釣れました。

晩ご飯を食べた俺はユウリと一緒に温泉に入って、ユウリのストレッチを手伝って、自分の部屋に戻ってきた。ユウリはもう少し居間でだらだらしていると言うので置いてきた。
今日リンクで撮影したユウリのスケーティング映像を眺めながら改善点をメモ帳に書き込んでいく。二十分ほど経った頃、隣の部屋のドアが開く音がした。足元で丸まっていたマッカチンがぴくりと耳を動かす。ユウリが部屋に戻ってきたらしい。
控えめな物音がしばらく続いて静かになった。かと思えばトントンと少しくぐもったノックの音がソファの後ろから聞こえてくる。俺とユウリの部屋は隣同士で、ソファの向こうにあるふすまで仕切られている。
おやすみヴィクトル。
いかにも眠そうなのんびりした声がふすまを通して伝わってくる。
おやすみユウリ。いい夢を。
俺が口角を持ち上げて答えると、ふすまからユウリの気配が静かに離れていった。
ゆ〜とぴあかつきもそろそろ店仕舞いをする頃合いだ。ベッドの中で動画を眺めていた俺は半身をひねった。少しだけ開けていた窓を閉め、アラームをセットしてサイドテーブルに携帯を置く。
ああ、そうだ。明かりを消さないと。
サンクトの自宅ではリモコンを操作すれば部屋の明かりを消せるが、この家にそんなハイテクな仕組みは存在しない。俺はベッドから降りて壁に取りつけてあるスイッチに歩み寄った。
パチン。トントン。俺が部屋の明かりを消すのと同時にノックの音が外から響いた。俺はオフにしたスイッチを素早くオンにする。
「ドウゾー!」
入室を促すと障子戸がすっと開いてマリが姿を現した。マリは仕事を終えたばかりなのか、まだ制服姿だ。うっすらと汗ばみ、鼻に脂が浮いている。
こんな時間にどうしたんだろう。何かあったのかな。
俺とユウリのことに関して、マリたちは基本的に不干渉を貫いてくれている。この部屋に足を踏み入れるのはユウリくらいで、マリがわざわざ俺の部屋を訪ねてくるのは珍しいことだった。
「ドウシタノ?」
俺が首を傾げながら訊くとマリはずいと右手を突き出してきた。拳をぱっと開く。マリが握っていたものを見て、俺は目をまたたかせた。
「ナアニ?」
「This is house key.Give you」
「Really? but......」
俺は言葉を濁す。マリが俺に差し出しているのはゆ〜とぴあかつきの鍵だった。居住区に出入りするための勝手口の鍵と、正面玄関の鍵、従業員が主に使用している通用口の鍵。全部で三つの鍵が丸い輪っかに通されて鈍く輝いている。
鍵をくれるとマリは言うけれど、本当に俺が受け取っていいんだろうか。俺は戸惑わずにはいられなかった。
「オレ、オキャクサン。カギ、クレル、イイ?」
だって俺はただのホームステイだ。しかも勝手に押しかけてきて、勝手に住み着いた。少しは迷惑だと感じただろう。勇利の家族はそんな態度、おくびにも出さないけれど。日本人はパーソナルスペースが広い人種だ。もしも彼らが日帰り温泉を営んでおらず、ここが一般家庭だったら、俺はホテル暮らしを余儀なくされていたに違いないのだ。
本当にいいの? 俺が確認するとマリは視線を宙にさまよわせた。多分、適切な英語を探しているんだろう。俺は黙ってマリの次の言葉を待った。
「umm......You are, so to speak, a member of the family. OK?」
第一、あんたが外出する度に鍵開けに行くのも面倒でしょ。あたしたち暇じゃないんだから。
そう言われて息が詰まった。マリがローテーブルに鍵を置いて照れ臭そうに笑う。耳をほんのり赤く染めながらそそくさと部屋を出ていく。俺はというと、ラグの上にしゃがみ込んで顔を手の平で覆う羽目になった。
「あー、あー、あー」
不意打ちだ。完全な不意打ちだった。あんなの、ずるいじゃないか。俺の具合が悪くなったと勘違いしたのか、マッカチンがそばに寄ってきて俺の顔を舐めようとする。
「心配しなくても大丈夫だよ、マッカチン。ただ、ちょっと、嬉しすぎて……」
鍵は真新しい。多分俺のために新しく作ってくれたんだろう。マリが勝手に俺の鍵を用意してくれたとは考えにくい。トシヤとヒロコが話し合ってそう決めて、マリはその意思に従った。そう考えたほうが自然だ。つまりこれは勝生家の総意なのだ。
家族みたいなものだと、彼女は言ってくれた。
なんて素敵な響きなんだろう。なんて優しい響きなんだろう。
胸がぽかぽかする。こんな感じ、久しぶりだ。初めてヤコフにジャンプを褒めてもらったときみたいだ。気恥ずかしくて、むずがゆくて、でも、嬉しい。
俺には長いことマッカチン以外の家族がいなかった。結婚するつもりは更々なかったし、マッカチンは俺より先に死ぬ。俺は孤独死するんだろうなあなんて真面目に考えることもしばしばだった。
でもマリたちは俺を温かく受け入れてくれた。
新しい家族が一気に四人も増えた。
「俺って幸せ者だね、マッカチン」
マッカチンの首筋に顔を埋めて笑う。さあ、明日も早い。そろそろ俺も寝るとしよう。


「水筒持ったでしょ。着替えとタオルは入れたし、シャベルも軍手もあるし……」
トートバッグの中身を確認しているユウリの隣で俺はマッカチンの毛並を堪能していた。ペットサロンに行って毛を短く刈り込んでもらったマッカチンはすべすべで触っていると気持ちがいい。肉球も弾力があって最高だ。俺がうっとりしているとユウリが顔をしかめた。
「ちょっと。お客さんの邪魔になるから早くして」
「あはは、ユウリに怒られちゃった〜。慰めてよマッカチン」
「ヴィークートールー?」
これ以上はユウリを本当に怒らせてしまう。ここにいる人たちに迷惑をかけるのは俺の本意じゃないしね。
俺はマッカチンの足に火傷防止用の靴を履かせて立ち上がった。
「忘れ物ない?」
「ないよ。オールオッケー!」
俺が親指を立てるとユウリはうなずいて歩き出した。
「お母さん行ってきます」
「イッテキマァス」
「行ってらっしゃい。二人とも気を付けるんよ」
カウンターに立っているヒロコに声をかけて正面玄関から外に出る。途端、頭上から降り注ぐセミの鳴き声と灼熱の陽光にユウリは心底うんざりした様子でため息をついた。
「今日も暑いなー……」
一気に噴き出てきた額の汗をぬぐいならユウリがつぶやく。俺は青色の絵具を煮詰めたような空を見上げて目を細めた。
俺がこの土地に来てから早くも四ヶ月が過ぎた。暦は八月になり、長谷津は夏の猛暑に見舞われている。覚悟はしていたが極寒の国からやってきた俺にとって日本で過ごす夏はかなり辛いものだった。
アスファルトの容赦ない照り返し。風が吹いても木陰にいても肌にしつこくまとわりつく湿気。頭皮と首筋をジリジリ焼かれていく感覚。日中はセミの鳴き声――日本語ではセミシグレと表現するらしい――で頭が痛くなり、夜はカエルの大合唱で寝不足に陥る。
外出するときはサングラスが手放せない俺をユウリは馬鹿にするでも笑うでもなく真面目に心配してくれていた。
オフの日はがんがんにクーラーの効いた室内で暇を潰すのが俺たちのトレンドだ。けれどそんな生活にも俺は早々に飽いてしまった。だって今まではオフシーズンに突入したら国外を飛び回ってアイスショーに出演したり、快適な南の島でバカンスを過ごすのが当たり前だったんだよ? 家の中で一日中だらだらごろごろしてるだけ、なんて不健全じゃないか。
退屈なサマーバケーションなんてサマーバケーションじゃない。スケート以外のこともしたい。なんでニホンのお祭りは二日三日で終わってしまうんだ? 白夜祭りなんて二ヶ月くらいずっとやってるのに。夜遊び? こんなに蒸し暑いのに出歩くなんてできないよ俺死んじゃう。もーやだよー暑いよーつまんないよー。
常連のお客さんからもらったスイカを食べながら俺が延々嘆いていると、いい加減俺の愚痴を聞き飽きたのか、ユウリがなんの脈絡もなく問いかけてきた。
『ヴィクトル、山と海、どっちが好き?』
俺はユウリの質問に海! と即答した。俺の返答を聞いたユウリは手のかかる子供を見るような眼差しで微笑んだ。
『じゃあ明日は潮干狩りにでも行く? 海のそばなら多少は涼しいでしょ』
『シオヒガリって、何? 初めて聞く単語だ』
『簡単に言っちゃえば貝集めだよ。アサリとかハマグリとか採ってきて晩ご飯に出してもらうんだ。おつまみにもなるよ』
おつまみと聞いて脳裏に浮かんだのはハマグリの蒸し焼きやアサリの味噌汁だ。どちらも俺の大好物。自分でご飯の材料を用意するなんて考えただけでわくわくする。これまでそんな行為はまるきり必要じゃなかったから尚更だ。
『ユウリ! 俺シオヒガリやりたい!』
『じゃ、明日ね』
約束、と俺たちはお互いの小指を絡め合って指切りげんまんをした。それが昨日のこと。ユウリは気紛れだから約束をすっぽかされやしないかと俺は内心ひやひやしていたが、その心配は杞憂に終わった。むしろおもてなし精神をユウリは存分に発揮して念入りに準備をしてくれた。ほら、ユウリって俺にはとことん甘いから。
そんなわけで俺たちは今海に向かっている。視界の先では陽炎が揺れ、顎からしたたり落ちた汗が地面に黒い染みを作る。俺が足を踏み出す度、腰からチャリチャリと金属のこすれる音が響いた。
「正面玄関の鍵と通用口の鍵って持ち歩く必要ある? 家に置いとけばいいのに」
俺はマリからもらった三本の鍵をズボンのベルトループにぶらさげている。外出するときはいつもこのスタイルだ。
「その音、うっとうしいんだよね」
「ノーノーユウリ! 全部揃えて持っておかないと俺安心できないよ。どこかにしまい込んだら絶対にしまった場所を忘れてあちこち引っ繰り返す羽目になるね。断言できる」
「取材で必要になったのに金メダルをどこにしまったか忘れて大変だったときみたいに?」
「………なんで知ってるの。日本じゃ報道されてないはずなのに」
「ネットニュースで読んだよ。お陰でちょっとだけキリル文字が読めるようになった。ヴィクトルってさ、案外ずぼらだよね」
「体重管理もできない子豚ちゃんがよく言うよ。かわいげのないことばっかり言うなら子豚ちゃんじゃなくてベイビーラムにしてやる」
「あなたの刃こぼれしたシルバーで僕を切り分けられると思うなら好きにしてよ。喜んで口の中に飛び込んでいくから」
「ちょっと待って、ストップ。色男を誘惑する美女がそんなに簡単になびいたら駄目じゃないか」
「うん。僕も口に出してからこの言い回しは違うなって思った。ごめん。誘惑って難しかあ……」
眉尻を下げて情けない顔をするユウリに俺は噴き出した。全く。オフの日くらいスケートのことなど忘れて然るべきだろうに、俺たちはどうにもそれができない。俺たちの頭はいつだってスケートでいっぱいだ。好きで好きで大好きだから考えずにはいられない。
俺たちはそれでいい。そしてそんな俺たちの在り方を許して、支えてくれるユウリの家族は懐の大きな人たちだと思う。
家族と一緒に生活しながらスケートができるって本当に素晴らしいことだ。ユウリは最近まで気付いていなかったみたいだけど。
「なんだったら女性をベッドに誘う方法、レクチャーしてあげようか?」
「全力でお断りします」
眉間にしわを寄せて全身でNOを表現するユウリにやれやれと肩をすくめたとき、後方からかしましい声が俺たちを追いかけてきた。
「あー! ヴィクトルと勇利だ!」
「ほんとだ!」
「どこに行くのー!?」
アクセル、ルッツ、ループ。同じ顔に同じ声を持つ三人のレディたちが転ぶように駆けてくる。彼女たちは色違いのワンピースを身にまとい、それぞれバケツを腕に抱えていた。バケツの中には釣り糸やタッパーや玉網などいろんなものが入っている。
「あたしたちはね、これから川に行くの!」
「ザリガニ釣りするんだ!」
「明日はセミ捕りでしょー、明後日はみんなでクワガタ相撲でしょー」
日本語で相槌を打つユウリの腕を俺は肘でつつく。
「ユウリ、彼女たちはなんて?」
「川に行ってザリガニ釣りに行くんだって」
「ワーオ、とってもアクティブだね」
この炎天下の中、毎日毎日外で遊び回るなんて考えただけでめまいがしそうだ。俺がこぼした言葉をユウリが拾い上げて日本語に変換する。彼女たちは全く同じタイミングで腰に手を当てえっへん! と胸を張った。
「だってカレンダーに絵を描かなきゃいけないんだもん!」
「幼稚園の宿題なの!」
「私たちがその日あったことを描いて、ママかパパにコメントを書いてもらうんだ!」
ユウリの同時通訳により、俺は彼女たちが話している内容を正確に理解できた。それにしても夏休みの宿題とはね。微笑ましく懐かしい響きに俺は口角を持ち上げる。
「ねえ、ユウリたちも一緒に行かない?」
「行こう行こう!」
「ザリガニ釣り、きっと楽しいよ!」
「えーっと……」
ユウリが困ったようにこちらに視線を寄越す。俺は首を傾げた。
「何?」
「ザリガニ釣り、来ないかってさ。でもヴィクトルは潮干狩りしたいでしょ……?」
「んー」
正直どちらでも構わないというのが俺の本音だ。ザリガニ釣りもきっとシオヒガリと同じくらい楽しめるだろう。ユウリといられればなんだって新鮮で楽しい。それにきらきらと期待で輝く三対のかわいらしい瞳を無視して海に行くのは気が引ける。俺はにっこりと笑って言った。
「レディからのお誘いを断るわけにはいかないな。君たちと一緒に行くよ」
こうして急きょシオヒガリは取りやめとなり、俺たちはザリガニ釣りをするべく行先を河川敷に変更した。


――ザリガニ釣りは最高にエキサイティングな体験だった。
「勇利! 早く早く!」
「網! 網!」
「釣り糸切れちゃうから!」
「わ、ちょ、まっ! ここ、足場不安定で、っうわあああ!」
「ユウリ! 大丈夫!?」
こんな具合に俺たちは思う存分ザリガニ釣りを楽しんだ。途中、俺の指をザリガニがハサミでちょっきんしようとしたり、ユウリが足を滑らせて溺れそうになったり小さなハプニングはあったものの、大した騒動にはならなかった。
俺たちは協力して計七匹のザリガニを釣り上げた。釣ったザリガニは家で飼うのだと俺は勝手に決めつけていたけれど違った。日が暮れてくると三つ子ちゃんたちは釣ったザリガニをみんな川に放してやっていた。ユウコが家で飼うのを許してくれないそうだ。
「ママ、虫とかヘビとかトカゲとか大嫌いだもんね」
「ザリガニが動き回る音が不気味なんだってー」
「面白いのにねー」
「ねー」
やれやれと肩をすくめる三人はやけに大人びていて俺はとても微笑ましくなった。
心地よい倦怠感と疲労感が全身を包んでいる。ザリガニ釣りを終えた俺たちは輪っかになるように寝転び夕焼けを見上げていた。一番星が頭上のはるか彼方でまたたき始め、六時を告げるチャイムが鳴るまでとりとめのないお喋りに花を咲かせた。
最初にもう帰ろうと言い出したのは三姉妹の長女であるアクセルだった。
「これ以上遅くなったらママに怒られちゃう」
「ママ、今日は早く帰ってくるんだっけ?」
「えー? パパが早番じゃなかった?」
「僕たちが家まで送るよ。着替えるからちょっと待ってて」
俺たちは濡れた水着を脱いで着てきた服を再び身にまとった。ほら、帰るよ。ユウリがアクセルに手を伸ばした。アクセルはルッツと、ルッツはループと、ループは俺と手をつないで歩き出す。マッカチンのリードはユウリが持っている。
「あれ?」
一歩前に踏み出して俺は首をひねった。なんだろう、この違和感は。
「ヴィクトル、どうしたの?」
ループが不思議そうに俺の顔をのぞき込んでくる。俺は彼女の手をほどくと腰の辺りを探った。体がやけに軽いような気がして落ち着かない。何か。何かが足りない。ベルトに指を伸ばし違和感の正体をつかんだ俺は束の間呼吸を忘れた。
「……ユウリ」
「もしかして具合悪い? すごい顔してるよ?」
「鍵がない」
「え?」
「鍵をどこかに落とした。多分、あの草むらの辺りに。着替えの最中にフックが外れたのかもしれない」
「ええ?」
振り返ったユウリは眉間にしわを寄せて思いきり嫌そうな顔をした。面倒そうな態度を少しも隠そうとしないユウリに俺はいらっとした。ユウリの冷めた反応がショックだったのかもしれない。
それでも迷惑をかけているのは俺だ。ここは下手に出るほかない。
「お願いユウリ。探すの手伝って」
「もう暗くなるよ。そんなの明日でもいいじゃん。なかったらまた新しく作ってもらえばいいんだし」
「…………」
ユウリのつれない返答に俺は反論しようと口を開き、けれど何も言えずに黙り込んだ。そんなの。そんなのだって。ちょっとそれはひどいんじゃないか。
新しく作ってもらえば済むような、そんな問題じゃない。少なくとも俺にとっては。代えの鍵なんてちっとも欲しくないんだ俺は。
鍵をマリから受け取ったとき、俺は本当に嬉しかったんだ。嬉しくて、ティーンエイジャーみたいにベッドの上でジャンプしたい気分だった。この土地に、ゆ〜とぴあかつきに居場所ができたと感じた。鍵を持っていればいつだって俺がただのお客さんじゃなくなった瞬間のあのときめきを思い出せる。
「あの鍵じゃないと駄目なんだよ、ユウリ。あの鍵が俺をユウリたちの家族にしてくれたんだ」
俺はなおも言い募った。ユウリの顔を見るのが怖くて下を向く。俺が立ち尽くしているとユウリの深いため息が聞こえてきた。
「とにかく、三姉妹を家に送るのが先」
「だったら、ユウリ一人で行けばいい。俺はここに残る。残って鍵を探す」
「………ヴィクトルの好きにすればいいよ」
言って、勇利は三つ子ちゃんたちの背中を押した。三つ子ちゃんたちが戸惑いがちに振り返る。俺がひらひらと手を振ると、彼女たちは安心したように笑って帰っていった。
彼女たちの背中が小さくなり薄闇に溶けるのを待って俺は手を下ろした。視線で草むらを撫でる。俺たちが着替えをしたのはあの辺りだから、鍵も近くに落ちているはずだ。
俺は腕まくりをして捜索を開始した。地面に四つん這いになり、草の根をかき分けて携帯のライトを頼りに鍵を探す。けれど鍵はいつまで経っても見つからなかった。
気付けばユウリたちと別れてから四十分が経過していた。時間を確認した俺は驚き、携帯を取り落としそうになった。帰るのが多少遅くなったところで問題はないだろう。問題なのは……ユウリだ。
ユウリは今どこにいるんだろう。俺を置いて先に帰ってしまったんだろうか。ユウリならやりそうなことだ。一応、連絡くらいは入れておくべきなのかもしれない。もしかしたらいつまで経っても帰らない俺を心配しているかもしれない。いや、でも、ううん。俺から連絡するのはなんだか癪に障る。
「――どうしよう」
「何がどうしようなの?」
「っ!?」
ただの独り言に返答があったものだから俺は飛び上がって驚いた。弾かれたように振り向けば懐中電灯を手にしたユウリが俺の背後に立っていた。
「……どうしてここにいる」
「どうしてって……スケオタ三姉妹を送って真利姉ちゃんに電話したら、ヴィクトルがまだ帰ってないって聞かされて心配になったからだよ。途中、うちに寄ってマッカチン置いてきた。ついでに懐中電灯二本持ってきたからさ。使って」
「一緒に探してくれるのかい?」
新しく作ってもらえばいいとか言ったくせに。
俺が唇をとがらせるとユウリはさっと目を背けた。なんだ。まずい発言をした自覚はあるんじゃないか。
「僕には価値のないものだけど、ヴィクトルにはそうじゃないんでしょ? あんな、死にそうな顔してたあなたをほっとけるわけがない」
「へえええ」
そのわりには無神経な態度だったような気がしなくもないけれど、俺は気にしないことにした。ユウリが俺の気持ちを慮ってくれて、その上でここに戻ってきてくれたというならそれだけで十分だった。
「ありがとう、ユウリ」
俺が感謝の気持ちを伝えるとユウリはくすぐったそうに口元をほころばせた。ユウリから懐中電灯を受け取って、俺はまたしゃがみ込んだ。ユウリも俺の隣で地面に目を凝らす。時間の感覚を忘れて俺たちは鍵を探した。
「ヴィクトル! あった! あったよ!」
どれだけの時間が経ったのか。不意にユウリが声をあげてある点を指差した。ユウリの指差した方向に懐中電灯を向ければ確かにライトを反射して光る何かがあった。近付いてそれを拾い上げる。それは紛れもなく俺が失くしてしまったゆ〜とぴあかつきの鍵だった。
鍵を握りしめる。鍵はほのかに熱を持っていた。
「もう落とさないでよ、ヴィクトル」
「わかってるよ。今度からは紐に通して首から提げようかな。……本当に見つかってよかった」
「あのさ、ヴィクトル。さっき、その鍵が自分を僕たちの家族にしてくれた、って言ったじゃない?」
「うん? 言ったけどそれがどうかした? 俺が家族の一員になるのが気に入らない?」
「そんなわけない! そうじゃなくて、そうじゃなくてさ……」
ユウリは妙にそわそわしていて落ち着きがない。こういうときは急かさずに、ユウリが心の内をさらしてくれるのをじっと待つのが一番だと俺はもう知っている。俺は辛抱強くユウリの言葉に耳を傾けた。
「僕、ヴィクトルにはヴィクトルのままでいてほしいって前に言ったけど……ヴィクトルが、その、オニイチャン、だったら、それはそれで嬉しいっていうか、誇らしいっていうか……」
「…………は」
俺は急に苦しくなって胸の辺りをつかんだ。苦しい。胸が痛い。なのに笑み崩れてしまう。なんだこれは。ユウリがかわいくてどうにかなってしまいそうだ。全力でハグをしてキスの雨を降らせてやりたい。
オニイチャンとユウリに呼ばれた瞬間、俺の脳天から爪先まで駆け抜けた衝動。俺はその衝動に抗うことは一切せず、本能のままユウリに突進した。
「ユウリ! もう一回! もう一回オニイチャンって言って!」
「や、やだよ恥ずかしい! もう絶対言わない!」
「なんで!? 俺コーチなのに!」
「それはそれ! これはこれだから!」
俺の腕の中でユウリはじたばたともがく。けれど放してやる気は更々ない。俺は気が済むまでユウリの肌に唇をくっつけるのをやめなかった。その内ユウリは怒り出して俺は川原でジャパニーズ土下座を披露する羽目になった。
俺たちの楽しい夏はまだ始まったばかりだ。
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