神様の向うずねをけっとばせ!

わたしには昔から自慢できることがいくつかあった。わたしのパーパは大きな貿易会社の社長だし、マーマは有名ブランドで働くジュエリーデザイナーだ。パーパとマーマは美男美女でお似合いだし、結婚して十五年以上経っているのに今でも熱々だ。あんまりにも仲良しすぎてたまにあてられてしまうくらい。
友達をうちに招待するとみんながわたしを羨ましいと言う。わたしがかわいくて恵まれているから。エメラルドグリーンの瞳はチャーミングだし、肌は血管が透けるほど白い。一ヶ月に一度サロンに通っているからキャラメル色の髪はいつもつやつやしてる。欲しいものはなんでも買ってもらえるし、パーパとマーマはわたしをべたべたに甘やかしてくれる。
でも友達がわたしを羨ましがる最大の理由はうちがお金持ちだからじゃない。うちのお隣さんがあのヴィクトル・ニキフォロフだからなの。
フィギュアスケート界の神様。ロシアの皇帝。リビングレジェンド。大きな大会で何度も優勝して国に金メダルをもたらした彼はわたしたちにとって憧れだ。ロシアの女の子は一度は必ずヴィーチャに恋をしてしまう。
演技をしている彼は思わず目が眩むくらいきらきらしていて輝いている。さらさらの銀髪も長い手足も高い鼻も何もかもが魅力的。そんな人が隣に住んでいたらわたしが自慢したくなるのも無理はないでしょう?
ヴィーチャの容姿は確かに整っているけれど彼のいいところはその人柄なの。彼はみんなに親切だしとても優しい。
外ですれ違うとヴィーチャはわざわざ腰を屈めてわたしと目線を合わせてくれる。それから挨拶を口にして赤い薔薇の花束よりも情熱的で素敵な言葉でわたしを褒めてくれる。彼にそうされるとまるでお姫様になったみたいでわたしはすっかり浮かれてしまう。そう、ヴィーチャはわたしを子供じゃなくて一人前のレディとして扱ってくれる。わたしは彼の自分に対する接し方から淑女の何たるかを学び、気高さと道徳と親切を学び、ゆくゆくは彼のように素晴らしい人間になりたいと思っていた。
わたしのパーパとマーマもヴィーチャとはいい関係を築いていた。マーマは彼を何度もディナーに招待したし、わたしたちが彼に招待されることもあった。わたしの初恋はヴィーチャに捧げたし、恋心を抜きにしてもわたしは彼が大好きだった。でもある日を境にわたしはヴィーチャが隣に住んでいるという事柄を自慢できなくなってしまった。むしろそれは忌み嫌うべき醜悪な事実へと成り果てて、わたしたちとヴィーチャの関係は大きく変わってしまった。


目覚まし時計がけたたましく鳴っている。まるで非常ベルみたい。もっと眠っていたいのにうんざりしちゃうわ。わたしは緩慢に上半身を起こして両手をぐっと天井に伸ばした。口から自然とあくびがこぼれる。
昨日は夜遅くまで親友のナターシャと電話でお喋りしていたから少しだけ寝不足。重いまぶたをこすりながらわたしはベッドを降りてクローゼットを開けた。わたしが通っている学校には制服がある。わたしは毎朝着ていく服に悩まなくていいから制服が好きだけれど他のみんなはそうじゃないみたいで事あるごとに制服を廃止してくれと校長先生に訴えている。その訴えが聞き入れたことは今まで一度もないし、これからだってそうに決まってる。
制服に着替えるとわたしは真っ白な鏡台の前に腰掛けた。使わないときは閉じてある三面鏡を広げてブラシを手に取る。今日はどんな髪型にしようかしら。少し考えてそうだわ! と膝を打った。髪の毛をねじってハーフアップにしてみよう。
わたしは鼻歌を歌いながらブラシで髪を梳くと引き出しからお気に入りのバレッタを取り出した。それはリボンの形をしていて真ん中にはCHANELのマークがついている。一昨年の誕生日プレゼントにパーパからもらった品だ。わたしはバッグが欲しかったのにパーパったら何を聞き間違えたのか、バレッタを買ってきてしまった。それでも大切な宝物には変わりない。
髪のアレンジを終えると丁度朝食の時間だった。わたしは部屋を出て洗面所に向かう。洗面所に入ると髭剃り中のパーパと出くわした。
「おはよう、パーパ。顔を洗ってもいいかしら?」
「おはよう、。もちろんどうぞ」
パーパが横に一歩ずれる。わたしは洗面台の前に立ってパシャパシャと顔を水で濡らした。
「もっと寒くなったら水道管が凍るようになるわね。ベッドから出るのが大変だから冬は嫌いよ」
の言う通りだ。パーパも今くらいの季節が一番好きだな」
今の季節は秋。サンクトペテルブルクはどこもかしこも輝くような黄金色と燃えるような赤色に染まっている。晴れている日は抜けるような青空に化粧替えしたイチョウやモミジが映えてとてもきれいだ。
「さ、早く行かないとマーマが怒り出すぞ」
「はあい」
髭剃りを終えたパーパに背中を押されてわたしは洗面所を出た。リビングに入るとわたしたちの朝食は既に用意されていて、マーマは椅子に座って新聞を読んでいた。
「おはよう、マーマ」
「おはよう、僕のきらきら星さん」
「おはよう、。おはよう、私のわんぱく坊主さん」
マーマはわたしのほっぺにキスをしてからパーパの唇にもキスをした。それがどんなキスだったかなんてわたしからはとても言えないわ。ただ濃厚で熱烈なのを一発かましてくれたってことだけは確かよね。二人が幸せそうなのは嬉しいけれど年頃の女の子がいるんだからもう少し慎みってものを持ってほしいわ。
朝の挨拶を終えるとわたしとパーパは自分の定位置に腰を下ろして食事を始めた。今日の朝食は目玉焼きとトースト。それから干した果物がたっぷり入っているカーシャだった。パーパとマーマが政治とか経済とかわたしにはまだ難しい話をしている間、わたしが考えているのはもっぱら気になる男の子のこと。それから三日後に行われる歴史のテストのことだったり、最近ネフスキー大通りにできたお洒落なカフェーのことだったり色々だ。
わたしがぼんやりしている間にいつの間にかお皿の中身は空っぽになっていて、出掛ける時間が近付いてくる。パーパにはお抱え運転手がいて名前はイヴァンというけれどわたしたちは彼のことをイヴァと呼んでいる。毎朝イヴァが車でパーパを迎えにくるからわたしも一緒に乗せてもらって学校の前で降ろしてもらう。帰るときはやっぱりイヴァが学校の前で待っててくれてわたしを家まで送ってくれるのだ。
わたしは時計をちらりと一瞥すると空になったお皿をシンクに運んだ。自分の部屋からリュックを取ってきてリビングでお喋りに夢中になっているパーパに声をかける。
「パーパ、マーマと少しでも長く一緒にいたいのはわかるけどそろそろ出ないと遅刻よ」
「ああ、すまないね! 行ってくる」
「行ってきますマーマ!」
「行ってらっしゃい! 二人とも素敵な一日を!」
マーマの投げキッスにわたしも投げキッスを返して外に出た。わたしの家は高級住宅街にあるアパルトメントの一室で部屋の窓からはネフスキー大通りを行き交うたくさんの人とフォンタンカ運河が見下ろせる。さっき部屋を出る前に確認したらアパルトメントの正面にパーパの車が停まっていた。イヴァはいつでもわたしたちが出掛ける十五分前にはここに来てわたしたちを待っている。
「ああ、いけない!」
早足で廊下を歩いていたら突然パーパが立ち止まった。その急な動きについていけず、わたしはパーパの背中に顔から思いきり突っ込んでしまった。
「どうしたのよパーパ」
「財布を忘れてしまった。お前は先に車に乗ってなさい。パーパもすぐに行く」
「わかったわ」
パーパが来た道を戻っていく。わたしはやれやれと肩をすくめてエレベーターの正面に立った。ボタンを押して一階からエレベーターが上がってくるのをじっと待つ。チンと音がして扉が開いた。わたしは息を呑む。エレベーターの中にはヴィーチャとユウリがいた。朝のランニングを終えて帰ってきたのか二人とも軽く汗をかいている。
ヴィーチャとばっちり目が合ってしまった。おはようと言いかけてわたしは慌てて口をつぐむ。
「おはよう、! その髪型とても素敵だね。少しだけ大人びて見えるよ。自分でやったのかい? それともマーマにやってもらった?」
「……馴れ馴れしくなんて呼ばないで。わたしの名前はよ」
ありがとうヴィーチャ。褒めてもらえて嬉しいわ。あなたも相変わらず素敵ね。隣の彼の神秘的な黒曜石の瞳も魅力的だわ。
そう言えたらいいのに今のわたしにはできない。二人に話しかけられても決して口を利いてはいけないとパーパとマーマに厳しく言われているから。会話しているところを見られたらきっとものすごく叱られる。
わたしは両手をぎゅっと握りしめた。二人の視線から逃れたくて下を向く。
パーパもマーマもヴィーチャとあんなに仲良くしていたのに、今は二人とも彼のことを蛇蝎のごとく嫌っている。ヴィーチャがユウリと暮らし始めてパーパたちの態度はがらりと変わった。
家の中であいつは売国奴だとか神様の掟に背いた罪人だとか口に出すのもためらうような汚い言葉でヴィーチャを貶める。彼らが同性愛者であるというたったひとつの理由で。
ヴィーチャが本当に男の人を好きなのかは知らない。でもユウリといるときの彼はすごく幸せそうで甘ったるい雰囲気をまとっているからそうなんだろうと思う。
わたしには何が正解なのかわからない。聖書では同性愛が禁じられているけれど、今のローマ法王は同性愛者にも理解を示しているという話だし、ユウリと暮らし始めてもヴィーチャはヴィーチャのまま何も変わらなかった。
フィギュアスケートを心の底から愛していて、わたしがどんなにひどい態度を取ったって笑顔で許してくれる。今だってそう。わたしが彼を拒んでもやわらかく微笑んで「すまなかったね、つい癖で」と謝ってくれる。隣のユウリはあからさまに顔をしかめている。
ひどいのはわたしのほうなのに。謝るべきはわたしのほうなのに。この国の法律はわたしではなく彼らを悪にする。ねえ神様。ねえパーパ。ねえマーマ。ヴィーチャとユウリが本当に罪びとならどうして二人を見て羨ましくなるのかしら。どうして泣きたくなるのかしら。どうして素っ気ない態度を取ることに罪悪感を覚えるのかしら。
わたしはまだヴィーチャのことが大好きで。大好きなのに正反対の対応をしなくてはならないのがとても苦しい。ヴィーチャがずっと飼っていたマッカチンが亡くなったとき、わたしは彼を慰めることも花を供えることさえできなかった。マッカチンはヴィーチャと同じようにわたしの親友だったのに。
ユウリとだって話をしてみたい。彼はヴィーチャと同じフィギュアスケーターだからわたしの知らないヴィーチャをたくさん知っているはず。
でもわたしは意気地なしで。パーパたちに嫌われるのが怖いから本当の気持ちを隠して彼らに冷たく当たるしかない。
「どいてよ、わたしエレベーターに乗りたいの」
エレベーターに乗り込む。扉が閉まって二人の顔が完全に見えなくなる。一階に着くまでわたしは唇を噛んで涙を必死にこらえていた。


学校に着いて授業が始まってもわたしは朝の出来事を忘れられなかった。頑なに目を合わせようとしないわたしにあの二人はどんな感情を抱いたのかどうしても気になってしまう。いい気持ちはしなかったはずだわ。
あの二人はわたしよりもずっと大人で感情を隠す術に長けている。彼らは自分たちが傷付いても上手に隠してしまう。おくびにも出さない。ヴィーチャは笑っているしユウリは感心しないというふうに眉を潜めるだけ。彼らが傷付くところを目の当たりにすればわたしがもっと傷付くから。彼らが平然とした態度を取るのは本当に平気だからじゃなくて全部わたしのためだってわかってる。あの二人はきっと私の迷いを見抜いてる。
わたしは今だってヴィーチャに特別甘やかされている。子供は大人に甘やかされるものだとヴィーチャなら言うかもしれない。でも優しさを差し出してくれる相手に拒絶と無視しか返せないなんて最低じゃないの。「」弱い自分が惨めで悔しくて情けなくて頭がおかしくなりそう。
もっと嘘が上手ならよかった。
もっとヴィーチャが高慢で嫌味で鼻持ちならない男性ならよかった。
そしたらわたしだって心の底から彼らを軽蔑できたのに。彼らを嫌いになれたのに現実はそうじゃない。「」だからわたしは出来るだけあの二人から距離を取って関わらないようにしなくちゃいけない。これまで以上に彼らと接触しないように気をつけなくちゃいけない。そうすれば彼らを傷付けなくて済むでしょう?
!」
「はい!」
上の空だったわたしは先生に大きな声で名前を呼ばれ文字通り椅子から跳び上がった。わたしの大げさな反応にみんながくすくすと笑う。わたしはおそるおそる先生の顔を見上げた。
「さっきから何度もあなたの名前を呼んでいたのだけれど」
「すみません、先生……」
ああ、もう、最悪。先生がまなじりをきっと吊り上げてわたしを睨んでいる。どうか居残りだけにはなりませんように! わたしは心の中で必死に神様に祈った。その祈りが通じたのか先生は「二度はありませんからね」と釘を刺すだけに留めて授業を再開した。
わたしがほっと胸を撫で下ろしているとくしゃくしゃに丸められたメモ用紙が横から飛んできた。わたしは隣を見て息を止める。ルドルフ・ハルトマンが片目をつむりながらしーと人差し指を唇に当てている。その恰好が様になりすぎていてわたしは眩暈を覚えた。
ハンサムで勉強ができて誰に対しても親切でアイスホッケーチームのキャプテンでもあるルドルフはこの学校の人気者で女の子たちの憧れの的だ。それに彼のお父さんは神父さんで家柄にしても申し分ない。もちろんわたしも彼のことが好き。彼の隣の席を勝ち取れたときは天にも昇る心地だった。
そんなルドルフからメモをもらうなんて! わたしはどきどきしながら折り畳まれた紙片を開いた。

――お気に入りの君をヘス先生が注意するなんて珍しいね。君は数学が得意だから。

わたしは少し考えてからメモ用紙にペンを走らせルドルフに渡した。

――確かに数学は好きだけれど、贔屓されているという気はしないわ。ヘス先生は誰に対しても厳しいじゃないの。
――このクラスでヘス先生の居残りを食らってないのは僕と君とカシュペロワの三人だけだぜ! まあ、それはいいや。君一体何を考えてたんだい?
――それは……その……大したことじゃないの。ただ来週の歴史のテストが心配で。わたし、歴史は苦手だから。
――へえ、歴史が苦手なんて初耳だ。僕は歴史が得意なんだけど、よかったら図書室で放課後一緒に勉強しないかい? 今日はどうかな?
――今日は……無理だわ。迎えが来るもの。明日ならなんとかなると思うんだけど。
――じゃあ、明日で決まりだ。楽しみにしてるよ。
――ええ、ええ! わたしも楽しみ!

彼と二人きりで勉強だなんて心臓から口が飛び出そう! 明日が待ち遠しくてたまらない! これってとびっきりのチャンスじゃないかしら!?
そもそも向こうから誘ってくるなんて思わせぶりにもほどがある。これで明日何も起きなかったらがっかりどころか軽蔑するわ。学校の女の子みんなにルドルフは不能だからやめておきなさいって言い触らしてやるんだから。
わたしはすっかり舞い上がって、束の間ヴィーチャとユウリのことを忘れた。少し前までわたしをさいなんでいた罪悪感はきれいさっぱり消えてしまって、わたしは授業が終わるまでルドルフとの筆談に夢中になっていた。


授業の終了を告げるチャイムが鳴る。「今日はここまで」と言って先生が教科書を閉じるのを待ってわたしたちは席から立った。楽しい放課後の始まりだ。
ナターシャとぺちゃくちゃお喋りをしながら廊下を歩く。ロッカーに教科書をしまいながらルドルフのことを話すと彼女はわかりやすく目を輝かせた。
「やったじゃない! このチャンスを逃しちゃ駄目よ!」
「ええ、もちろんよ。どんな手を使ってでも彼の気を引いてやるわ」
「しっかりね! 電話ちょうだい!」
ナターシャは激励とばかりにわたしの背中を叩いて部活へと向かった。彼女の背中を見送ってわたしも足取り軽く学校を出る。駐車場でイヴァがわたしを待っていた。
「ただいま、イヴァ」
「お帰りなさい、お嬢様」
イヴァがドアを開けてくれる。わたしが後部座席に乗り込んでシートベルトを締めると運転席に座ったイヴァが車のキーを回した。低いエンジン音が空気を震わせる。間を置かずに車が発進する。わたしは窓を少しだけ開けた。
「……安心しました」
ぼーっと窓の外を眺めていたわたしは話しかけられて顔を正面に戻した。バックミラー越しにイヴァと目が合う。
「何? よく聞こえなかったわ。もう一度言って」
「お嬢様の顔を見て安心しました。朝は浮かない顔をなさっていたのでお父様と喧嘩でもしたのかと」
「……わたし、そんな顔してた?」
「ええ。お父様も心配されていましたよ」
「そう……なのね。でもわたしは大丈夫よ。心配されるようなことは何もないから。ただ、ちょっと……難しいの。いろんなことが」
「お嬢様くらいの年齢ですと、そういうこともあるでしょうね」
イヴァの言葉には含み笑いが混じっていてわたしは安心した。わたしが暗い顔をしていた理由なんてイヴァにはとても話せない。イヴァに話したら確実にパーパに伝わってしまう。そうすることがイヴァの義務だから。パーパはきっとあの二人に同情するなんて馬鹿げてると悪魔に憑りつかれたみたいに怒り狂うに決まってる。
そんなパーパは見たくない。どんなに思い悩んだって今のわたしには沈黙を守ることしかできない。歯がゆくて、もどかしくて、頭がおかしくなりそうでも、パーパたちとわたしの間に埋められない溝が出来るよりはずっといい。
イヴァなら理解してくれるかもしれないなんて期待しちゃ駄目。絶対に駄目。帰りの車の中、本音を打ち明けたいという衝動を抑えるのにわたしは必死だった。やっと家に着いて車から降りられたときは嬉しくてたまらなかった。
玄関のドアを開ければメイドのソフィーがわたしを温かく出迎えてくれるはず。お日様の匂いと彼女が焼いてくれるクッキーの香ばしい匂いがくたくたのわたしを慰めてくれるはず。わたしはイヴァにさよならと手を振って走り出した。全力疾走でエントランスを駆け抜ける。その勢いのままエレベーターではなく階段に突進。二段飛ばしで駆け上がる。目指す階に辿り着いたときには息切れが激しくて自分の運動不足を痛感させられた。
最近ちょっぴりお腹が出てきたような気もするし筋トレをしたほうがいいのかも。わたしはハアハア喘ぎながら歩を進める。視界の端に白い何かが飛び込んできて足が止まった。A4サイズくらいのコピー用紙がヴィーチャの部屋の玄関扉にべたべたと貼りつけられている。何枚も、何枚も。白い紙に埋もれて扉が見えない。
「何、これ……」
わたしは震える指でコピー用紙に触れた。
――磔の裁きを受けろ!
――出て行け!
――売国奴め! 恥を知れ!
コピー用紙には大きな文字でありとあらゆる罵詈雑言が書かれていた。ロシア語も英語も思わず目をふさぎたくなるような下品なスラングも混じっている。わたしは呆然とした。
「何よこれぇ……っ」
ひどい。ひどい。ひどいひどいひどいひどい。こんなの、あまりにもひどすぎる。ここまでされるほどの何をヴィーチャたちがしたっていうの。どうしてここまでヴィーチャたちが憎まれなければいけないの!
衝撃が大きすぎて自分が悲しいのか憤っているのかそれさえもわからない。ただわかっているのはこれをあの二人には見せてはいけないということだけ。わたしは慌てて涙をぬぐった。泣いてる暇なんかないわ。早く全部はがしてしまわないと。
コピー用紙を引っ張ったらびりびりと嫌な音がして真っ二つに千切れてしまった。犯人はテープではなく接着剤で用紙を扉にくっつけたらしい。わたしは慌ててリュックの中を漁った。カッターを取り出して扉を傷付けないよう、固まっている接着剤に慎重に刃を当てる。
「ふ、うう、っく、ひっく……っ」
接着剤を削っている間、目から勝手に涙があふれてきて止まらなくなった。犯人はきっとこのアパートの住民に決まってる。頭の中がぐちゃぐちゃになる。誰も疑いたくなんてないのに誰かがこれをやったのは確実で。複数人の犯行という可能性だってある。いつも陽気なトニーおじさん? それともかわいらしいダリヤが? もしパーパとマーマだったらわたしはどうしたらいいの。
泣きながら作業していたわたしは自分の背後に忍び寄る気配に気付かなかった。
「――何をしているの? リタ」
その声が聞こえた瞬間、心臓が凍った。呼吸も止まった。わたしは振り返る。大きな紙袋をふたつ。両手に抱えたヴィーチャがわたしを見下ろしている。紙袋からはバゲットが飛び出していて彼が買い出しから帰ってきたのだとわかった。
ヴィーチャを見て、自分の足元に落ちているコピー用紙を見て、もう一度ヴィーチャを見る。全身が大きくわなないた。
「ち、ちがう、ちがうの、わたしじゃ、わたしじゃないの、わたし、わたしは……っ!」
わたしじゃない。そう弁解したいのに舌がもつれて言葉をまともに喋れない。ヴィーチャの表情は穏やかで何を考えているのかよくわからないから恐ろしかった。わたしが泣きじゃくっているとヴィーチャは大きくて温かな手をわたしの頭に置いた。
「大丈夫、落ち着いて、深呼吸して。わかってるから、大丈夫」
大丈夫とヴィーチャは繰り返しわたしに言い聞かせた。わたしが犯人じゃないとわかってる。わたしを信じてくれているヴィーチャにますます涙が止まらなくなる。
「ごめん、なさい、ごめんなさい」
「どうしてが謝るんだい?」
「だって……っ!」
「俺は気にしてないよ。現役で滑ってた頃はもっとひどいバッシングをぶつけられたものさ。ユウリも平気。俺たちは案外図太いから」
「にたもの、どうし、なのね」
「そうだよ。だから安心して帰りなさい。こんなのは業者を呼べばすぐに元通りになるさ。それに早く帰らないとソフィーが心配するだろう? 君はこれを見て動揺するべきではないし、俺たちに肩入れするべきでもない。わかるね?」
「ええ、わかってる、わかってるわ、ヴィーチャ」
「いい子だ」
ヴィーチャは親指の腹でわたしの涙をぬぐいおでこにキスをしてくれた。わたしは鼻水をすすってしゃんと顔を上げて胸を張る。誰よりもロシア人らしく振る舞うことよ。。どんなに難しくてもやり遂げなければいけないわ。彼らのことを思うなら。
「わたし、今すぐ大統領になりたい。そしたらあなたたちが幸せになれる法律を作って神様の向こうずねを蹴っ飛ばしてやれるのに」
「わお、は物騒なことを言うね。そんなに地獄に行きたいのかい?」
「天国に行ける抜け道があるはずだわ」
「そのときは俺とユウリも連れていってくれるね」
「もちろんよ」
顔を見合わせてくすくすと笑う。どうしようもない悲しみをヴィーチャの明るい言葉が打ち消してくれる。彼はいつだって希望をその身に宿してる。怒りや憎しみが触手を伸ばしてもそれを退ける力が彼にはある。
「負けないでね、ヴィーチャ」
祈るようなつぶやきにヴィーチャはもちろん! と片目をつむってみせた。彼の笑顔にわたしは今度こそ安心して家に帰ることができた。


翌日。わたしは熱を出して学校を休んだ。昨日はルドルフにデートに誘われて――本当は勉強会だけれど――興奮したり、ヴィーチャたちへの嫌がらせを目撃して怒りを覚えたり、心の波が荒ぶる一日だったから自律神経が乱れてしまったのかもしれない。わたしは神経質な性質みたいで低気圧と疲労には昔から弱かった。
パーパとマーマに発熱していることを伝えると二人はとても心配そうな顔をした。
「ごめんなさいね、どうしても仕事を休むわけにはいかないのよ」
「今日はいつもより早めに帰るから」
「気にしないで。二人が忙しいのはわかってるもの。駄々をこねるほど子供じゃないわ」
もっと小さな頃は自分が辛いのにどうしてそばにいてくれないのか寂しく思ったりもしたけれど、大きくなった今では自分の体調程度で両親の手を煩わせるのは逆に申し訳ないと感じるようになった。マーマは「ソフィーを呼びましょうか?」と訊いてきたけれどわたしは首を横に振った。せっかくのお休みなのに呼び出すのはソフィーに悪いもの。
「わたしなら大丈夫だから。今日もお仕事頑張ってきてね。行ってらっしゃい」
いつまでも出かけようとしない二人の背中を強引に押して仕事に行くように促す。靴を履いている間、二人は何度もわたしの様子を確認していた。うちの両親はちょっと過保護すぎるのがよくないわ。
わたしが笑顔で手を振るとパーパたちはやっと安心したのか口元に笑みを浮かべた。玄関扉が閉まる。二人を無事に送り出してわたしはほっと息をついた。
「今日は一日大人しくしてなくちゃ」
熱が出たといっても37度2分の微熱だからすぐに下がると思う。薬はきちんと飲んだしベッドで寝ていれば午後には回復するかもしれない。わたしはスリッパをぱたぱた鳴らしながらベッドに逆戻りした。枕をクッション代わりにしてヘッドボードに背中を預ける。読みかけの本を開いて文字を目で追っている内に段々と眠くなってきた。
わたしは本を横に置いてシーツの中に潜り込む。まぶたが重くてとても開けていられない。わたしは小さなあくびをこぼして目を閉じた。思考が途切れる。わたしの意識はあっという間に深い眠りの中に落ちていった。
わたしが次に目を覚ましたのは時計の針が午後3時を回った頃だった。窓から見える空の青がどことなく黄味を帯びていて陽光がぼんやりとふやけている。わたしは目蓋をこすりながら起き上がった。
寝る前に比べるとずいぶん体が軽くなっている。それに頭も妙にすっきりしていた。リビングに行って体温計で計ってみると案の定熱は下がっていた。わたしは小さなため息をこぼす。
今頃ルドルフは何をしているかしら。アイスホッケーの練習? それとも他の女の子たちとお喋り? どちらにしても嫌になっちゃう。千載一遇の機会をみすみす逃すなんて馬鹿なことをしたわ。這ってでも学校に行けばよかった。
わたしがソファにうつ伏せになって打ちひしがれていると不意に来客を知らせるチャイムが鳴った。わたしは慌てて立ち上がる。玄関に置いてある姿見をチェックして跳ねている髪の毛を撫でつけてからわたしは扉を開けた。
「こんにちは、具合はどう?」
バタン。わたしは無言で扉を閉めた。これは夢よ。きっと夢に違いないわ。ルドルフがうちの前に立ってるはずがないじゃないの。きっと彼と二人きりで過ごせなかったのが悔しすぎて幻覚を見ているんだわ。
ドッドッドッドと心臓が早鐘を打っている。もう一度チャイムが鳴ってわたしは悲鳴をあげた。こわごわとのぞき穴を確認すれば困ったように眉尻を下げたルドルフがやっぱり玄関の前にいる。彼は小さな花束を持っていた。わたしは大きく深呼吸して扉を開けた。
「……こ、こ、こんにちは、ルドルフ。その、ねえ、どうしてあなたがここに?」
「ナターシャに頼まれたんだ。君が風邪を引いて寝込んでいるからお見舞いに行ってやれって。ついでに今日の分のノートも届けてほしいってさ。はい、これ」
ルドルフが花束と一緒にナターシャのノートを差し出してくる。ナターシャ! あなたってなんて素敵な友達なの! ともすれば笑み崩れそうになる表情をわたしはなんとか引き締める。
「ありがとう。今日はごめんなさい、一緒に勉強できなくて。せっかく誘ってくれたのに……」
「勉強ならいつでもできるだろ。それより調子はどう? 起きてきて大丈夫なのかい?」
「ええ、寝てたらすっかりよくなったわ。立ち話もなんだしお茶でも飲んでいって」
空いている手でさりげなくルドルフの手をつかむ。表面上はたおやかに微笑みつつ内なるわたしはガッツポーズを決めた。ルドルフの手を引っ張って家の中に入ろうとする。けれど彼はその場から動こうとしなかった。
「どうかした?」
「えーっと家の中は君一人だけ? 誰かほかの人は?」
「わたし一人よ。パーパもマーマも仕事に行ってるから」
わたしが答えるとルドルフは気まずそうに視線を逸らした。頬をぽりぽりとかく彼にわたしは首を傾げる。
「だったら僕が君の家に上がるわけにはいかないよ。誰かに見られたら礼節を疑われてしまう。君だってふしだらな女の子だと思われるのは嫌だろ?」
「ふしだらって! 面白いことを言うのね!」
わたしは思わず噴き出してしまった。礼節! 礼節ですって! マーマはティーンエイジャーの男の子なんて盛りのついたお猿さんと一緒だと考えている。だからそういう雰囲気になっても決して騙されちゃいけないわよと口を酸っぱくしてわたしに注意する。わたしはそんなマーマにいつもよい子のお返事をする。わかってるわマーマ。わたしをその辺の尻軽女と一緒にしないでちょうだい。そんなふうに。
わたしと同じ年頃で紳士的な振る舞いを身につけているルドルフはやっぱり素敵。つい笑ってしまったわたしにむくれて唇をとがらせているところもかわいくて仕方がない。
「ごめんなさい、あなたをからかったわけじゃないの。ただ思ってもみないことを言われたから」
「僕と君がどうにかなるはずがないって? 僕が君を誘ったのは純粋な好意からだとでも思ってるなら、その認識は間違ってるぞ――
わたしは目を丸くした。ルドルフの言葉の意味を理解した瞬間、体内の血液が沸騰した。ぼこぼこ赤色の泡が弾ける音が耳の奥で木霊する。顔が熱い。わたしがはくはく口を開閉させているとルドルフは満足げに笑った。
「君、耳まで真っ赤だ」
「あ、あ、あ、あなたねっ」
「体調が回復してるなら外の空気を吸いに行かない?」
「…………行くわ」
びっくりさせられて、恥ずかしい思いをさせられて、振り回されたまま終わるのはわたしの矜持が許さなかった。というのは建前でわたしは少しでも長く彼と一緒にいたかっただけなのかもしれない。準備をしてくるから待っててと彼に言い置いてわたしは寝室に走った。
大急ぎでパジャマからトレーナーとジーンズに着替えて髪をポニーテールにする。仕度を終えるのに五分もかからなかった。わたしが大急ぎで玄関に戻るとルドルフは笑って手を差し出してきた。
「行こうか」
どきどきしながらわたしはルドルフの手を握った。ルドルフの手はがさがさしているパーパの手や骨張っているヴィーチャの手とは違ってやわらかかった。このやわらかさが成長するにしたがって失われてしまうのが楽しくもあり寂しくもあった。


わたしたちは他愛ない会話を楽しみながらネヴァ河のほとりを散策した。イチョウの木は蜂蜜よりもトパーズよりもまばゆい黄金色に染まっていて、モミジの木は燃え盛る炎やルビーにも負けないくらい鮮やかな橙色をしている。木漏れ日さえもきらめいてまるで光の粒子が舞う中を歩いているみたいだった。
「そういえばお昼は食べた?」
ホットドッグの屋台を見てルドルフが足を止める。わたしはそういえばとお腹をさすった。
「何も食べてないわ。お腹ぺこぺこ」
「買ってくる。ちょっと待ってて」
引き止める間もなくルドルフは屋台に走っていった。わたしは近くの芝生に座り込んでルドルフが戻ってくるのを待った。今日は温かくて気持ちがいい。散歩をするにはうってつけだった。
「はい、これ」
「ありがとう」
わたしがホットドッグを受け取るとルドルフは隣に座って早速パンにかじりついた。お金を支払うべきかどうか悩んだけれど何も言われなかったのでわたしは彼の好意に甘えることにした。
肉汁たっぷりのソーセージ。シャキシャキと歯応え抜群のレタス。ぴりっと辛くて香ばしいマスタードにふわふわのパン。それらがぴったりマッチしていてホットドッグはとても美味しかった。
ホットドッグを早々に食べ終えるとわたしたちはしばらく無言でネヴァ河の水面を眺めた。その沈黙は相手を気遣ったり、無理に話題を探す必要のない心地いい時間だった。沈黙の中でわたしたちはお互いを探り合い、心のかたちを見極めようとしていた。
「さっきから気になってたんだけど、君、泣いたの? 目が赤くなってる」
「………泣いたといったら?」
「理由が知りたい。君と親しくなりたいから」
「わたしからは何も言えない。あなたに嘘はつきたくないから」
「なら本当のことを話せばいい。、君、昨日からずっと辛そうだ。僕は気付いた。ナターシャだって気付いてる。苦しんでる君を見るのは嫌なんだ」
わたしは目を伏せた。わたしは真実を話せない。話しちゃいけない。だってルドルフがヴィーチャたちを肯定してくれるわけがない。彼は神父さんの息子で敬虔なクリスチャンなんだから。でも、もし、もしも、彼がわたしの迷いを受け止めてくれたら? わたしの苦痛を理解してくれたら? そしたらわたしの心の負担も少しは軽くなるかもしれない。
ヴィーチャには黙っていると約束したけれどわたしはもう限界だった。心が軋む音は日毎に大きくなっていく。ええ、そうよ。ルドルフの言った通りだわ。わたしは苦しくて苦しくて仕方がないの。誰かに助けてほしいのよ。ずっと誰かに助けてほしかった。意見を聞きたかった。
「ねえ、ルドルフ。自分と性別が同じ人を愛することは本当に悪いことなのかしら?」
問いかける。ひゅっとルドルフが息を吸い込む音が聞こえた。
「まさか、君っ、」
「わたしじゃないわ。でも、わたしの大切な人。パーパもマーマもずっと仲良くしてたのに、彼が恋人と住み始めた日から態度を変えたわ。わたしにも彼らとは話しちゃいけないって今まで見たこともないような険しい顔をして命令した。わたしには何がなんだかわからなかった。だって、わたし、嫌いになれない……どうしたって憎めない。ちっとも気持ち悪くなんかないわ! だってあんなに、あんなに幸せそうなんだもの……っ!」
………」
さめざめと泣くわたしの肩にルドルフがそっと腕を回してきた。わたしは彼の体にぴったり身を寄せる。秋のサンクトペテルブルクは、この世界はこんなにも美しいのに。ヴィーチャの輝きは今もなお色褪せていないのにどうしてそれを台無しにするような真似ができるというの。
「――僕はね、思うんだ。隣人を愛しなさいという言葉と同性愛を禁ずる言葉。どちらを主が優先するかといったら、それは前者のほうなんじゃないかって」
「もしもその言葉がただの気休めなら、わたしは一生あなたを許さないわ」
「いいから最後まで聞いて」
ルドルフが両手でわたしの顔を挟む。わたしと彼の視線が真っ向から交錯した。ルドルフの瞳はひたとわたしを見据えていた。怖いくらいに澄んでいた。迷いがなかった。
「イエス・キリストは全ての罪を僕たちのために引き受けてくださった。ゴルゴダの丘まで十字架を背負わされ、磔にされた。自ら進んで罪を犯すのは悪だ。けれど同姓を愛することが一番大きな罪だとは聖書のどこにも書かれていない。主は僕たちがどんなに愚かでも赦してくださるんだ」
「………わたし前みたいに彼と仲良くしたい。彼の恋人とも。もう自分の気持ちに嘘をつきたくない。でもパーパたちに見捨てられるんじゃないかって思ったら怖くて、怖くて怖くて、眠れないの」
「見捨てないさ。子供が自分の思い通りにならないだけで見捨てるような親なんてこっちから願い下げだ。そうだろ? ならいっそ一発ぶちかましてやればいいんだ」
「ルドルフ、あなたって……」
「何?」
「思ってたよりも過激なのね」
どこまでも凛としていて強気なルドルフの発言にわたしは呆れてしまった。過激な僕は嫌い? ルドルフがぐっと顔を近付けてささやいてくる。彼の吐息が首筋に触れて産毛がざわめいた。ルドルフが睫毛を伏せる。初めて体験する大人のキスはマスタードの味がした。
長いキスを終えたあと、わたしたちはお互いの連絡先やプロフィールを交換して、次のデートの約束をして別れた。アパルトメントに戻ってきて自分が住む部屋の前に立ったわたしはカードキーがポケットのどこにも入っていないことに気付いて愕然とした。
このアパルトメントの部屋は全てオートロック式で扉を閉めれば自動で施錠される仕組みになっている。ルドルフと出掛ける前、わたしは慌てていてお財布と携帯を持ち出すのを忘れた。カードキーはお財布の中。つまりパーパかマーマが帰ってくるまでわたしは外で待っているしかない。
どこかで時間を潰そうにも外は暗くなりかけていて女の子が一人うろつくのは危険な時間帯に突入している。秋といってもここはユーラシア大陸の北に位置する国。太陽が地平線の彼方に沈めば気温はぐっと低くなる。今のわたしは薄着で最悪凍死だってありうる。
「ああ、もう、どうしろっていうのよ」
わたしは扉に背を預けてずるずる座り込んだ。パーパは早く帰ってくると言っていたけれどあとどれくらい待てばいいのかしら。わたしは膝を抱えて顔を埋めた。一分一秒がものすごく長く感じる。
五分経って、十五分経って、三十分経った。パーパは帰ってこない。待ちくたびれてうとうとまどろんでいると不意に誰かがわたしの肩を揺さぶった。
「だいじょうぶ?」
とても流暢とはいえないロシア語が聞こえてわたしははっと目を覚ました。片膝をついて心配そうにわたしの顔をのぞき込んでいるのはよりによってユウリ・カツキだった。わたしはとっさに彼の手を払いのけて立ち上がる。
「だ、大丈夫よ。放っておいて」
「かぎ、なか、わすれた?」
「平気だってば!」
強がるわたしにユウリは「んー」と顎に手を当ててかの有名な「考える人」のポーズを取った。わたしはユウリと話しているところを誰かに見られたらと思うと気が気じゃなかった。昨日あんなことがあったばかりなのにわたしとユウリが親しくしていると勘違いされたらまた大騒ぎになる。
ユウリが動かないならわたしがどこかに行くしかない。わたしは彼の脇をすり抜けようとした。でも腕をつかまれて身動きが取れなくなる。
「な、何よ……」
「えー、あー、ぼくたちのいえ、いる、まつ、わかる?」
「っ……!?」
下手くそなロシア語だけれどユウリの言いたいことはなんとなくわかった。彼はパーパかマーマが帰ってくるまで自分たちの家で待たせてくれるつもりなのだ。わたしは思いもよらない彼の提案に動揺せずにはいられなかった。
「ど、どうして? どうして優しくするの……わたしが、昨日の事件の犯人かもしれない、のに」
「ヴィクトル、、あに、いもうと、」
「……え?」
「ち、つながらない、でも、いもうと。ヴィクトル、いつも、うるさくいう。、かわいい。しってた?」
「し、らなかった」
ヴィーチャがわたしを本物の妹みたいに思ってくれてたなんて。そんなにもわたしを可愛がってくれていたなんて知らなかった。ヴィーチャはわたしが生まれるちょっと前にマッカチンと一緒に越してきて。わたしの成長をずっと見守ってくれていたのは知ってた。
わたしは物心つく前からヴィーチャに懐いていたってマーマはよく笑いながら話してくれた。わたしが一番最初に喋ったのはパーパでもマーマでもなくヴィーチャの名前だって。そのときのヴィーチャのとびきり嬉しそうな顔を今でも覚えてるって。
「きみ、ほうっておく。ヴィクトル、おこる。ぜったい。めんどくさい。やだ。だから、きて」
ユウリの眉間にはしわが寄っていた。わたしと関わり合いになるなんて絶対に嫌だというのが彼の本音で間違いなさそうだった。でも、彼はヴィクトルを本当に愛していて。愛しているから彼の大切なものを自分も大切にしようとしている。そのことに気付いて鼻の奥がツンと熱くなった。
「少しだけ……待たせてもらってもいい?」
そう言うとユウリが安心したように微笑んだ。わたしが彼のほうへ一歩を踏み出したとき、視界から彼の姿が消えた。
「僕の娘に触るなっ!!」
雷鳴にも似た怒鳴り声に空気がびりびり震える。わたしはひっと息を呑んだ。パーパがものすごい形相でユウリを睨んでいる。ユウリはパーパの渾身の右ストレートを食らって吹っ飛んだのだと気付くのが一拍遅れた。わたしは二発目を繰り出そうとするパーパの腕にしがみつく。
「や、やめてパーパ! やめて!」
! こいつが何をしようとしたかわかってるのか!? こいつはお前にまで手を出すつもりだったんだぞ! ええ!? うちの娘を無理やり家に引きずり込んでどうするつもりだったんだ!? このカム・ダンプが!」
「違う! ユウリはそんなことしない! やめて、やめてよ!」
「っユウリ! !」
「あなたっ、何をしているの!?」
ヴィーチャとマーマが姿を現したのはほぼ同時だった。わたしはヴィーチャを見て安堵のあまり失神しそうになった。わたしとマーマでパーパを羽交い絞めにしている間にヴィーチャがユウリを助け起こす。
フレームの曲がってしまった眼鏡を拾ってヴィーチャが英語で何かを話しかける。ユウリも英語で答えると眼鏡をかけてふらつきながら立ち上がった。
ヴィーチャがユウリを背後に庇いながらパーパを睥睨する。自分が罵倒されても顔色ひとつ変えなかったヴィーチャの瞳がぎらぎらと怒りに燃えていた。
「ユウリの体に傷を付けるなんていい度胸だ。もしも彼のスケートが君のせいで失われるようなことがあれば俺は容赦しないよ。君を訴えてこの国で一番ひどい牢獄に送り込んでやるつもりだから覚悟して」
「そのイエローモンキーが僕の娘を犯そうとしたんだ! 出ていけ! 二度と僕たちの前に姿を見せるな!」
ヴィーチャの視線がこちらに向く。わたしを見る彼の瞳に怒りはなかった。ただ悲しみの色があった。わたしの心臓がどくんと跳ねる。
わたしはパーパのこともマーマのことも愛してる。だけど同じくらいヴィーチャのことも愛してる。今ユウリのことも好きになりたいって思った。ヴィーチャたちがどこかに行ってしまうなんて嫌。嫌。嫌!
「もうやめて、パーパ。マーマも。聞いて、お願い。わたしの話を聞いて」
………?」
「わたし、ヴィーチャがゲイでもゲイじゃなくてもヴィーチャが好き。強くて優しくてかっこいいヴィーチャが好き。大好き。ユウリともいい友人になりたいの。なれると思うの」
「おいおい、一体何を言い出すんだ……?」
「パーパとマーマは忘れちゃったの? ワールドを五連覇したときのヴィーチャのこと。ちっとも嬉しそうじゃなかった。ずっと浮かない顔してたじゃない。パーパもマーマも最近様子がおかしいわねって心配してたじゃない」
「それは……」
あのときヴィーチャは確かにくすぶってた。日本に行くまでずっと何かを悩んでた。もしかしたら引退しちゃうんじゃないかって毎日のように家で話してた。彼は十分やったんだからもういいんじゃないかって。でもヴィーチャはユウリを見つけた。
「2016年の中国大会でヴィーチャとユウリがちゅーしたときだって、彼は自分の教え子がかわいくて仕方がないんだなあって笑ってたじゃない。ヴィクトルの教え子だけあって美しい演技をするって褒めてたじゃない。ユーリ・プリセツキーに期待してたけど彼に負けるなら納得するしかないって言ってたじゃない! どうしてわからないのよ! ヴィーチャにはユウリが必要だってこと! 子供のわたしにだってヴィーチャはユウリを愛さずにはいられなかったんだってわかるのに! どうしてそれが悪いことなの! どうしてそんなことでヴィーチャたちを嫌いにならなくちゃいけないの! どうして! どうして! どうしてよパーパ!」
「どうしてかだと? 彼が聖書の教えを破ったからに決まってるだろう! こいつらは罪びとなんだ!」
「だったら隣人を愛さないわたしたちだって罪びとじゃない! パーパのわからず屋! 大っ嫌い!」
「なっ……」
わたしはマーマの懐に飛び込んだ。マーマは戸惑いながらもわたしの体を受け止めて頭を撫でてくれた。やっぱりわかってもらえなかった。どんなに言葉を尽くしたって無駄だった。ルドルフ、ねえ、ルドルフ。わたしたちもう駄目になっちゃうわ。家庭崩壊よ。わたしが全部駄目にしちゃった。
、こっちを向いて」
ヴィーチャの優しい声がわたしを呼ぶ。振り返ればヴィーチャがしゃがみ込んで両手を大きく広げていた。わたしはえぐえぐ泣きながらヴィーチャの首にしがみついた。
「ヴィーチャ、ごめんなさい、今まで、ずっと、ごめんなさい、ごめんなさいっ」
「それは俺の台詞だよ、。君が俺たちのことでここまで追い詰められてるなんて思わなかったんだ。辛い思いをたくさんさせてごめんね。ねえ、ベン」
「っなん、だ」
「俺はね、君たちにどんなに嫌悪されても軽蔑されても忌避されても君たちを嫌いにはなれなかったよ。俺と君たちとの間には確かな友情があっただろう? それは人の理屈でどうこうできるようなものかい?」
「………僕は、ただ、家族を守ろうと」
「うん、そうだね。君は父親として正しい選択をした。でもそのことではずっと苦しんでたんだ。君たちの意見や価値観を押し付けられては板挟みになってもがいてた。だから、もう、解放してやってくれない? 君たちは今まで通り俺たちを無視すればいい。ただリタと俺たちとの友情に口出しをしないでほしいんだ。これ以上は泥沼にしかならないよ。ほら、。君からも何か言うことがあるだろう?」
「……大嫌いだなんて言ってごめんなさい。愛してるわ、パーパ」
愛してる。わたしがもう一度繰り返すとパーパはうなだれた。そんなパーパをマーマは優しく抱き締めて、パーパはユウリに謝って、その場はなんとか丸く収まった。
そのあとわたしはパーパとちょっとだけぎくしゃくしたり、いつの間にか元通りになっていたり、ヴィーチャたちといろんなところに出掛けるようになったり、何年も経ってからルドルフにプロポーズされたり色々なことがあったけれどそれはまた別のお話。
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