惑星たるはどちら?

空気が、ぴんと、張り詰めている。居間に足を踏み入れたヴィクトルは目をまたたかせた。外で雨が降っているせいか、室内はいつもと比べて薄暗い。
雨音に耳を傾けながらヴィクトルはそっと座布団に腰を下ろした。自分より先に起きていたらしい勇利は食い入るようにテレビを見つめている。
「ユウリ、おはよう」
「あ、おはよ」
名前を呼べば焦げ茶色の眠たげな瞳がこちらを向く。ヴィクトルを視界に捉えた勇利はわずかに目を丸くしたが、その時間は一瞬にも満たなかった。彼はすぐに視線をテレビに戻した。画面いっぱいに日本列島の全体図が映し出されている。九州地方の辺りには雨と雷のマークが表示されており、勇利の眉間にはしわが二本刻まれていた。
天気予報を見終わった勇利が体の向きを変え、居住まいを正す。ヴィクトルは静かに手を合わせた。
声を揃えていただきますをして箸に手を伸ばす。勇利の眉間のしわはもう消えていた。
「雨ひどくなりそう?」
「うん。午後から雷雨だって。直撃はしないみたいだけど」
「ふうん。帰れなくなりそうだったら練習早めに切り上げよう。何かあったら大変だ」
日本列島の北東に台風が発生したのは一週間前のこと。この季節には珍しくもない台風は規模を拡大しながら上陸し、一直線に九州に迫りつつあった。しかし三日前に台風は転進。九州のやや上側を通過する見込みだと天気予報で言っていたらしい。
「トシヤたちは今日も店を開けるの?」
「多分ね」
「お客さんが来ないかもしれないのに? 日本人って本当に真面目だねえ」
やれやれと首を横に振るヴィクトルに勇利は苦笑した。もしもここがサンクトペテルブルクで午後からひどい吹雪になるとわかっていたら、おそらく誰も家の外には出ない。自分の命が危ないからだ。のこのこ外を出歩いて凍死する羽目になったらたまらない。
午後からひどい雨になる。雷が落ちるかもしれない。にも関わらず仕事に励む日本人がヴィクトルの目にはやはり奇妙に映る。
「別に行きたくて行くわけじゃないけどね。中にはもちろん休む人だっているよ。お父さんもさっき従業員の人たちに電話入れてた。無理はしなくていいからって」
「なるほど……職場の雰囲気によるってところかな?」
「あとは上司の判断じゃない? 僕はバイトもしたことないから、よくわからないけど」
「勤労意欲って概念、俺たちには存在しないよね」
「あははは、確かにそうかも」
勇利は笑って大学いもを口に放り込んだ。大学いもは油を使った揚げ物で高カロリーのように思えるが腹持ちがよいので一回の食事の量や間食を制限できる。ゆえにヴィクトルは自身と勇利が大学いもを摂取するのを許していた。
食卓に並ぶ食事はいずれもヴィクトルがヒロコに渡している献立に則って調理されたものだ。和食の知識を得るのにはかなり骨を折ったが、味気ないダイエットフードより和食のほうがずっと美味しい。食は元気の源だ。ここで出される食事にヴィクトルはおおむね満足していた。
朝食を終えたヴィクトルと勇利は玄関に移動した。
「ヴィクトル、ちょっと待って」
自前のランニングシューズを履いて外に出ようとしたヴィクトルを勇利が止める。勇利は靴箱をごそごそ漁り、黒の長靴を差し出してきた。
「今日はこれ使って。足入ると思うから」
「ええー…………」
そんなださいの履きたくない。ヴィクトルは無言で訴えたけれども勇利は取り合ってくれなかった。
「ズボンに泥がついたら困るでしょ。履いて」
「………はーい」
ヴィクトルはズボンが汚れたところで困らない。洗濯すれば済む話だ。とどのつまり、勇利は廊下を汚されるのが嫌なのだ。あとで掃除をするのは他の誰でもない勇利なのだから。
ヴィクトルは反論を呑み込んで、代わりにため息をついた。
「俺をこんなに雑に扱うのはお前くらいだよ、まったく」
その辺のスーパーで買った安物をリビングレジェンドに履かせられるのは、あとにも先にも勇利だけだ。それを思うと少しだけおかしかった。


結局アイスキャッセルはせつに到着した二人は午前の練習を終えるとすぐに帰り仕度を始めた。予想以上に雨脚が強まり、ゴロゴロと雷が鳴り始めた時点でヴィクトルだけではなく、勇利も危機感を覚えたのだ。
台風の歩みは遅々としている。これからどれだけひどくなるかわからない。
「優ちゃんたちは? リンク閉めないの?」
勇利はふとカウンターに立っている優子と西郡に問いかけた。
「本社からの指示がないからな。勝手に休みにはできねえし」
「私たちは大丈夫。いざとなったらここに泊まるし。子供たちは豪くんの実家に遊びに行ってるから。心配してくれてありがとね」
そう言って微笑まれてしまったら勇利はもう何も言えなかった。
西郡夫妻の仲睦まじさを見せつけられると息が苦しくなる。けれど。
「行こう、ユウリ」
ヴィクトルの大きな手が勇利の肩を抱く。触れられたところからヴィクトルの温もりが伝わってきて、それだけで勇利の心はすっと軽くなる。
ヴィクトルが来てから勇利は西郡と優子が寄り添って立っているのを見ても平気になった。苦しくなったら、いつでもヴィクトルが助けてくれると勇利はもう知っている。
「じゃあ……気をつけて」
「勇利くんとヴィクトルもね」
「オツカレサマ!」
一歩外に出ると大粒の雨がザアザア音を立てて地面をえぐっていた。勇利は慌てて傘を開いたが強風に持っていかれそうになる。
「わ、わ、わ!」
「おっとっと。ユウリ大丈夫?」
「あ、ありがと……」
飛んでいきそうになった傘をヴィクトルがすかさず捕まえる。傘を受け取った勇利はメガネを外してポケットにしまった。土砂降りの中ではメガネも大して役に立たない。
「俺ちょっと思ったんだけど走って帰ったほうが早くない?」
「……やっぱり? 僕もそう思った」
風に煽られて雨は斜めに降っている。傘を差したところであまり意味はなさそうだった。
二人は顔を見合わせてうなずいた。傘を閉じ、同時に駆け出す。バシャバシャ水を蹴散らしながら、ゆ〜とぴあかつきまで全速力だ。
「もしかして! 僕たちすっごく! バカなんじゃない!?」
「そうかもしれない! でもこれこそが人生だ! そうだろう!?」
「何それ! 意味わかんない! はは、あはははっ!」
「ふ、ふふ、はははは!」
気付けば勇利もヴィクトルも声をあげて笑っていた。走っているから脇腹が痛むのか。それとも笑いすぎたせいか。勇利にはまるでわからなかった。


帰宅した勇利はびしょびしょに濡れてしまった廊下を家族に見られないよう迅速かつ慎重に行動した。ヴィクトルを三階の浴室に押し込み、自分もパンツ一丁になると雑巾を数枚抱えて廊下に急いだ。三階から二階、二階から一階に続く階段の水気を死に物狂いで拭き取って、廊下を何度も往復し、可能な限り証拠を隠滅した。
そのあとは熱いシャワーを浴びて冷えた体を温め、洗濯機を回し、勇利はようやくひと心地ついた。
「ユウリー、まかない持ってきたよー」
「スパシーバー……わあ、美味しそう」
居間でぐったりしていると、ヴィクトルがまかないを運んできてくれた。今日のまかないはなめこの味噌汁とサーモンいくら丼だ。電灯に照らされてつやつや光るいくらの鮮やかなこと。サーモンは一枚一枚が分厚く、たっぷり脂がのっている。ふっくらした米粒と海苔が海鮮の美しさを際立たせ、鼻孔をくすぐる味噌の匂いが食欲を刺激する。
「あとで筋トレ頑張らないとやばい」
「何? なんて言ったの? 日本語わからないよ」
「カロリーの摂りすぎ注意って言った」
「明日はランニングの距離長くしないとね」
「だよねー……」
それでも和食はヘルシーなほうなのだ。きちんと気を付けていれば延々ともやしとブロッコリーのサラダを食べずに済む。ヴィクトルとユーリがカツ丼を食べているのに自分だけ野菜を食べているときの虚しさといったらなかった。
二人がやや遅めの昼食に舌鼓を打っていると食卓に置いてある勇利の携帯がヴヴヴヴと震えた。勇利は箸を置いて携帯を持つ。画面を確認すると真利から電話がかかってきていた。
「もしもし? どうしたの? え? 今? うちの居間にいるけど……え? うん、うん、わかった。待ってる」
電話は数分もしない内に終わった。「マリ、なんだって?」緑茶を飲みながらヴィクトルが尋ねてくる。
「真利姉ちゃん、僕たちに用があるからここで待ってろって」
「用事? 買い出しとか?」
「さあ……わかんないけど。そんな雰囲気じゃなかった気がする。とりあえずお昼食べちゃお」
勇利がどんぶりを空にするのと真利がやってくるのはほぼ同時だった。居間に入ってきた真利は仕事中はいつもアップにしている髪を下ろし、制服ではなくシンプルな白のTシャツにジーンズという出で立ちだった。
「その恰好、どうしたの?」
「お店今日はもう閉めたから。従業員もみんな帰った」
「え、なんで?」
「避難勧告。ハセチューに行けって。あんたたちもさっさと準備しな」
「…………うっそだあ」


――真利曰く。近所の山の一部が土砂崩れを起こし、いくつかの家屋が倒壊。市役所から避難準備を通り越して避難勧告が発令されたとのこと。避難指示ではないため、家に残りたければそれでも構わないが万が一を考えて自分たちは市役所の判断に従う、ということだった。
両親の年齢は既に初老の域に達している。普段はてきぱきと立ち働いているが、真利一人では面倒を見きれない部分もあるだろう。避難するなら男手が多いに越したことはない。勇利もヴィクトルも大人しく真利に従った。
避難所に指定されているのは勇利の母校である長谷津中学の体育館だ。上がりかまちで靴を脱ぎ、スリッパに履き替えるヴィクトルを一瞥して勇利は小さくため息をついた。
(ヴィクトルが入っていったら絶対絶対注目の的だよ……)
ここに来るまでだっていろんな人に声をかけられて大変だったのだ。町内の、特に商店街の人たちはすっかり見慣れてしまったのか、ヴィクトルをスーパースターではなく陽気で愉快な外人男性という目で見ているが、子供たちはそうもいかない。商店街にあまり馴染みのない企業勤めのサラリーマン、OL、駅前の大型スーパーでしか買い物をしない主婦層。そういう人たちの輪の中にヴィクトルが加わったらと思うと胃がしくしく痛む。
あまり大きな騒ぎは起こしたくないのだけれど、こればかりは仕方がない。
「ちょっと後ろ詰まってるんだから早く行って」
「あ、ごめん。……よし」
真利に急かされ、勇利は腹をくくった。物珍しそうに辺りをきょろきょろしているヴィクトルと並んで体育館の敷居をまたぐ。その瞬間。館内の空気がざわりと揺れた。
「え、ヴィクトル・ニキフォロフ? 本物?」「ハセチューの体育館にヴィクトルがいる……」「かっこよか〜! たまらん!」「サインもらえるかな、迷惑かなあ」「ほー。あれが噂の兄ちゃんか」「やばいやばい超ラッキーかも!」
不安と疲労と空腹といらだち。館内は殺気立っており、人々の表情は陰鬱で、お世辞にも明るい雰囲気とはいえなかった。それがヴィクトル・ニキフォロフという存在によって一変した。
ヴィクトルを目にした人たちの顔がぱっと華やぐ。きらきらと瞳を輝かせる。重苦しい空気が吹き飛ばされ、静かな熱気と興奮と歓喜が満ちる。勇利は思わず及び腰になった。まずい。
彼らの気持ちはよくわかる。ロシアの英雄、リビングレジェンドと対面できて嬉しくない人間がいるだろうか。いやいない。しかしミーハー心丸出しで取り囲まれ、撮影大会やサイン会が始まってしまったら静かに休みたい人たちの迷惑になってしまう。体育館には赤ちゃんを連れたお母さんだっているのだ。気難しい頑固親父も。そういう人たちはヴィクトルを歓迎していない。その証拠に思いっきりこちらをにらんでいる。
(まずいまずいまずいどうしよう。やっぱり家に帰ったほうがいいのか? でも真利姉ちゃんたちが心配だし……どうしよう!?)
勇利がテンパっている間にもヴィクトル包囲網は狭まってきている。若い女の子たちが携帯を片手に近付いてくる。勇利は反射的に踵を返した。
「――勝生さーん! こっちこっち!」
が、鶴の一声が勇利を救った。視線を滑らせればいつもゆ〜とぴあかつきに日本酒やビールを卸してくれている酒屋の店主が自分たちを呼んでいる。隣に座っていた店主の奥さんが立ち上がり、ぺこりと会釈した。利也が迷わずそちらに歩き出したので、勇利を含めた四人もあとについていった。
「あんたんちも避難してきたと?」
「何が起こるかわからんけん。早めに店仕舞いしてきたんよ」
「そーかそーか。まあ、今日はしょんなか。命あってのものだねよ」
「ヴィッチャン、そこにタオル敷いてくれんね。はい、これは真利と勇利の分」
「アリガトー」
寛子の指示に従って寝床を確保する。視界の端でヴィクトルに話しかけようとしていた数人が諦めて離れていくのを確認して勇利はほっと息をついた。
「真利ちゃーん! 久しぶりー!」
「え、嘘、小倉!? 何、あんたこっち帰ってきてたの?」
「うんそう! 二週間前くらいにね。みんな集まってるから真利ちゃんもこっちおいでよ! プチ同窓会しよ!」
「お母さん、いい?」
「よかよか。ここにいてもつまらんやろ」
「サンキュー」
中学時代の友人に誘われて真利は離れていった。「やっば! 何そのハゲ頭! 超ウケル!」同級生の変わり果てた姿を目にした真利がけらけら笑っている。それは勇利の知らない姉の姿だった。
なんだか見てはいけないものを見てしまったような変な気分だ。勇利は複雑な心境を紛らわせるため、寛子が慌てて用意してくれたおにぎりにかじりついた。
雨音はやかましく、時折空が白く染まる。ドンガラガッシャーン! と硝子が砕け散るような派手な音が耳をつんざく。もしかしたらこの近くに雷が落ちたかもしれない。
黙々とおにぎりを食べ終えてしまえば他にすることもなく、あとは横になって眠るだけだった。消灯時間になると真利は戻ってきて、勇利の左隣に寝転んだ。右隣にはヴィクトルがいる。
眠気はなかなか訪れなかった。
「――ユウリ、眠れないの?」
何度か寝返りを打っていると、隣から小さなささやき声が聞こえた。ヴィクトルと目が合う。アクアマリンの瞳が暗闇の中できらきら光っていた。本物の宝石みたいだ。
空が光る。白に染まる視界の中、ヴィクトルがちょっと笑った。
「俺も目が冴えて眠れない」
「うん……。ちょっと寒いかな、ここ」
「俺が抱き締めてあげよっか。そしたらあったかいよ」
おでことおでこをくっつけてひそひそ声を交わす。ヴィクトルの提案に勇利は迷った。普段なら即答で断っている。でも今日はなぜか拒絶の言葉が出てこない。今の状態の自分を人肌が恋しい、と、いうのかもしれない。
「沈黙は肯定、だね」
いたずらが成功した子供みたいにヴィクトルがくすくす笑って、勇利の腰をぐっと抱き寄せる。太股をヴィクトルの長い足で絡め取られる。ヴィクトルの体はとても温かくて、寒さで強ばった勇利の筋肉をほぐしてくれる。
「あのね、ユウリ」
「んー?」
「吹雪の夜に一人で家にいると、静かなんだ。すごく静かで、物音なんてひとつもしなくて、世界に一人取り残されたような気分になる。そんなときはマッカチンを抱いて眠るんだ。そうすると落ち着くから」
ロシア。冬の国からやってきた人。この人は、ずっと寂しかったんだなあと不意に勇利は思った。
「じゃあ、今は僕がいて、よかったねえ」
「……え?」
「だって、僕は、ヴィクトルとずっと一緒にいたいもの。ヴィクトルを一人になんかしない。だから、もう、平気でしょ?」
勇利は舟を漕ぎながら一生懸命喋った。眠くて舌が上手く回らない。ちゃんと伝わっているか、自信がない。でも驚いたように目を見開いたヴィクトルが、ふにゃっと泣いてるような笑ってるような変な顔をしたから、言いたいことは言えたような気がする。
「そうだねえ。ユウリとずっと一緒にいられたら、楽しそうだ」
ぽん、ぽん、とヴィクトルが勇利の背中を丁度いいリズムで叩く。雨音が少しずつ弱まっていく。明日には台風も去って雨も止むだろう。ヴィクトルが少しでも寂しくなくなれば、それでいい。勇利はヴィクトルの胸に顔を埋めてめいっぱい息を吸い込んだ。嗅ぎ慣れた整髪料と香水の匂い。ヴィクトルの匂いに包まれて眠れるなんて、自分は世界一の幸せ者だ。
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