フィーカ

その日はいつもと変わらない朝だった。といえば少し語弊がある。
いつもなら七時には起床してリンクに行くため身支度を整えているはずの勇利はシーツの海におぼれたまま、指一本動かせずにいた。
腕や足に力を入れようとすると腰が鈍く痛んで、結果ベッドの上にどさっと崩れ落ちてしまう。
原因はわかっている。恋人と情熱的な一夜を過ごしたせいでこうなったのだ。確かに情事の最中、足腰立たなくしてあげると言われたけれど本当に抱き潰されるとは思わなかった。
「これじゃどこにも行けないじゃん。ヴィクトルのばかっ」
悪態が口をついて出てしまうのも致し方ない。とはいえ、抵抗しなかった勇利も悪いのだ。ヴィクトルは勇利が本気で嫌がるような行為は決してしないのだから。
久しぶりの再会に浮かれてヴィクトルを煽るだけ煽った自覚が勇利にはある。思い返せば顔から火が出そうなほど卑猥な言葉を連発し、ヴィクトルを誘ってがっついたのは他の誰でもない勇利自身だ。
「わー! わー! わー!」
勇利は枕に顔をうずめて叫んだ。恥ずかしい。穴があったら入りたい。昨夜の記憶だけ吹っ飛ばせるいい方法はないだろうか。
無駄に広いキングサイズのベッドの上でもんどりうっていると、「ワン!」とマッカチンの鳴き声が聞こえた。いつの間にか寝室のドアが開け放たれており、リビングにいたマッカチンが元気よく走り込んできてベッドに前足を乗せた。ドアの枠組みに背を預けて立っているヴィクトルは両手にふたつマグカップを持ち、勇利の奇行を静かに観察していた。
「おはよう。俺のスリーピングビューティー」
「お、おはよ……ヴィクトル」
バチンと音がしそうなウインクを寄越されて勇利は反応に困った。素肌にワイシャツを羽織り、ジーンズを履いているだけの彼は昨夜の余韻をまだ引きずっているらしく、濃密な色気を放っていて直視できない。自分がつけたキスマークや歯型が朝のまぶしい日差しの中、くっきり浮かび上がっているとあっては尚更だ。
「声、かすれてるね。すごく色っぽい」
ヴィクトルがくすくす笑いながらサイドテーブルに勇利のマグカップを置く。自分のマグカップに口をつけながら楽しそうにこちらを見ているヴィクトルを勇利はねめつけた。
「腰だって痛いよ。身動きできそうにない。ヴィクトルのせいだ」
「その通り。全部俺のせい」
勇利が唇をとがらせるとヴィクトルの笑みがますます深くなった。ああ、これは駄目だ。勇利は早々に白旗を上げた。今のヴィクトルには何を言っても無駄だろう。
勇利がため息をつくとヴィクトルがマグカップを手放してベッドに乗り上げてきた。キスでもされるのかと思ったが違った。額にかかった勇利の前髪を指先でもてあそぶヴィクトルは上機嫌だ。
「やりすぎたのは認める。久しぶりにお前の顔を見たら自制が利かなかった」
二週間、ヴィクトルはこの家を留守にしていた。雑誌の撮影で彼はイタリアのミラノに飛んでいたのだ。
ユウリがいなくてさびしかった。
はちみつのように甘い顔で、声で、そんなことをささやかれてしまったらへそを曲げるわけにもいかない。
「別に、いいけど……。こうなるってわかってたし」
「ふふふふふ」
「何その顔。気持ち悪い」
「俺の顔、大好きなくせに?」
「……ノーコメントで」
「ユウリって、ほんとに、俺を喜ばせてくれるねえ……。昨日だってそうだよ。僕、明日はオフだからとか言って抱き着いてくるんだもん。……嬉しかった」
「だって、」
「何?」
ヴィクトルに頭を優しく撫でられる。嗅ぎ慣れたヴィクトルの匂いがする。
勇利は自分から体を寄せてヴィクトルにぴったりくっついた。ヴィクトルの肩に顎を乗せて目を閉じる。
「僕もさびしかったんだ。ヴィクトルがいなくて」
「……うん」
この体勢ではヴィクトルの顔が見えない。けれどどんな表情をしているか勇利には手に取るようにわかった。きっとクリスマスプレゼントをもらった子供のような顔をしているに違いない。
(ほらね)
ヴィクトルに顎をすくわれた勇利は目を細めて笑った。


シャキシャキと小気味いい音が鳴っている。珍しく開け放たれた窓から風が吹き込み、白いレースのカーテンを揺らしている。ゆるやかなハミングに合わせて舞っているような動きに気を取られ、勇利は目線を動かした。「こら、動かないで」すかさずヴィクトルにたしなめられる。勇利は素直に謝って顔を元の位置に戻した。
途切れたハミングが再開される。さっきまでヴィクトルが口ずさんでいたのは「Call Me Maybe」だったけれど曲が変わった。今ヴィクトルが紡いでいる旋律はおそらく「You haven't seen the last of me」だ。
「ユウリ、少しだけ上を向いて。そう。そのまま。いい子だ」
ヴィクトルが腰を屈め、勇利のおでこの辺りをまじまじと見つめる。彼がはさみを動かす度、勇利が身にまとっているバスタオルの上に黒い雨が降った。
――髪、伸びてきたね。鬱陶しくない?
ヴィクトルは朝食の席で勇利にこう尋ねてきた。勇利が「そうかも」と答えると彼はにっこり笑って言った。俺が切ってあげるよ、と。
勇利は最初は断った。ヴィクトルの手を煩わせるまでもない。髪を切るなら近くのサロンに行くからと。けれどヴィクトルは納得しなかった。その辺の美容師に任せて変な髪型にされたらどうするの。ユウリだって困るでしょ。ユウリの魅力は俺が一番わかってる。絶対失敗しないから。懇々と訴えられ、勇利は折れた。
ロシアで同居――同棲ではなく、同居だ――を始めてからいくつかわかったことがある。
ヴィクトルは勇利の世話を焼くのが好きで、勇利が甘えるととても嬉しそうにする。それだけではなく彼は勇利を甘やかすことによってストレスを発散しているようなのだ。
愛は循環する。巡り巡って自分に返ってくる。勇利を愛して、愛し返され、それだけでヴィクトルは疲労も悩みも忘れてしまう。
貴重な休日をヴィクトルと一緒に過ごせるならなんでもいい。勇利はそう思って彼の申し出を承諾した。
「幸せすぎて死にそう」
ヴィクトルが後ろに回って襟足に触れてくる。正面の鏡に向かって話しかけると、鏡の中のヴィクトルが目を丸くした。
「何、どうしたの。今日は怖いくらいに素直だね」
「だってヴィクトルが僕の髪を切ってる。……ヴィクトルは特別な人なんだよ。僕の全てで、ロシアの英雄で、リビングレジェンドなんて世間では呼ばれてる。日本人だったらとっくのとうに人間国宝に認定されてるよ多分」
「ユウリ、」
ヴィクトルがむっとした声を出す。知っている。彼は勇利から特別視されるのを嫌がる。ありのままでいてほしいと言ったのはユウリなのに、俺を偶像みたいに扱わないでとはっきり口で言われたこともある。
勇利は肩に乗っているヴィクトルの手に自分の手をそっと重ねた。
「そういう人が僕の面倒をとことん見てくれてるって、最高の気分なんだ。この国では誰もがヴィクトルに奉仕したいって思ってるのに、当の本人はそんなのお構いなしで僕に夢中で、僕を磨き上げるのを心の底から楽しんでる。そういうところ、本当にかわいいなあっておも………」
勇利はそこで我に返った。今自分はものすごくこっぱずかしいことを口走りかけた気がする。というか、色々と駄々漏れだったような――?
「っ……!?」
鏡の中のヴィクトルを見た勇利は数秒沈黙したのち、ボンッ! と顔を赤くした。首から上を真っ赤にし、羞恥から瞳をうるませているヴィクトルを見てしまったら、そうならざるをえなかった。
「ユウリ、さっきのもう一回」
蚊の鳴くような声でヴィクトルがねだってくる。勇利は勢いよく首を横に振った。肩に乗っている手が突然重さを増し、指が皮膚に食い込む。
「録音したい、から、もう一回、言って」
「いや、あの、勘弁してください……ほんと、無理なんで。無意識だから言えたわけで」
「ユウリ!」
ヴィクトルの瞳がぎらりと光る。誤魔化すなと笑顔で圧力をかけてくるけれど、頬が赤く染まったままでは威力も半減だ。ちっとも怖くない。このまま言い合いを続けたら確実に大喧嘩になる。勇利は腹をくくった。ええいままよ! 瞳をぎゅっとつぶって腰を浮かす。
ヴィクトルの口に自分の口をくっつけて、ぺろりと唇をなめる。
「え、え、え?」
「今日はもうセックスできないけど、それ以外ならなんでも言うこと聞くから……許してよヴィクトル」
「んんん」
「ね?」
とどめとばかりに上目遣いを繰り出せば、リビングレジェンドはあっさりと陥落した。
惚れた弱みとはよくいったもので。ヴィクトルに髪をカットされた勇利はあれよあれよというまに着替えさせられ、お洒落なレストランで彼とデートをすることになったのだった。
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