道化にはなれなかった 01

赤い舌がちろちろと空をなめる。咆哮と怒声と悲鳴が入り混じる。強風に木々がなぎ倒され、逃げ惑う人々の顔が恐怖にゆがむ。
劫火の中心に竜がいた。全身がミスリルよりも硬い鱗で覆われている。炎に照らされて光る鱗は黒い。邪悪な竜が炎のブレスを吐きながら猛り狂っている。甲冑を身にまとった騎士たちが、むくつけき傭兵たちが、長いローブをまとった魔法使いたちが、躍起になって竜を退治しようとしている。
突如、空に無数の光の槍が出現した。崖の上。竜を見下ろせる位置に一人の男が立っている。見事な銀髪が風になびく。紫色のローブが翻った。
駄目だ。光の槍ごときではあの鱗を貫けない。
竜が男をとらえた。口を大きく開けて炎を吐き出そうとする。男がにやりと口角を持ち上げた。
「逃げて――っ!」
誰かが男の名前を呼んだ。その瞬間、視界が真っ赤に染まって何もわからなくなった。


目を覚ますと知らない天井が見えた。
「あ、れぇ……?」
ぱち、ぱち。夢ではないかとまばたきを繰り返してみるけれど、視界に映る景色は一向に変わらない。勇利は軽く混乱しながらゆっくりと起き上がった。
自分は今の今までベッドに横になっていたらしい。腕には点滴が刺さっていて、頭には締め付けられるような感触がある。おでこに触れるとざらざらした質感が指先から伝わってきた。頭部に包帯を巻かれているらしい。次いで勇利は胸の辺りをまじまじと見つめた。自分が身にまとっているのは薄青の病衣だ。
「あ、」
不意にキキー! という甲高いブレーキ音と体がばらばらになりそうな衝撃がよみがえった。
「あー、そうだ」
僕、トラックにひかれたんだ。口に出したところで一気に現状が理解できた。
今朝勇利は寝坊して大学に遅刻しそうだった。普段ならば絶対にしないことだが慌てていた勇利は青信号が点滅しているのを無視して横断歩道を渡ろうとした。そしてドーン! だ。トラックが勇利に気付かず突っ込んできて体が宙に舞った。それ以降の記憶はない。
この部屋は病院の一室に違いない。おそらく自分は救急車で搬送され、一命を取り留めたのだろう。
「絶対死んだと思ったのに……不幸中の幸いだなあ」
今は離れて暮らしている両親や姉にはこっぴどく叱られるだろうけれども、運がよかったと言うほかない。勇利がほっと胸を撫で下ろしたときだった。
「いいや、確かに君は死んだはずだよ」
横から声が飛んできた。訛りのある英語だ。勇利は「へ?」と目を丸くする。声の主を目にした勇利はさらに目を見開いた。ベッド脇のパイプ椅子にとんでもない美丈夫が座っていたのだ。
夜空に散らばる星を溶かし込んだような銀色の髪、すらりと長い手足、宝石のような薄氷の瞳、陽光を浴びて透けるまつ毛、鼻梁の通った顔立ち。人の手で作られた彫刻のように計算された美しさを持つ男が上等そうなスーツに身を包み、こちらを眺めていた。
目が合う。にこりと微笑まれる。頬に熱が集まるのを自覚して、勇利はさっと目をそむけた。
(男相手になんでドキドキしてるんだ!?)
静まれ、静まれと必死に自分に言い聞かせる。
「ああいうことってよくあるの? あ、英語わかる?」
「英語は話せます。英会話を習っていたので……でも、意味がよく、」
「わからない?」
勇利は素直にうなずいた。すると男は唇に人差し指を当てて目を細めた。仕草のひとつひとつが色っぽく、どうしても目を奪われてしまう。
「俺は事故の現場に居合わせた。君がトラックにひかれる瞬間をこの目で見たし、すぐに駆け寄って君の息の根が止まっていることも確信した。頭部が割れて脳味噌が綿のように飛び出ているのも見た」
想像して勇利は吐きそうになった。男はよほど肝が据わっているのか顔色ひとつ変えず、淡々と言葉を紡いでいく。
「すぐに救急車を呼んだよ。救急車が来るまで俺はずっとそばにいた。そしたら驚くべきことが起こった。完全に停止していた君の心臓が再び動き始めたんだ……っ!」
そこで男の表情が一変した。頬が薔薇色に染まる。瞳がきらきらと輝き出す。とろけきった微笑みを向けられて勇利はたじろぐ。男がそんな表情を浮かべる理由がさっぱりわからなかった。
「俺はなんてラッキーなんだろうね。まさかこんな極東の島国で見つかるなんて思わなかった。俺は君をずっと探していたんだ。ようやく俺は君に出会えた!」
「待って、待ってよ。あなたの言ってること、全然わからない」
きっとこの人は勇利と誰かを間違えているのだ。だって勇利は彼とは初対面だ。どこかのセレブとしか思えない男が自分のような平凡な一般人を見初めるわけがない。
「わからない? わからないだって?」
男が感心しないというふうに片眉を上げる。勇利はひっと息を呑んだ。性別がどうであれ美人の不機嫌な顔というのは想像以上に恐ろしいものだ。
「君は俺の目の前で生き返ったんだ。魔法だ。とても強い魔法。死者を蘇らせる魔法は平行世界のどこにも存在しない。けれど心臓を取り替える魔法ならある。以前、死にそうな目に遭ったことは?」
「川で溺れて……息が止まったことなら。みんなが死んだって思ったけど、数分後に息を吹き返したって」
「アメイジング! やっぱりそうじゃないか!」
「だからどういうことなのさ!」
痺れを切らして勇利はとうとう叫んだ。ちゃんと説明してよ! 勇利が吼えると男はぴたっと口をつぐんだ。浮かれて騒いだことが恥ずかしくなったのか、ごほんごほんとわざとらしい咳払いをする。そしてとても優しい目で勇利を見つめた。
「君は九つの命を持っている。二つは使ってしまったようだから、正確にはあと七つだね。俺はずっと後を継いでくれる若者を探していたんだ。君は今日から大魔法使いの弟子になるんだよ」
「……え、え、ええええええええ!?」
驚愕し、あらん限りの声で叫ぶ勇利に男はばちんと片目をつむってみせた。


大魔法使いニキフォロフの名前はこの世界にあまねくとどろいている。大魔法使いとは魔法の番人であり、理だ。世界の均衡が崩れそうになったとき、彼はどこからともなく現われ、事件を解決して去っていく。
困ったことが起きたら大魔法使いの名前を三回唱えてごらん。そうしたら大魔法使いがやってきて必ず助けてくれるから。
幼い頃から勇利は大人たちにそう聞かされて育った。この世界の寝物語といえば大体が彼の英雄譚だ。持ち前のユーモアで巨人とジャックの仲を取り持った話や、恐ろしい力を秘めた九つの指輪をがらくただと言って燃やしてしまった話。ライオンの王様と駆けっこををして勝った話や、氷の魔女をやっつけた話。大魔法使いの逸話はいくつも存在する。
「そんな人の弟子に僕がなるなんてありえない……」
驚きから回復した勇利はベッドの上で呻いた。聞けば勇利を病院の個室に運ぶよう指示したのは彼だという。治療費はすべて彼が負担すると言い張っているが、理由のない厚意ほど恐ろしいものはない。
「ヴィクトル、僕には魔力なんて少しもないんだよ? なのに魔法使いなんかになれるわけないじゃん」
ヴィクトル・ニキフォロフ。それが彼のフルネームだった。勇利の訴えをヴィクトルはあっさり否定する。
「いいや、ユウリ。自分じゃ気付いてないだけで君は大きな魔力を秘めている。九つの命を持って生まれた人間は誰しもそうだ。だからこそ大魔法使いになる資格がある」
「簡単な呪文ひとつ使えないのに? あいたっ!」
自嘲気味に笑うとかなり強めのデコピンを食らった。
「そういうの好きじゃないなあ俺」
なんだかあんまりにも勝手すぎるような気がする。勇利は唇をとがらせた。ヴィクトルに文句を言おうとして、言葉を失う。彼が痛いくらいに真剣な眼差しをしているのに勇利は気付いてしまった。
「150年だ、ユウリ」
「え?」
「150年間、俺は後継者を探していた。俺の命はもう残り少ない。大魔法使いがいなくなれば世界はパニックになる。断言してもいい。この世界だけじゃないぞ? 地球系列世界のすべてが崩壊するかもしれない」
「………」
「君しかいないんだ、ユウリ。大魔法使いにならなくてもいい。だけどユウリは自分の価値を知るべきだし、俺にはユウリを鍛える義務がある。たった一度でいい。頼むから俺にチャンスをくれないか?」
――生まれたときからずっとわけもなく後ろめたかった。温泉屋の長男のくせに商才も魔法の才能も姉に劣っている自分が情けなかった。家族は何も言わないけれど、優しく自分を見守ってくれるけれど、孤独感は増すばかりで。
「僕、は、」
地元にいるのが息苦しくて遠くの大学に進学した。一人暮らしを始めてみたら後ろめたさはどんどん増していった。
「自分に自信が持ちたい。家族の前で胸を張っていられる自分になりたい。あなたは僕を変えてくれますか……?」
すがるように伸ばした手をヴィクトルはしっかりと握ってくれた。
「オフコース! 約束するよユウリ。いつか自分を誇らしいと思える日が必ず来るって。俺がそうしてみせるから」
力強く言い切るヴィクトルが勇利にはとてもまぶしく感じられた。
それから二人の間で様々な話し合いが行われた。
魔法の修行をするためにはヴィクトルと一緒に暮らさなければならない。だが今すぐ彼の本拠地に移住するわけにはいかなかった。結局家族にはありのままを報告し、彼のホームであるロシアに引っ越すのは勇利が大学を卒業してからと決まった。
「修行を始めるには遅すぎる。今だってユウリは育ちすぎてるのに」
ヴィクトルはこのようにぶつくさ文句をこぼしていたが勇利がてこでも譲らないとわかるとその内何も言わなくなった。二人で勇利の実家にも顔を出した。ヴィクトルは両親の前で流暢な日本語を操り、額を畳にくっつけて勇利を大層驚かせた。
自分の息子が大魔法使いの弟子になると知っても両親はいつもと変わらずにこにこしていた。姉の真利は「ビッグになって帰ってこい」と勇利の背中を叩いて活を入れた。そんな自分たちの様子を見て「いい家族だね」とヴィクトルが笑ってくれたのが勇利は嬉しかった。
そうして月日は流れ、勇利は大学を卒業した。ヴィクトルは多忙で世界中を飛び回っていたけれど、勇利が大学に通っている間、一月に一度は手紙をよこしてくれた。
「いよいよだよ、ユウリ」
ヴィクトルの声がわくわくと弾む。ここは勇利の実家だ。目の前には光り輝く魔法陣がある。
「魔法陣に入ったらその先は俺の家だ。覚悟はいい?」
「うん」
勇利はヴィクトルの視線を真っ向から受け止めた。覚悟ならとっくのとうにできている。
「……行ってきます」
首をひねり、背後に立ち並ぶ家族に別れを告げて勇利は一歩前に踏み出した。この日、この瞬間から彼の修行の日々は幕を開けた。
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