ゆるやかに芽吹く

勇利とヴィクトルは居間で朝食を摂りながらテレビを見ていた。家族はとっくのとうに仕事を始めていて一階の渡り廊下の向こう側からは慌ただしい気配が漂ってきている。勇利とヴィクトルは日課のランニングを終えて、朝食を食べ始めたばかりだ。
天気予報の途中で勇利が「へえ!」と感嘆の声をあげたのでヴィクトルは思わず箸を止めた。日本語がわからないヴィクトルは当然ながら天気予報の内容も理解できない。「どうしたの?」と訊ねれば勇利がきらきらした瞳をこちらに向けてきた。
「夜中の二時頃に流星群が降るらしいよ。ふたご座流星群」「ワオ!」
今度はヴィクトルが歓声をあげる番だった。流星群なんて滅多にお目にかかれるものではない。ロシアは一年の半分が冬に覆われている。雲ひとつない夜空を拝める日なんて数えるほどしかないがここは梅雨が明けたばかりの日本だ。
観測条件が最高となれば家に引きこもっているわけにはいかない。明日の練習に響くかもしれないが、それとこれとは話が別だ。人生は楽しまなければ意味がない。
ヴィクトルは勇利の焦げ茶色の瞳をじっと見つめる。勇利の瞳は期待に輝き、ヴィクトルがゴーサインを出すのを今か今かと待っている。
(勇利も俺と一緒に見たいって思ってくれてる?)
特別な関係。特別な時間。特別な景色。ヴィクトルと勇利は恋人同士ではないけれどお菓子を半分こするみたいに少しずつ、少しずつ、自分だけが持っているものを分かち合ってきた。お互いの人となりを知って、感性を知って、自分と彼はまったくタイプの異なる人種であることも痛感させられた。その上で勇利が自分と同じことを考えているならこんなに嬉しいことはない。
自然と頬がゆるむ。沈黙を保ったまま微笑むヴィクトルを見た勇利は不思議そうに小首を傾げた。頭上に疑問符が浮かんでいる。
「俺と一緒に夜更かしする?」
「する!」
問いかければ勇利は花が咲くように笑った。
「なら今日は練習を早く切り上げて仮眠しよう。水筒を持っていくのも忘れないようにしないとね。日本の熱帯夜はタチが悪い」
「水筒の中身は何がいい? 麦茶? 緑茶? カルピス?」
「カルピス! 原液は薄めで氷はたくさん入れてきんきんに冷やしてくれる?」
「なんで僕が作るの前提なの。僕は緑茶がいいから自分で作ってよ」
「それくらいやってくれてもいいのに……俺毎日毎日頑張ってユウリのコーチしてるのに……ジャンプだってユウリが見たいだけ見せてあげてるのに……」
ヴィクトルは机に突っ伏すと白々しく嘘泣きを始めた。ぐすんぐすんと鼻水をすする振りを続けていると、頭上から盛大なため息が降ってきた。と同時に勇利の親指がぐりぐりとヴィクトルのつむじをえぐる。
「そーだね。あなたは僕のコーチなんだから大切に労わってあげないとね」
「とか言いながら俺のつむじを押すのはやめなさい! 労わってない! ぜんっぜん労わってない! もっと優しくして!」
「もー、うるさいなあ。早く食べないと朝食冷めちゃうよヴィクトル」
勇利がやっとヴィクトルの頭から手をどける。ヴィクトルは上半身を起こして背筋を正した。勇利と顔を見合わせて、どちらからともなく噴き出す。
窓の外に広がる空はペンキをぶちまけたように青く、陽光も入道雲も目が灼かれるくらい白い。今日もいい天気だった。


携帯のアラームがけたたましく鳴り響く。ヴィクトルは寝返りを打つとサイドテーブルに手を伸ばして、携帯をベッドの中に引っ張り込んだ。時間を確認し、瞬きをひとつ。戸惑ったのは一瞬でヴィクトルはのっそりと上半身を起こした。
現在の時刻は夜中の一時だ。ヴィクトルと勇利は六時で練習を切り上げて帰ってきた。早めの夕食を済まし、風呂で汗を流し、数時間の仮眠を終えて今に至る。
ヴィクトルは大きな欠伸をこぼしながら両手を伸ばした。障子戸に人影が映る。勇利だ。
「ヴィクトル、起きてる? そろそろ出かけよう」
ヴィクトルはベッドを降りると障子戸を開けた。勇利はまだ眠たげにまぶたをこすっている。
「ん、おはよう……。水筒は?」
「玄関に用意してある……それより寝癖すごいよ」
「それ、ユウリには言われたくないなあ」
あちこち毛先が跳ねている勇利の髪を撫でてヴィクトルは笑った。野暮ったいことこの上ないが外は暗いので今回は見逃してやろう。
「どこならきれいに見えると思う?」
「うーん、海に行けば大丈夫じゃない? 明かり少ないし、広いし」
話しながら階段を降りていく。マッカチンは眠りの国から出てくる気配がないのでお留守番だ。玄関で靴を履き替え、水筒をトートバッグに入れ、二人はゆっくりと歩き出した。持ち手を片方ずつ持って水筒の重みも分かち合いながら真っ暗な道を行く。
街灯の明かりには蛾が群がり、どこからともなく蛙の合唱が聞こえてくる。
「流星群もいいけど、今度は蛍を見に行こうよ。ヴィクトル見たことないでしょ」
蛍。蛍。馴染みのない響きにヴィクトルは少しだけ考え込んだ。
「蛍……は見たことないね」
ヴィクトルはサンクトペテルブルク生まれのサンクトペテルブルク育ちだ。田舎に行けば生息しているのかもしれないがサンクトペテルブルクに蛍はいなかった。
「すごくきれいだよ。ヴィクトルと一緒に見に行きたい」
勇利は見に行こうとは言わなかった。少しだけヴィクトルの胸に寂しさがよぎる。自分たちの関係は限りあるものでしかない。いつかはこの生活にも終わりが来る。勇利は日本に残り、ヴィクトルはロシアに帰国する。だからおいそれと約束は交わせない。
自分たちに残された時間はグランプリシリーズを勝ち抜くために割くべき時間であって、勇利と長谷津を満喫するために消費するわけにはいかない。勇利のコーチをやめて国に戻ってしまえば、またこの国に来られるかもわからない。
(まあ俺は毎年絶対ヒロコのカツ丼を食べるって決めてるけど)
空気に潮の香りが混じる。海が近い。目線を遠くに投げてヴィクトルは苦笑した。
「俺たちと同じことを考えた人たちがいたみたいだ」
砂浜にぽつぽつと人影が点在している。みんな誰かと一緒だ。少しだけ騒がしい。勇利はきっと静かに星が見たかったはずだ。
「場所を変える?」
「ううん、ここでいいよ」
勇利の心情を慮るヴィクトルに対し勇利は何気ない素振りで首を横に振った。勇利が気にしていないならいいかとヴィクトルは砂浜に座る。吹きつける風が汗ばんだ体に心地よい。バッグから水筒を取り出してヴィクトルは喉を潤した。
「俺ねえ、前にも人と一緒に流星群を見たよ。海じゃなくて、森の中の湖でね。女の子と一緒にボートに乗って、星を眺めた」
「……それってつまり」
「うん。俺の初恋の話。聞きたい?」
「………うん」
勇利が小さく頷いた。ヴィクトルは満天の星を見上げ、自らの記憶をたぐりよせる。

俺が十三歳の頃だったかなあ。ヤコフに無理やり参加させられたサマーキャンプでその子に会ったんだ。名前はモニカ。俺も彼女もジュニアクラスだったんだけど、そのときのコーチがとにかく横柄で偉そうな奴で二人とも彼が気に入らなかった。
二日目だか三日目だかに彼がものすごく失礼なことを俺たちに言って、なんて言われたのか忘れちゃったけど、俺もモニカも若かったから堪忍袋の緒が切れちゃったんだ。履いてたバレエシューズを二人とも奴の顔面に投げつけて。まさか俺以外にそんなことをする人がいるとは思わなくて、それは向こうも同じだったらしい。モニカはあんぐり口を開けて俺を見てた。で、その日の内に意気投合してサマーキャンプの間俺たちはずっとつるんでた。
流星群を見たのは最終日の夜だったよ。どうしても眠れなくて、ヤコフのところに帰りたいのに帰りたくなくて、悶々としてたらログハウスの窓をとんとんって叩く音がした。窓を開けたら、外にモニカが立ってた。で、言うんだ。ヴィクトル、流星群よ! 幸運を捕まえに行かなくちゃ! って。
彼女が来てくれたのが嬉しくて俺はルームメイトにばれないように外に抜け出した。キャンプ地は森の中ですぐそばに大きな湖があったんだ。桟橋とボートもあった。俺たちは湖まで駆けていって、ボートに乗って湖に漕ぎ出したんだ。それで次から次に降ってくる星を眺めてた。
ナカハラチュウヤみたい? 誰それ? ああ、詩人の名前なんだ。ふうん。まあ、それは置いといて。なんとなく俺は自分の手をモニカに重ねた。それから彼女の目を見たんだ。そしたら、彼女のエメラルドグリーンの瞳もきらきら光ってた。彼女の瞳が流星群よりきれいに思えて、俺はキスせずにはいられなかった。モニカは恥ずかしそうに笑ってたよ。電話番号と住所を教えるからキャンプが終わっても連絡をちょうだいって言われた。
それでどうなったかって? なんにも。なーんにも起こらなかったよ。俺は忘れっぽい性格だからさ、キャンプが終わって数週間した頃には連絡を取るのが面倒になって、彼女からの手紙も途絶えて、それで終わり。つまらない話だった?

ヴィクトルが話し終えると勇利はじっと何かを考え込んでいる様子だった。こういうときの勇利には何を話しても無駄だ。海に集まった人々からわああと歓声の声があがる。星が流れ始めた。ヴィクトルはしばし勇利の存在も忘れていくつもの銀の閃きに見入った。
「ヴィクトル、」
「うん?」
「僕には?」
「何?」
「僕にはキスしたくならない?」
ヴィクトルは息を詰めた。勇利の顔を見つめる。彼の表情は、眼差しは、怖いくらいに真剣だった。少しだけ声が震えている。今の一言を口にするために勇利はどれだけの勇気を振り絞ったのだろう。
「いいの? みんなに見られるかもしれないよ?」
「………いいよ。何をされても。あなただから、いい」
酩酊する。脳味噌がくらくらする。あなただからいいだなんてとんだ殺し文句だ。ヴィクトルは勇利の頬にそっと手を添えて唇を重ねた。
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