人の私物を勝手に使ってはいけません

プルルと固定電話が鳴った。そう、このご時世に珍しいことだが俺の家にはきちんと固定電話がある。
自分も俺も携帯を持ってるんだから固定電話なんて撤去すればいいのに、と勇利はよく言う。電話代がもったいないって。
実家が商売をやっているからか勇利の金銭感覚はシビアだ。一円を笑う者は一円に泣くんだよと毎日スーパーの特売チラシとにらめっこしている。だからといって自分の価値観を俺に押し付けてくることはない。
俺はいわゆるセレブというやつで、一日にどのくらいのお金を使っているかなんて考えたことはほとんどない。欲しいと思ったものは悩まずに買ってしまうし、ウォークインクロゼットには何百何千ものブランド物がひしめいている。長年ほったらかしで埃をかぶってるアイテムもちらほらあるくらいだ。
時計だって、車だって、その日の気分によって変える。税金対策で不動産投資なんかもやってるけれど、まあそれはいいや。
勇利曰く、俺は節約なんかしちゃいけない人間なんだそうで。金持ちが浪費家じゃなかったら経済が回らなくなるから、俺が豪遊するのはありなんだそうだ。勇利の思考回路はやっぱりよくわからない。
話を戻そう。
固定電話は確かになくても困りはしないが、あったらあったで便利なものだ。携帯をビジネス用とプライベート用で使い分けなくて済む。
今現在ビジネスパートナーからの電話は全て固定電話にかかってくるようにしている。俺の仕事や予定なんかを調整してくれているエージェントは俺の携帯の番号を知っているから、それで特に問題なかったりする。
仕事のオファーの電話はひっきりなしにかかってくるけど、夜になれば電話線を引っこ抜けば静かになるんだからこんなに快適なことってない。親しい友人たちからの連絡にもきちんと対応できるしね。
俺が思考している間も硝子製のお洒落な電話台に載っている固定電話はしつこく鳴り続けている。ソファでマッカチンをブラッシングしていた俺はあーあとため息をついた。
今は電話に出たい気分じゃなかった。だって明日は久しぶりの休日だ。俺だけじゃなくて勇利も。だから今夜は勇利とゆっくり過ごそうと思っていた。勇利はキッチンで今夜の夕食を作ってくれている。
アランチーニの作り方をマスターしたからヴィクトルに食べてみてほしいんだ。そう言って照れ臭そうにはにかむ勇利は最高にかわいかった。
アランチーニっていうのはシチリア風のライスコロッケのことだ。デミグラスソースのいい匂いがキッチンから漂ってくる。
俺は電話を取るべく渋々立ち上がった。長丁場にならなきゃいいなあ。勇利がせっかく作ってくれた夕食を温かい内に食べられないのは絶対に嫌だ。
俺はインテリアにこだわる性質で、固定電話も瀟洒でレトロなデザインのものを選んだ。シルバーの一見ダイヤル式に見えるような固定電話を俺はそこそこ気に入っている。もちろん子機は持ち運び可能だ。
俺は腕を伸ばして子機を取ろうとした。けれど。俺の指先から子機がすり抜けていく。腰にエプロンを巻いた勇利はいつの間にか俺の横に移動していた。子機を奪い取ったのは勇利だった。
「はい、ニキフォロフです」
ああ、そうそう。固定電話のいいところがもうひとつあった。勇利が俺のファミリーネームを名乗ってくれるところだ。まるで本物の家族になったみたいで、俺は毎回むずがゆくなる。恥ずかしいけど、嬉しい。こういう些細な瞬間に勇利をこの家に住まわせてよかったと思う。
ええ、はい、そうですね。彼今日は遅くまで練習すると言っていたので今日中には連絡がつかないと思います。明日? 明日ですか? そうですね……皆さんご存知の通りヴィクトルは多忙な人なので……あ、そういえば、ヤコフコーチと今度出演するアイスショーの打ち合わせがあるとか。ええ、はい、はい、申し訳ありません。
勇利に先手を打たれてしまった俺は、右腕を伸ばした格好のままぽかんと口を開ける。気付けば勇利は電話の相手に立て板に水のごとく嘘八百を並べ立てていた。勇利がちらりとこちらを見やる。俺が首を傾げると彼は口元ににやりと笑みを浮かべて俺の手首をつかんだ。電話台に転がっていたボールペンを手に取って、勇利が俺の手の平にさらさらと伝言の内容をメモしていく。
……痛くはないけど、くすぐったい。ちくちくする。
電話台に置いてあるはずのメモ帳がいつの間にかなくなっていた。この前俺が使い切って捨てたんだ。それから補充するのを忘れていた。やってしまった。
これは絶対にあとで説教されるパターンだ。
「はい、はい、彼が帰ってきたら必ず伝えておきます。ええ、はい。素敵な夜を」
電話を終えた勇利が子機を置く。俺はしげしげと手の平を眺めた。ロスカローナ社。ファッション誌。モデル撮影の依頼。俺はにこにことご機嫌そうに笑っている勇利をじっと見つめる。
「ねえ、勇利。ちょっと確認したいんだけど」
「なあに? ヴィクトル」
「今の電話って俺宛だよね?」
「そうだけど」
「俺が帰ってきたらって何? アイスショーの打ち合わせがあるって初耳なんだけど」
「駄目だった?」
勇利がぴとっと肩を寄せてくる。俺の手の平をのぞき込んで、ふふふと楽しげに笑う。
「ここにはヴィクトル・ニキフォロフなんていないよ。等身大の、本物の人間みたいな、ヴィクトルそっくりのメモ帳があるだけだよ。で、このメモ帳は僕のお気に入りだから」
ああ、もう。ああ、もう。ああ、もう! お前ってやつは腹が立つくらい俺のツボをついてくるんだから!
「勝手に使うのは許さないよ」
勇利が俺の手の平にちゅっと唇を押し付ける。ちゅっちゅっちゅ。インクが滲んで、文字が読めなくなる。
「ご飯食べようヴィクトル。僕今日のために頑張ったんだからね?」
「……そうだね。夕食のあとは何をしようか?」
「映画を観ながらスローセックスしたい。……駄目?」
この上なく甘美で意地らしい勇利のお願いに俺の呼吸は止まった。

※「タイピスト!」から着想を得ました。
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