔が増えるだけだ。
「私、応援してる。勝生くんのこと。……あのさ、」
「うん?」
「こっちに帰ってくることがあったら、お店に来てよ。ただで切ってあげるから」
「……ありがと」
私が差し出した手を勝生くんは握ってくれた。大きくて、骨張っていて、温かな手だった。それから高校を卒業するまで、高校を卒業してからも私と彼の関係はただの親しいクラスメイトのままだった。
勝生くんがアメリカに発つと風の噂で聞いたのは専門学校に入学して半年ほど経ったある日のことだった。私は誰にも何も言わずに空港まで見送りに行った。
大きなトランクを引いてリュックを背負って飛行機に乗り込む勝生くんを私は遠くから見ていた。それから展望室に移動して勝生くんが乗った便が発進するのを待った。
銀色の機体を鈍く輝かせながら、飛行機雲を青空に滲ませながら、勝生くんを乗せた飛行機が去っていく。その日、私はちょっとだけ大人になった。


「予約もしないで押しかけてきてごめんね、さん。ヴィクトルがどうしても行きたいって聞かなくて」
「気にしなくていいよ。ふらっとやってくる常連のお客さん、多いから。それで閑古鳥が鳴きそうだから店の売上に貢献してやるって偉そうに言うの。笑っちゃうよね。っていうか……ねえ、この人の髪、本当に私が切っても大丈夫なの?」
髪を切ってくれというので二人の頭を洗って椅子に座らせたけれど、正直恐ろしい。リビングレジェンドの頭髪は気後れするほど手触りがよかった。上質のシルクを触っているような感触で私みたいな未熟者が手を加えていい頭ではない。お抱えのスタイリストがいたってちっとも不思議ではないのだ。当事者は日本語がわからないらしく、にこにこしながら「!」と私の名前を連呼している。オウムみたいだ。
「うーん、まあ、いいんじゃないかな、本人の希望なんだし」
「わ、わかった……」
久しぶりに鋏を持つ手が震える。私は先に勝生くんのカットを終わらせることにした。全体的に髪をすいて襟足ともみあげと前髪を2センチほど短くしてほしい。それが勝生くんの希望だ。
「まさか来てくれるとは思ってなかった。こっちに帰ってきてるのは知ってたけど」
「思い出話をしたんだ。ヴィクトルと。それで、思い出した。清水さんのこと」
つまり海辺で交わしたあのときの会話は勝生くんにとって単なる社交辞令でしかなかったのだ。この人はそういう人だと私はどこかでわかっていた。その事実にショックを受けるほど私は子供ではないし、勝生くんよりいい男は星の数ほどいるともう知っている。でも、だからこそ、確かめてみたい。
「ねえ、どうしてあのとき私に話してくれたの。失恋したこと」
「なんで、かなあ」
シャキン、シャキンと鋏が鳴る。
「多分、だけど」
「ん」
「あのとき僕はすごく寂しくて、世界に一人だけ取り残されたような気がしてて、」
自分がものすごく凹んでいるときにやけに浮かれた集団がやってきて花火を始めたら誰だってそうなるかもしれない。
「だから、さんが僕を見つけてくれたことが、嬉しかったんだ。あとはなんとなくさんのことをすごいなって思ってて」
「すごい? どこが?」
「僕よりずっと強くて、自分の夢に真っ直ぐだった。だからさんに話せば吹っ切れるかなって」
「そ、っか」
その言葉が聞けただけで十分だった。誰にも話せないやり場のない気持ちを吐き出せる都合のいい相手がたまたま私だっただけなのかもしれない。でも、もう、いい。あのとき、あの場所にいた私が少しでも勝生くんの救いになれていたなら、それだけであの頃の私は報われる。
「ねえ、もうひとつ質問。勝生くんはこれから幸せな恋愛ができそうですか?」
勝生くんがちらりと隣にいる男を見やった。頬に赤みが差す。彼は照れ臭そうに頷いた。
「………うん。幸せになれると思う」
やっぱり。町のみんなが噂してたのは本当のことだったんだ。でも勝生くんがいいならいいんじゃないの。私が彼を見つけたみたいにヴィクトルも彼を見つけた。私よりもよっぽど勝生くんに相応しい。だってとても優しい眼をしてる。
とりあえずあとで二人のサインをもらおう。シャキン。私はもう一度鋏を鳴らした。


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