その日、彼らは灯台になった

街は無個性な人間であふれている。いつからこの街はこんなにもつまらなくなってしまったのだろう。
注文したコーヒーが運ばれてくる。正面に置かれたティーカップをのぞき込み、僕は重いため息をついた。オニキスのごとく真っ黒な液体の表面には鬱々とした男の顔が浮かんでいる。きれいに生え揃っている口ひげに熊のぬいぐるみのようなかわいらしい瞳。なかなかの男前だが背後には暗雲が垂れ込めている。
そもそも僕が今苦悩しているのは僕の感性に問題があるせいだ。にも関わらず外部に理由を求め、八つ当たりしている自分のなんとおこがましく情けないことか。僕はもう一度ため息をついてコーヒーをすすった。とても苦くて渋い味が舌の上に広がる。
とりあえず僕の身の上をかいつまんで説明しよう。僕はフリーのカメラマンで明後日までに雑誌に掲載する写真を提出するよう馴染みの編集者に言われている。彼とは業界に入った頃からの付き合いであるが鳴かず飛ばずの僕とは違い、彼は次々自分が担当した企画で成功を収めあっという間にデスクの地位まで上り詰めた。僕が食いっぱぐれないでいられるのは彼が定期的に仕事を寄越してくれるお陰だ。
幸いにも少しずつ僕の知名度は上がってきている。もし今度雑誌に僕の写真を掲載して読者の反応がよかったら表紙を任せてもいいとまで僕の友人兼デスクは言ってくれた。ただしそのためには一目で誰もをうならせるようなセンセーショナルな一枚が必要だとも。
万人の目を惹くだけではなく、一瞬で人の心を奪い、魅了する一枚が。
その話を出されたとき、僕の胸には熱い炎が宿った。そこそこの発行部数と歴史を誇る雑誌の表紙を自分の写真で飾れるかもしれない。こんなチャンスはおそらく二度とない。必ず彼の期待に応えてみせる。このチャンスをものにしてみせる。僕らが固い握手をして別れてからおよそ二週間が経過した。その間僕は街をさまよい道行く人に手当たり次第声をかけた。
僕の専門はストリートスナップで、求められているのは「幸せを形作るライフスタイル」と冠される特集に使用する写真だ。だから幸せそうな人々に突撃し、シャッターを切りまくった。だがどれもこれもぴんとこない。ぐうの音も出なくなるほどの、思わず感嘆の吐息をこぼしてしまうほどの瞬間を僕はまだとらえられないでいた。締切りはもう目の前に迫っているというのにだ。
僕には夢がある。口に出すのもはばかられるほどの大きな夢が。いつか。いつかでいい。何年かかっても構わない。自分の作品で個展を開き、ピューリッツァー賞を獲得する。それが僕の夢だ。
そのためにはこんなところでくすぶっているわけにはいかない。まだ時間はある。何がなんでも自分自身が心の底から満足できる写真を撮らなくては。
「――休憩が終わったら次はどこに行こうか?」
深みがあり艶を帯びているテノールが耳に飛び込んできたのは僕が決意を新たにコーヒーを飲み干した丁度そのときだった。僕は目を見開き、瞬きどころか呼吸さえも忘れた。僕の全身はセンサーと化し、全力で声の主を探し当てようとしていた。
「俺まだまだ買いたいものがたくさんあるんだ」
「ええ? まだ買い物する気なの? あとで請求書見るのが怖いんだけど……」
「どうしてユウリが気にするんだい? 俺の金がいくらなくなったところでユウリは痛くもかゆくもないだろう?」
「一緒に住んでるんだから同居人の出費額を気にするのは当然でしょ! ……やっぱり家計簿つけようかな。ソロバン、日本から持ってくればよかった」
「ユウリ、ソロバンって何?」
「あー、うちで見たことない? 計算機の一種だよ。慣れると電卓使うよりあっちで計算したほうが早いんだよね。暗算にも強くなるし」
「へえ。ジャパニーズってやっぱりそういうところがクレイジーだよね。面白い」
「あれ? 今何気にけなされた?」
打てば響くようなリズミカルな会話が背後から聞こえてくることに気付き、全身の毛穴からどっと汗が噴き出した。緊張でかちこちになりながら僕はそっと振り向き、息を呑んだ。
僕の後ろにある四人掛けのテーブル席にまったく毛色の異なる二人の男性が座っている。観光客だろうか。有名ブランドのロゴが入ったいくつものショッパーが空き椅子に積み重なっている。置き引きや盗難を警戒している様子はなく、二人は至って呑気に話し込んでいる。
一方はサングラスで顔を隠しているが欧米系の顔立ちをした白人と思しき美丈夫で、一方は東洋系の顔立ちをしたアジア人で顔つきが幼い。二人の会話から察するにアジア人の彼はジャパニーズなのだろう。彼がどのような肌色をしているか残念ながら僕にはわからない。ただサングラスの白人男性より肌の色が濃いのは確かだ。
心臓が破れ鐘のごとく鳴っている。ぐらぐらと血液が煮えたぎる。興奮で頭がどうにかなりそうだ。
彼らだ。僕が探し求めていたのは彼らなんだと全身の細胞が叫んでいる。ああ、くそっ! 冷静にならなければ。こんな感極まった状態で話しかけたところで不審人物だと思われてうとまれるのが関の山だ。
「さて、と。お腹もいっぱいになったしそろそろ出ようか」
「そうだね」
いつの間に昼食を終えたのか。二人が席を立ち店を出ていこうとする。しまったと僕はほぞを噛んだ。急いで外に出て彼らのあとを追いかける。
彼らは海を泳ぐ魚のように雑踏の合間を縫ってすいすいと歩いていく。僕はといえば彼らとの距離がこれ以上空かないよう人混みをかき分けるのに必死だった。二人がショーウィンドウの前で立ち止まってくれたのでほっと胸を撫で下ろす。
白人男性が何事かをアジア人男性に耳打ちする。アジア人男性の横顔が一瞬強ばったように見えた。あともう少しで彼らの肩に手が届く。と、顔を見合わせた彼らが不意に全速力で駆け出した。直近の角を曲がり僕の視界からいなくなる。いけない! このままでは彼らを見失ってしまう! 僕は慌てて走り出した。角を曲がった先でどん! と何かにぶつかる。僕は派手に尻もちをついた。
「――まったく。お前たちのハイエナ根性にはつくづく感心させられる」
地の底を這うような低い声が僕の鼓膜を震わせる。温かみの欠片もない声に僕は悲鳴をあげた。どこまでも冷たく鋭い氷刃と化した声が僕の体を貫く。
角を曲がった先は袋小路だったらしい。僕がぶつかってしまったのは白人の彼だった。彼は心底不愉快だというふうに口元をゆがめている。
「お前たちみたいな人間にユウリとのプライベートタイムを邪魔されるのは我慢ならない。名前と所属を今すぐ吐け。ああ、カメラのデータも渡してもらおうか。さもないと、カメラを叩き割るだけじゃ済まないから」
「っつけたりしてすまなかった! 僕は。フリーカメラマンだ! 君たちを追いかけたのは声をかけるタイミングをうかがっていただけで他意はないんだ!」
彼らがあとをつけられて立腹していることも、僕をパパラッチの類だと誤解していることもすぐにわかった。僕は立ち上がって首から提げているカメラを白人男性の胸に押し付ける。写真を見てもらえれば僕がパパラッチでないことは明らかなはずだ。
「……ねえ、ヴィクトル。この人、本当に違うみたいだよ?」
カメラのデータを素早くチェックしたアジア人男性が困ったように眉を下げる。なるほど。白人の彼はヴィクトルで、アジア人の彼はユウリというのか。
ユウリに言われてヴィクトルは押し黙った。彼が全身から発していた怒りのオーラが段々と薄くなっていき、先程二人がカフェで談笑をしていたときのような穏やかな空気が戻ってくる。
「ええっと……君はパパラッチではない?」
確認され僕は千切れんばかりに首を縦に振った。ヴィクトルがふむと唇に人差し指を当てて考え込む。
「もしかしてだけど、君、俺たちが誰なのかも知らない?」
「…………申し訳ないが僕には見当がつかない」
スリよりもパパラッチを警戒しているということは彼ら、もしくは彼は有名人か何かなのだろう。お忍びで観光に来たハリウッドスターだろうか。ヴィクトルの手足はすらりと長く、彫像のように美しい顔立ちをしていることがサングラスをかけていてもわかる。耳の形も、薄い唇も、鼻筋も、パーツのひとつひとつが整っている。
どこかで彼らを見かけたような気がするがさっぱり思い出せない。僕は眉根を寄せた。
「僕は昔から人の容姿を見分けるのが苦手なんだ。全色盲だから」
「え」
ユウリが驚きに目を丸くする。僕の顔をまじまじと見つめ、ヴィクトルはふっと肩の力を抜いた。僕に対しての警戒が完全に解けた瞬間だった。
「それならなぜ俺たちを尾行した? 理由を聞かせてくれないか」
僕にカメラを返しながらヴィクトルが問い質してくる。僕は口早に自分の現状をまくし立てた。雑誌に掲載する写真が必要なこと。どうしても君たちの写真が撮りたいということ。一日密着させてほしいこと。
「もちろんギャラは弾むつもりでいるよ。なんなら言い値を支払ってもいい!」
「っふ、ふふふ」
僕が懸命に訴えるとヴィクトルは肩を震わせて笑い始めた。死に物狂いな僕が彼の目にはよほど滑稽に映ったらしい。かっと頬が赤くなる。だがここで引き下がるわけにはいかないのだ。プライドなどいくらでも売ってやる。僕にはその覚悟があった。
「ヴィクトル、笑ったら失礼だよ! すみません。彼が笑っているのはあなたがおかしいからじゃないんです。彼の言い値を支払ったら、あなたは破産しちゃうから」
「破産……あ、ああ、なるほど」
ユウリがもう一度すみませんと頭を下げてくる。謝るのはこちらのほうだ。ジャパニーズは謙虚だと聞いたことがあるが、自分に非がないときでも謝罪をするなどにわかには信じがたい。僕はどうしていいのかわからずうろたえる。
「あー、おかしかった。君の事情はよくわかったよ。でも俺たちが素直に君に協力すると思うかい? 貴重なオフをわざわざ潰してまで。これは金の問題じゃない。わかるだろう?」
もちろんわかっている。わかっていても藁をもつかむ思いで僕は彼らにすがるしかない。
「どうしてそこまで俺たちにこだわる? 俺たちの髪の色も目の色も肌の色も着ている服の色だって君にはわからないのに」
「ヴィクトル!」
ユウリの声には非難の色がこもっていた。ヴィクトルが僕をあえて傷付けようとしてその言葉を選んだのがひしひしと伝わってくる。僕はぐっと拳を握った。僕を黙らせたいのならそんな中傷ではとても足りない。なぜなら僕は生まれたときから今までずっとそういう環境で、そういう人生を過ごしているのだから。
乾いた唇をなめ、僕はからからに干からびた喉からなんとか声を絞り出した。
「君たちを選んだことに理由がいるのかい?」
「…………」
「これといった理由なんてない。僕がいいと思った。君たちを撮りたいと思った。追いかけずにはいられなかった。それが全てで、それだけが真実だ。君たちの目は惰性で生きているのではなく、今自分が生きている時間を精一杯有意義にしようとしている人たちの目だ。表情を見ればわかる。君たちには僕を吸い寄せる何かがあって、その何かを僕が勝手に知りたいだけなんだ。身の程知らずで、傲慢かもしれないが、それでも暴きたい。ただそれだけなんだ。……もしもこれで納得してもらえないのなら、君たちの撮影は潔く諦める」
僕は口下手な自分を心底呪った。目を伏せ、カメラを撫でる。これでは駄目だ。こんな口説き文句で人を落とせるわけがない。僕はうなだれながら踵を返そうとした。
「君、どこに行くつもりだい?」
「……え?」
ヴィクトルに呼び止められ、振り返る。彼の口元には笑みが浮かんでいた。
「ねえ、ユウリ。いいよね? 俺は彼がすごく気に入ってしまったんだ」
「やっぱりね。ヴィクトルが好きそうな人だと思ったんだ。僕も嫌いじゃないし、いいよ別に。あなたと楽しい時間を過ごせるならなんだって」
「決まりだ」
決まり? 一体何が決まりだというんだ? 事態の展開に追いつけず目を白黒させる僕の肩にヴィクトルがぽんと手を置いた。
「いいよ。俺たちのこと取材しても。ただし、俺はサングラスを外さない。それから雑誌を売り出す前に必ずゲラを見せてくれ。このふたつの条件が呑めないならこの話はなしだ」
「! ああ、わかった! サングラスはそのままで構わない! ゲラも渡すと約束する!」
ああ、まさか、嘘だろう。信じられない。僕は天にも昇る心地で二人と握手を交わす。
「俺はヴィクトル。で、こっちはユウリだ。よろしく」
「僕はだ。と呼んでくれ。本当に嬉しいよ! ありがとう!」
あまりにも喜びが大きくて、僕は二人がファミリーネームを明かさなかったことにはまったく気付かなかった。


自然体の君たちを撮りたいのでポーズは決めなくていい。自由に伸び伸びと普段通り過ごしてくれて構わない。僕は僕で好きにさせてもらうから。
僕の意向を伝えるとヴィクトルは「OKOK。心得た」と茶目っ気たっぷりに片目をつむってみせ、早速行動を開始した。どうやら力関係が強いのはヴィクトルのほうらしい。ユウリをあちこち連れ回し、ショッピングを思う存分満喫し、観光名所を訪ね歩き、好きなだけ飲み食いする。
とてもではないが彼と一緒に暮らすのは大変だろうなと僕はユウリの心情を慮ってしまった。だがユウリはヴィクトルのフリーダムっぷりを難なく受け止め、楽しげに振り回されている。彼らのような関係をなんと表現するのだったか。ああ、そうだ。Every Jack has his Jill ――すべてのジャックにはジルがいる、だ。
僕は極力気配を殺し、彼らについて回った。できるだけ二人の会話に口を挟まず撮影に集中する。数十分も経っていないというのにカメラのバッテリーを二回も交換する羽目になったときは、思わず苦笑してしまった。
「どうしてあなたは色が見えないのにカメラマンになろうと思ったんですか?」
そんな質問がユウリの口から飛び出したのは小休止を兼ねてジェラートに舌鼓を打っている最中のことだった。ジェラート屋の外にはパラソルで覆われたテラス席があり、僕たち三人はそこに腰を下ろして休憩していた。
「ユウリ、その質問は失礼だよ」
ヴィクトルがそっと控えめにユウリをたしなめる。彼は眉間にしわを寄せていた。そんなヴィクトルに対しユウリは「どうして?」と首を傾げる。ヴィクトルがあんぐりと口を開けた瞬間、僕はすかさずシャッターを切った。
「どうしてって、あのねえ」
「だっては自分が人と違うことなんて全然気にしてない人だよ。だったら腫れ物に触るような扱いをするほうが失礼だって僕は思うんだけど……気を悪くしてしまったならごめんなさい」
前者の言葉はヴィクトルに。後者の言葉は僕に向けられていた。僕はゆっくりとかぶりを振る。驚いた。本当に驚いた。ユウリは稀有な感覚の持ち主らしい。
ユウリには僕を貶めようだとか、侮辱しようなんて意図はこれっぽっちもないのだ。ただ純粋に不思議がっている。僕がカメラマンを目指した理由を知りたがっている。どうして朝は必ずやってくるの? 子供が無邪気に尋ねるようにユウリは答えをねだっているだけだ。そのことが僕は嬉しかった。
「確かに全色盲の僕がカメラマンになるのはかなり大変だったよ。周りの人たちにもずいぶん反対された。それでも諦められなかったんだ。君は今、僕には色が見えないと言ったけれどそんなことはない。白と灰色と黒はわかるからね」
一番色が薄いのが白で、一番色が濃いのが黒。その中間が灰色だ。だろう? 僕が笑いながら確認するとユウリは笑ってうなずいた。
「僕にはみんなに見えているものが見えない。世界の真実がわからない。だがその逆もまた然りだと僕は思う」
「逆?」
「みんなにだって僕の見えているものは見えないということさ。……この世には何物にも侵されない美しさがある。きらめきという言葉の意味は僕にだってわかる。それはローマの休日に出てくるオードリーのようなものだ。朝の光のまぶしさだ。僕にはちゃんと見えている。何物にも代えがたいものを発見したときの喜びは何物にも勝るよ。僕はそれをみんなに知ってほしいのさ」
きっと僕は全色盲であってもなくてもカメラマンを目指しただろう。カメラに夢中になって、世界の在り方を確かめるのに夢中になっただろう。
「わかってくれたかい?」
「はい、ええ、よくわかりました。聞かせてくれてありがとう、
「こんな話でよければいくらでも」
「……、すまなかった。君は俺が思っているよりずっと器の大きい男だったらしい」
ヴィクトルが恥じ入るように顔をうつむける。僕は「やめてくれ!」と両手を振った。ヴィクトルは僕を気遣ってくれただけだ。彼が己を恥じる必要はどこにもない。
ヴィクトルも、ユウリも、それぞれが良識のある素晴らしい二人だと話していてよくわかる。
「ユウリ! 風船だ! 風船が引っかかってる!」
ジェラートを食べ終えるとしんみりした空気を打ち消すようにヴィクトルが大きな声をあげた。彼の視線を辿れば風船が確かに木の枝にひっかかってしまっている。泣きそうな顔で木を見上げている少女が風船の持ち主だろうか。
「可哀想だから取ってあげなくちゃ」
「あ、ちょっと、ヴィクトル!?」
ガタンと音を立ててヴィクトルが立ち上がる。シャッターチャンスの到来だ。パシャリ。シャッター音が響いたのはヴィクトルが木登りをして風船のひもをつかむのと同時だった。撮ったばかりの写真をチェックして僕は満面の笑みを浮かべたのだった。


楽しい時間はいつでもあっという間に過ぎていく。
「今日一日とても楽しかったよ。でも俺たち、そろそろホテルに帰らないといけないんだ」
ヴィクトルから申し訳なさそうに別れを切り出され、僕は空に目をやった。地平線のかなたに夕日が沈み始めている。ここで別れたらもう二度と彼らには会えないかもしれない。それを思うと僕の胸は寂しさでいっぱいになった。
「それじゃあ、最後の一枚を撮らせてくれ。そうだな、そこの柵に立って。好きなように動いてくれていい。今日一日の締めくくりになるようなのを頼むよ」
「――ねえ、ユウリ」
ヴィクトルがユウリの名前を呼び、手招きする。ユウリは首を傾げながらヴィクトルに近寄った。ヴィクトルが小声でユウリに何かをささやく。ユウリはきょとんと目を丸くし、それから花が音を立てて咲くように笑った。目元が優しくゆるむ。
「しょうがないなあ」
ユウリが柵の前に立つ。正面を向くのではなく横向きに。できれば正面からのカットが欲しかったが、それが彼らの意思ならば仕方がない。
「へい、
「どうしたんだい?」
ユウリの前に立ったヴィクトルが僕に向かって手をあげる。僕は不思議に思いながら彼に応えた。
「俺とユウリは今日一日で君のことが大好きになっちゃったんだ! だから、君には特別なプレゼントを贈ろうと思う」
「え……?」
言いながら。ヴィクトルがサングラスを外す。サングラスの下から現れた顔を見て僕は言葉を失った。その顔を見間違えるはずがない。メディア業界に足を突っ込んでいる人間なら誰だって彼を知っている。ロシアの英雄。リビングレジェンド。ヴィクトル・ニキフォロフ。ならば。ヴィクトルと一緒にいる黒髪の彼の正体は。ユウリ・カツキだ。それ以外はありえない。
「ちゃんと男前に撮ってくれよ」
ウインクをひとつ飛ばし。ヴィクトルがユウリの手をすくう。流れるような動作だった。美しい挙措だった。洗練された仕草だった。ゆっくりとヴィクトルがユウリの手に。ユウリの右手に光る指輪に口付けを落とす。人はあれを金色の指輪だと言う。金色がどういう色か僕にはわからない。それでもこの瞬間が映画のワンシーンのようにかけがえのないものだとわかる。僕は無我夢中になって連写した。
頬に生ぬるい何かが伝う。涙が目尻からあふれて止まらなくなる。なぜなら僕はユウリ・カツキの熱烈なファンだからだ。ファン歴は浅いが、彼への思い入れは誰にも負けないと自負している。
GPSで彼の演技を見て僕は救われた気がした。励まされ、勇気付けられた。誰だって苦悩を抱えながら生きている。戦いながら今日を生き抜いている。様々な外圧に押し潰されそうになりながら、それでも、凛と咲き誇りたい。花火のようにスパークしたいと願っている。そう願うのは罪じゃないし無謀でもない。誰にでも与えられた当たり前の権利なのだと彼は教えてくれた。
さん!?」
僕の涙に気付いたユウリが素っ頓狂な声をあげる。どうしたんですか。具合でも悪いんですか。大丈夫ですか。救急車でも呼びますか。救急車だって? 冗談じゃない。予定外の出費は避けたいんだ。勘弁してくれ。嗚咽混じりに僕が言えばヴィクトルが腹を抱えて笑い出した。
二人は僕が落ち着いて泣き止むまでずっと僕のそばにいてくれた。
、君のオファーならいつだって大歓迎だ。これ、俺のプライベートの連絡先。ゲラはここに書いてあるアドレスに送ってくれ」
「ええっと、本当に一人で大丈夫、ですか?」
ヴィクトルから渡された名刺を握りしめて僕は声もなくうなずいた。ヴィクトルが大きく手を振りながら。ユウリがぺこぺこ頭を下げながら。暮れなずむ街の中に消えていく。こうして僕たちは別れた。
二人と別れてから僕はしばらく呆然としていたがはっと我に返り、友人に電話をかけた。いい写真が撮れた。今からそっちに行く。言いたいことだけを言って電話を切る。肩で風を切って走り出す。
幸せだ。温かな人々に囲まれて僕はなんて幸せ者なんだろう。早く仕事を片付けて家に帰りたい。愛しのジュリーを抱き締めて、とっておきの年代物で乾杯して、今日あった出来事を語り倒したい。
ありがとう。ありがとう。ヴィクトル、ユウリ。もしも君たちが構わないというのなら。今度再会したときは僕のよき友人になってはくれないだろうか。
後日、僕の撮影した二人の写真が雑誌の表紙を飾り、世間をにぎわせることになるのをこのときの僕はまだ知らずにいた。
inserted by FC2 system