Boys, be ambitious!

第一印象は大事だ。――わかってる。
大きな声ではきはきと自己紹介しなくちゃ暗い奴だって思われてしまう。それもわかってる。でも頭でわかってたって無理なものは無理なんだ。
、です。父親の転勤で長谷津に引っ越してきました。前は福岡にいました。よろしくお願いします……」
蚊の鳴くような声でぼそぼそと喋り終える。まばらな拍手と一緒にクラスのみんながひそひそとささやき合う。
「声ちっさ。なんて言ったか聞こえた?」「もやしじゃんもやし」「イケメン期待してたのになー。がっかり」
転入初日はいつだって憂鬱だ。注目されるのは苦手なのにみんながぼくの一挙手一投足を観察している。ぼくは動物園のパンダじゃないんだ。ほっといてくれよ。あんまりにも不躾な視線に脳内で文句をぶちまける。思ってることを口に出せたら一番いい。だけどそんなことをしたらぼくはあっという間に仲間外れにされてしまう。
「じゃ、の席は窓側の列、前から二番目な」
先生がチョークで示した席を見てぼくは絶望した。前に座ってる奴はいかにもガキ大将って感じでふんぞり返ってるし、隣に座ってる女子は小学生のくせに化粧なんかしてパンツが見えそうなくらい短いスカートを履いている。絶対に仲良くなれそうにない。
後ろに座ってる奴。こいつとは上手くやれそうだ。ちょっと太ってて眉が垂れていて優しげな感じがする。
ぼくが席に着くと早速ガキ大将が話しかけてきた。
「おれ鈴木! 鈴木光。なあ、お前スポーツは何が好き? 俺はバスケと野球」
「スポーツは、あんまり……」
好きじゃないと告げると鈴木はあからさまにしらけたような顔をした。たく、なんだよ。そっちから話しかけといてさ。ぼくとお前はタイプが全然違うって見た目でわかるだろ。
「じゃあ、は何が好きなんだよ」
「……最近はずっと家で漫画描いてる」
「へえ……オタクってやつ?」
鈴木の何気ない言葉はぶすっとぼくの胸を突き刺した。ぼくがオタクだったらなんだっていうんだよ。
前の学校では散々馬鹿にされた。ぼくがノートに描いた漫画を大声で読み上げられてクラス中で笑いの的にされた。あれはいじめじゃなかったけどぼくはショックだった。ぼくは自分の漫画に自信を持っていた。あんなふうに見せ物にされてからかいの対象にされるのはすごく嫌だった。
でもしょうがないんだ。ぼくはクラスの中でださい男子が集まっているグループの人間で、相手は運動ができたり、顔がよかったり、クラスの中心になっているグループだった。
鈴木は多分このクラスのリーダー各だ。あんまり関わり合いになりたくない。ぼくが素っ気ない態度を取り続けていると鈴木の口数は段々と減っていって、一時間目の授業が終わる頃にはまったく話しかけてこなくなった。
中休みの時間になると教室は空っぽになった。教室の後ろにはロッカーがあってその上には男子用のボールと女子用のボールがひとつずつ置いてある。鈴木は休み時間になると真っ先にボールを取りに行って「サッカーやる奴いるかー!?」と声を張り上げていた。
鈴木がみんなに何か言ったのか知らないけれど、ぼくをサッカーに誘ってくれる奴はいなかった。何人かはぼくが気になるようでちらちらとこっちを見ていた。でもぼくはそんなクラスメイトの視線を無視して机の上にノートを広げ、漫画を描くことに集中した。サッカーなんてつまらないや。
漫画を描いていると全部がどうでもよくなる。もやもやした気持ちを忘れてぼくはひたすら鉛筆を走らせた。
次のページでようやく主人公の見せ場だ。顔をアップで描いて、背景に効果音も入れて、かっこいい決め台詞を大声で言い放つ! 最高だ!
自分の世界に没頭しすぎてぼくは周りが見えなくなっていた。突然、ガタッと机が揺れてぼくの意識は無理やり現実に引き戻された。
顔を上げればぼくの後ろに座っている奴が罰の悪そうな顔をして通路に立っていた。こいつは確か小岩って名字だった。
「ご、ごめん、邪魔しちゃって」
「……別に、いいけど。わざとじゃないんだし」
本当はちっともよくない。すごくいいところだったのに邪魔されてむかむかした。でもそれよりぼくは小岩が持ってる本のほうが気になった。
「あのさ、それって手塚治虫……?」
「そう。図書館で借りてきたんだ」
「ジャンプって……読んでる?」
「読んでるよ」
「っ! な、何が一番好き? ぼくはあれ。今度アニメ化するヘルヘルヘルンってやつ」
「あれ面白いよね。でもぼくはスプートニク・セブンが好き」
それからしばらくぼくたちは漫画の話題で盛り上がった。けれど小岩の何気ない一言にぼくは固まった。
「朝はこーちゃんがごめんね。オタクとか言って」
「え?」
「でもこーちゃんはを馬鹿にしたんじゃないと思うよ。いい奴なんだ。素直じゃないだけで」
「あいつと仲いいの……?」
「こーちゃんはぼくの幼なじみ。家が近くて幼稚園からずっと一緒なんだ」
「そう……なんだ」
閉店がらがら。耳の奥で開きかけた心のドアが勢いよく閉じる音がした。


放課後になった。ぼくはまっすぐ家に帰らず、かといって学校に残って誰かと遊ぶわけでもなく、商店街をぶらぶらと歩いていた。
引っ越してきたばかりだからあちこち見て回りたいという気持ちはもちろんある。でもそれだけじゃない。この時間に家に帰るとお母さんがいる。お母さんに会ったら「新しい学校はどうだった?」とか、「友達はできた?」とか色々聞かれるに決まってる。ぐちゃぐちゃ口で説明するのは面倒だし、そもそも説明することはない。
新しい学校? サイアク。
新しい友達? ナシ。
お母さんは心配性だからぼくがみんなの輪の中に入っていけないと知ったらきっとお父さんと喧嘩する。
あなたが不甲斐ないからとか、単身赴任すればよかったとか、仕事で疲れているお父さんに文句を言って、お父さんの機嫌が悪くなって、一週間は口を利かなくなるのが簡単に想像できる。
だからぼくは新しい学校がいかに楽しいか嘘八百を並べ立ててお母さんを安心させてあげなきゃいけない。そのためにはきちんと設定をかためるのが大事で、考える時間も必要だ。
ぼくが遠回りをして帰っているのにはそういう事情がある。
……小岩が鈴木をかばうような発言さえしなければ、いい友達になれたのに。
幼なじみってなんだよ。そんなのずるいだろ。勝ち目がない。ぼくが何を言ったって小岩は鈴木の味方するに決まってるじゃんか。
ぼくは立ち止まって大きくため息をついた。すごく背の高いおじいちゃんが不思議そうにこちらを見ながら横を通り過ぎていく。
あれ? あのおじいちゃん、目が青かったぞ……?
うーんと頭をひねる。ぼくの見間違いかもしれない。目が合ったのは一瞬だったから。光の角度のせいで青色に見えたのかも。
それにしてもかっこいい人だった。うちのよぼよぼなおじいちゃんとは大違いだ。背中がまっすぐ伸びてて、ジーパンとTシャツとベースボールキャップがばっちり似合っていた。
「うわっ」
道の真ん中でぼーっとしていたら突然強い風が吹いてぼくの顔に何かがぶつかった。顔にぶつかった何かを反射的に握りしめる。風に吹かれて飛んできたのは、さっきぼくを追い越していったおじいちゃんがかぶっていた帽子だった。
ど、どうしよう……。
おじいちゃんはこの先の角を曲がっていった。今ならまだ追いつけるかもしれない。ぼくは慌てて走り出した。
角を曲がるとおじいちゃんの背中が見えた。でも遠い。一生懸命足を動かす。
「ま、まって……っ!」
ゼエハア言いながら追いかける。おじいちゃんはぼくの存在に気付かず、建物に入ってしまった。ぼくは門の前で足を止める。
「おっ、きい」
ぼくはぽかんと口を開けて目の前の建物を見上げた。その建物は木造で、ぼくが住んでいるアパートよりもずっと大きかった。門から玄関までかなりの距離があって、庭には砂利が敷きつめられている。
「ゆ~とぴあかつき」
看板に書かれている平仮名を声に出して読んでみる。普通の家っぽくないけどここは何かのお店なのかな。それにしては人気がないけど。
ぼくはおそるおそる門をくぐった。抜き足差し足忍び足で庭を渡ってやっぱり普通の家よりも大きい玄関を見上げる。玄関は引き戸になっているみたいで、インターホンは見つからなかった。
「ご、ごめんくださーい!」
勇気を出して声を張り上げてみる。少し待っても返事はなかった。帽子を見つめて考える。玄関の前に置いておけば気付くかも。気付くよね? でも……雨が降ったりして汚れたら大変だ。だってこれ絶対高いやつだ。
ぼくは覚悟を決めて引き戸に指をかけた。力を込めて戸を横に引く。一歩、二歩、三歩進んだところでもう一度中に呼びかける。
「ごめんくださーい!」
「はーい」
すると今度は返事があった。廊下の奥のほう。がやがやと人の話し声が聞こえてくるところ。めし処と書かれたのれんの下からひょっこり顔を出したのは眼鏡をかけた黒髪のおじいちゃんだった。ちょっぴり白髪が混じっている。ぼくが見た人とは違う人だ。
おじいちゃんはゆっくり歩いてくると膝を折ってぼくと目線を合わせてくれた。にこにこと優しそうに笑っているおじいちゃんにぼくはほっとした。
「いらっしゃい。見ない顔だね。ここは初めて?」
「あ、はい……。あの、ここはお店、ですか……?」
ぼくの質問におじいちゃんはぱちくりとまばたきをした。
「あれ、知らないのかな?」
「えっと、」
「前はね、ここで温泉をやってたんだ」
「今はやってないんですか?」
「僕の父親が死んだときに辞めてしまったんだ。今はみんなの遊び場として開放してるよ。君は誰かに聞いて来たんじゃないんだね」
「ぼく、あの、これを届けに来たんです」
おじいちゃんはぼくが持っている帽子を見て「あっ」と声を出した。しわしわの手がそっと帽子に触れる。ぼくから帽子を受け取ったおじいちゃんはふふっとほほ笑んだ。
「届けてくれてありがとう。この帽子はね、僕と一緒にここに住んでる人の物なんだ。これは彼のお気に入りだから戻ってきてよかったよ」
「一緒に住んでる人って、青色の目をしたおじいちゃん、ですか?」
「うん、そうだよ。散歩から帰ってきて僕が帽子をどこにやったの? って聞いたら、あの人どこかに落としちゃったみたいだとか言って。呆れちゃうよねまったく。君はあんな大人にはなっちゃ駄目だよ」
「は、はい」
ぼくが緊張しながらうなずくとおじいちゃんは不思議そうに首を傾げて、何かに気付いたみたいにぽんと手を打った。
「ごめんね。こんなよぼよぼのおじいちゃんの説教なんてつまらないよね。もし君さえよければ帽子を届けてくれたお礼をしたいんだけど、どうかな?」
お礼、お礼ってなんだろう。ちょっと気になるけど、初めて会った人の家に上がり込むなんて非常識だし恥知らずだ。もしお母さんに知られたら特大の雷が降ってくるに決まってる。でも……ここは遊び場だってさっきおじいちゃんは言ってた。ぼく以外の子供もここに出入りしてるんだ。もしかしたらここでなら友達ができるかもしれない。
「少しだけなら、大丈夫、です」
「よかった。ああ、そうだ。僕は勝生勇利といいます。よろしくね」
です」
ぼくが名乗るとおじいちゃん、もとい勝生さんはぱっと花が咲くように笑った。靴を脱いで勝生さんを追いかけて廊下の奥に進む。「あ」「お」「え?」めし処に足を踏み入れたぼくは知っている顔を見つけて思わず立ち止まった。
じゃん。何しにきたんだよお前」
「さっきぶりだね」
「鈴木……小岩」
小岩がぼくに向かってひらひらと手を振る。鈴木と小岩とぼくの知らない子が二人。それから帽子を落としていった目の青いおじいちゃん。めし処にいるのはそれで全員だった。みんな机にノートを広げて、何かを書いているみたいだった。
「君たち知り合いなの?」
勝生さんがぼくと鈴木の顔を見比べる。ぼくは口を開けたけれど鈴木のほうが喋り出すのが早かった。
「こいつ、オレのクラスの転入生なんだけどさ。すっげー態度悪いんだぜ。不機嫌オーラ出しまくりでさー」
「っはあ!?」
びっくりして。びっくりしすぎてぼくは思わず大きな声を出してしまった。「なんだよ」と鈴木がこちらをにらむ。その瞬間、プチッと血管袋の緒が切れる音がした。
「態度悪いのはそっちだろ! ぼくをバカにしたくせに!」
「嘘つけ! おれがいつお前をバカにしたってんだ!」
「ぼくがオタクだって鼻で笑っただろ!」
ぼくが叫ぶと鈴木は目をまんまるにしてハトが豆鉄砲を食らったような顔になった。
「……え? お前それで怒ったわけ? おれ、別にそんなつもりじゃなかったんだけど」
「だったらどういうつもりだったんだよ」
喧嘩腰のぼくに鈴木は罰が悪そうに下を向いた。
「おれ、お前がオタクなら大喜と話が合いそうだって言いたかっただけだよ……大喜もゲームとかアニメ詳しいからさ」
「…………ダイキって、誰?」
鈴木が親指で小岩を指す。ぼくは予想外の展開にどうしていいのかわからなくなってしまった。つまりは、全部、ぼくの勘違いだったわけで。カッと耳が熱くなる。ぐんぐん体温が上昇する。鈴木がぼくの顔を見てぶふっと噴き出した。今のぼくは首から上を真っ赤にしてかなり情けない顔をしているに違いない。
「あの、さ、」
「なんだよ」
腕を組みながら鈴木はにやにやしている。ぼくの次の言葉を鈴木は完璧に予知している。ちくしょう。
「勘違いして、勝手に怒って、嫌な気持ちにさせて……ごめん」
「ん、許してやる」
偉そうにうなずいてにかっと笑う鈴木にぼくはなんだか脱力してしまって気付いたら口元に笑みが浮かんでいた。ほんとだ。小岩が言ってた通り、鈴木って口は悪いけど男らしくていい奴だ。
「仲直りは終わった?」
勝生さんに声をかけられてぼくはハッと我に返った。そうだった。すっかり存在を忘れていたけどこの人たちもいたんだった……は、恥ずかしい! 勝生さんは照れているぼくなんてお構いなしに言葉を紡ぐ。
「ヴィクトル、あなたが落とした帽子。この子が拾って届けてくれたんだよ」
「そうなの?」
勝生さんが青い目のおじいちゃんの胸に帽子を押し付ける。おじいちゃんは帽子を受け取るとこちらを向いて「スパシーバ」と言った。え、何? スパシーバ?
「スパシーバはロシア語でありがとうって意味。ヴィッチャンはロシアの人なんだ」
戸惑うぼくに小岩が説明してくれる。やっぱり外国人だったんだ。おじいちゃんがぼくの前にしゃがみ込んで顔を近付けてくる。おでこにふにっとマシュマロみたいな感触。
「い、いま、いまいまいま、いまっ!」
この人ぼくにキスしたよね!?!?!?
「初めまして、ヴィクトル・ニキフォロフです! 俺のことはヴィッチャンと呼んでくれ。みんなもそうしてるからね」
おじいちゃん、ヴィッチャンはとてもきれいな日本語でそう自己紹介した。ぼくは混乱しながらも首を縦に振った。
「おれたち、ここで英語教わってんだー!」
「なんで?」
「だって英語話せたらかっけーじゃん」
鈴木が自慢げに胸を張る。いやいや。ぼくは英語を習っている理由じゃなくて、勝生さんとヴィッチャンがなんでそんなことをやっているのか聞きたかったんだけど。だってここってつまりは児童館みたいな場所なんだよね? 塾じゃないんだよね? でも英語がぺらぺら話せたら確かにかっこいい。
くん、教室でアメコミっぽいの書いてたよね。くんも一緒に英語勉強しない?」
「アメコミってなんだ?」
「漫画描けんの!? すげー!」
小岩の発言にずっと黙ってぼくたちの様子を見守っていた二人が反応する。目をきらきら輝かせて「見せて!」とぼくに詰め寄ってくる。
「えっとぉ」
「あ、おれは高橋」
「おれは植木な! よろしく!」
「よ、よろしく」
「で、漫画は!?」
どう頑張っても逃げられそうにない。ぼくは仕方なくランドルセルを肩から下ろした。ノートを取り出して机に広げる。と。
「う、うまっ……!」
「こまけー!」
すげーじゃん!」
その場が歓声で沸いた。このキャラが好きだとかこのセリフがかっこいいとかみんなしてぼくの漫画を褒めてくれる。おまけに。
「アメイジングッ!」
ぼくの頭をぐしゃぐしゃにかき回しながら子供みたいに無邪気な瞳で、ヴィッチャンは下手くそな漫画に夢中になってくれた。続きが早く読みたい! とか、俺がファン第一号だ! とか言ってくれた。鈴木たちも似たり寄ったりなことを言ってくれて、そしたら鼻の奥がツンと熱くなった。
お母さん。ぼく、新しい学校も新しい友達も好きになれそうだよ。


ぼくが長谷津の街に引っ越してきてから二ヶ月が経った。ぼくは週に三日、ゆ〜とぴあかつきに顔を出してみんなと遊んで家に帰る。
長谷津は小さな町だからなのか勝生さんとヴィッチャンとはいろんな場所で遭遇する。
二週間前は図書館で。一週間前は公園で。三日前は商店街の八百屋さんで。時々ものすごく意外な場所で出会うこともある。今日もそうだった。
ぼくにはお姉ちゃんがいて、お姉ちゃんはバレエ教室に通っている。お姉ちゃんは年に何度か教室の発表会に参加するんだけど、発表会がある日はなぜかぼくも早く叩き起こされてお姉ちゃんと一緒に車に乗せられて会場まで連行される。
その日一日ぼくは雑用係を任され、ぼくより小さい子たちの面倒を見たり、足りないものがあったらコンビニに買いに走ったり、散々こき使われる。その代わり、一日の終わりにはご褒美におこづかいがもらえる。
今日ぼくは窮屈な車の中でおこづかいをもらったら何を買おうかそんなことばかり考えていた。だけど車を降りて楽屋に入ったらおこづかいのことなんてどこかに吹っ飛んでしまった。
「ハアイ、!」
楽屋に入った途端、名前を呼ばれてぼくは目を丸くした。楽屋は女の子たちとお母さんたちで混み合っている。入り口のすぐそば。レオタードを着た女の子が鏡を背にして椅子に腰かけている。そして女の子の正面に立っていたのは――。
「ヴィッチャン!?」
「ヴィッチャンだよー」
ヴィッチャンはちらっとこちらを見て口の端を上げた。でもすぐに視線を戻す。テーブルの上にはいくつもの化粧道具が置いてあってヴィッチャンは次々道具を持ち変えて女の子を変身させていく。まるで魔法みたいだ。
楽屋の隅っこのほうでは勝生さんが別の女の子の髪をセットしてあげていた。おじいちゃんのくせに二人ともびっくりするほど手先が器用で仕事が速い。
「あんた、あの人たちと知り合いなの?」
目を白黒させているぼくにお母さんが質問してくる。ぼくは無言でうなずいた。
「ね、ねえ。なんであの二人がここにいるの? 部外者でしょ?」
今度はぼくがお姉ちゃんに聞く番。お姉ちゃんはちょっと首を傾げてこう答えた。
「えーとねえ。勝生さんは先生の先生の元生徒さんなんだってー。発表会があるときは手伝いで来てくれるの。もう一人の人はよくわかんない」
「勝生さんって――何者?」
ぼくが疑問を口に出すとあちこちから答えが返ってきた。
「昔はすっごく有名な俳優さんだったんだって!」「違うし。社長さんだし」「え? 作曲家でしょ?」「モデルじゃなかったっけ?」「ダンサーだってば。ね、そうでしょ?」
全部聞こえているくせに二人はにこにこしたまま正解を教えてくれなかった。結局二人の正体はわからないままその日の発表会は終わってしまった。
それは別にいいんだけど。いいんだけどさあ。
おじいちゃんに化粧されるの、気持ち悪くないのかなあ?


バレエ教室の発表会が終わってしばらく経った頃。ずっと謎のままだった勝生さんとヴィッチャンの正体をとうとうぼくたちは知ってしまった。
きっかけは英語の授業だった。
「今からみんなには長谷津に住んでいるある方たちが出演されているドキュメンタリー映画を観てもらいます。字幕で流すのでわからなかった漢字はメモをして家で読み方と意味を調べてみましょう」
先生がそう言って視聴覚室の電気を消す。室内が真っ暗になって、映像が流れ始めた。
車の運転席に座っている誰かと助手席に座っている誰かをカメラが映し出す。車は森の中のでこぼこ道を走っている様子だった。下に字幕が表示される。

――この車はどこに向かっているんですか?
――×××です。そこではフェルツマンコーチのサマーキャンプが行われる予定で、僕たちは講師として招待されているんです。

助手席に座っている男の人が後部座席を振り返る。その顔を見てぼくは「ああっ!」と声をあげてしまった。両隣に座っている鈴木と小岩がぼくの脇腹を肘でつつく。だって! これは! しょうがないだろ!

――ヤコフったらひどいんだよ。俺たちが引退した途端、師弟揃ってこれまでの借りを返せって詰め寄ってきてさあ。
――サマーキャンプに参加されるのは今回が初めてなんでしょうか?
――二度目です。僕は将来有望な才能に出会えるのかと思うととてもわくわくしますよ。ヴィクトルもそうでしょ?
――まあ、それなりにね。ユウリほど俺を驚かせてくれる人はいないだろうけど。
――僕は前回のサマーキャンプでたくさん刺激を受けました。子供って時々大人が思いもしないようなことをやってのけるんです。だから退屈する暇なんて全然なくて。将来は子供が集まってにぎやかに楽しく過ごせる場所を作るのもいいかなって。
――もちろん俺たちにとって一番大切なのがスケートであることに変わりはないけどね。

映画の中で動いて、喋って、笑って。
傷だらけになって、血反吐を吐くようなきつい練習を繰り返して、なのにそれを誰にも悟らせないで。
氷の上で滑って、跳んで、回って、きらきらして、輝いているのは。たくさんの感動を生み出しているのは――勝生さんと、ヴィッチャンだった。今よりもずいぶん若いけど面影がある。見間違えるはずがない。
何より二人が映画の中で暮らしている部屋に置いてあるいくつかのものをぼくたちはゆ〜とぴあかつきで何度も目にしている。
どうしよう。今度二人に会ったとき、どんな顔をすればいいんだろう。だってあんなにすごい人たちだって知らなかった。ただの変な人たちだって思ってたのに。とりあえず今度会ったら謝っておこう。
映画はどんどん進んで、どこかの国でアイスショーが開催されている場面に切り替わる。
氷の上で王子様みたいな衣装を着たヴィッチャンが色違いの衣装を着ている勝生さんの手を握りながらひざまずく。悲鳴にも似た歓声が弾けて、ヴィッチャンが緊張の面持ちでプロポーズの言葉を口にした。勝生さんの目からぽろっと涙が転がり出て、嵐にも似た拍手が巻き起こり、それから、それから――ぼくはこの世で一番素敵なものを見た。
映画はそこで終わった。
inserted by FC2 system