道化にはなれなかった 02

とても恐ろしい夢を見たような気がする。けれど眠りから覚めた瞬間に夢の記憶は霧散してしまって、ただ鮮烈な赤色だけがまぶたの裏に残った。それが意味するものは一体なんなのだろう。
勇利がぼんやり考え込んでいると寝室のドアが乱暴にノックされた。
「さっさと起きろ! ぐずぐずすんな!」
ドアの外から不機嫌そうに自分を呼ぶ声がする。勇利はひとつ苦笑を漏らすとベッドから降りて伸びをした。パジャマからジャージに着替えてドアを開ける。と、金髪の美少年が部屋の外に立っていた。
「おはよう、ユリオ」
勇利がにこやかに挨拶すると彼は「おう」と尊大な態度でうなずいた。彼の言動はいささか褒められたものではないが、勇利は肩をすくめるだけに留めた。彼はいつも毛を逆立てた猫のように周囲を威嚇しまくっているが、それはただのポーズで心根は優しいのだと勇利は知っていた。
「行くぞ。まずはランニングからだ」
彼の名はユーリ・プリセツキー。彼は勇利の教師の内の一人だ。ユーリは主に体術を教えてくれている。空手、柔道、フェンシング、彼はありとあらゆるマーシャルアーツを体得していた。ちなみにユーリが二人もいてはまぎらわしいとヴィクトルは彼をユリオという愛称で呼んでいる。
ロシアに越してきた次の日からヴィクトルの英才教育は始まった。ヴィクトルの部下や仕事仲間だという人たちが入れ代わり立ち代わり家を訪ねてきて、いろんな知識を勇利に授けていく。
長谷津を離れて一月。目まぐるしい毎日に勇利はようやく慣れてきたところだった。
「ねえ、ヴィクトルは?」
勇利の朝はマッカチンの餌やりから始まる。マッカチンはヴィクトルが飼っているスタンダードプードルだ。大きくて賢くてよく食べる。ユーリはぶちぶち文句をこぼすけれど、自身も猫を飼っているからかマッカチンの餌やりが終わるまでことさら勇利を急かしたりはしなかった。
「あー? 仕事だろ。今は第六……ちげえ、第七世界のイギリスに飛んでるはずだ。王子様がスケアクロウにさらわれたんだとよ」
「昨日は第三世界のアフリカじゃなかった?」
「知らね。あのジジイはとにかくじっとしてねえからな」
「そうなんだ……」
勇利は嘆息した。最後にヴィクトルに会ったのはいつだろう。二週間前? 三週間前? ヴィクトルはとにかく多忙な人でこの家を留守にしていることが多かった。
(そりゃ手取り足取りってわけにはいかないだろうけどさ……)
勇利がヴィクトルの仕事に同行させてもらっても足手まといになるだけだ。彼の仕事は危険なものも多い。場合によっては命のやり取りもしなければならないとヴィクトルは言った。
未熟な自分がヴィクトルと一緒にいたいなどとおこがましいことを言えるはずもない。けれど完全な放置プレイは案外堪える。ヴィクトルに乗せられてのこのこロシアまで来てしまった自分が馬鹿みたいに思えるのだ。
一流の人々に師事しているというのに未だに簡単な魔法ひとつ使えない自分。こんなザマではいつ見限られてもおかしくない。せめて三十分、いや十分でもいい。ヴィクトルと話がしたかった。俺の見込み違いなんかじゃないよ。ユウリはちゃんと魔法が使えるんだよ。そうやって言葉にしてもらえたら、この焦燥も不安も消えてくれるはずなのに。
(それとも本当はそこまで期待してないのかな)
九つの命を持つ人間はとても珍しいのだという。けれど探せば勇利以外にもう一人くらい見つかるはずだ。
(弟子なんかじゃないよ、ヴィクトル。僕があなたの弟子になれるわけがない)
自分はただの道化だ。一時ヴィクトルを楽しませるための。
割り切ってしまえば悩むこともない。いつかヴィクトルは失望して勇利は家に帰されるだろう。そのときまで勇利は道化を演じればいい。
諦めてしまえば、息をするのはこんなにも簡単なのだから。
「おい……」
「何?」
玄関で靴を履いていたらユーリが物言いたげな顔で勇利を見つめた。彼は何かを言いかけて、結局何も言わずに口をつぐんだ。
「……今日から距離長くすんぞ。へばんなよ」
「よろしくお願いします」
勇利はぺこりと頭を下げた。


さっきからお腹がぐるぐるしている。気持ちが悪い。きっと昼食を食べすぎたせいだ。もう喉を通らないと言っているのに、ユーリは勇利が食事を残すのを許そうとしなかった。ゆっくりと、かなり長い時間をかけて完食したけれど、あともう少しでトレイに駆け込むところだった。
「――リ! ユウリ!」
「っ……!」
気付けば光沢に富んだ磨いた黒檀のごとき双眸が目と鼻の先まで接近していた。勇利が反射的に仰け反ると彼、ピチット・チュラノンは心配そうに眉を潜めた。
「顔色悪いけど大丈夫? ずっと上の空みたいだし、今日はこのくらいでやめとく?」
「いや…平気だから続けて。ちょっとお昼食べすぎちゃって」
「そう、なんだ」
「うん……」
二人の間に気まずい沈黙が落ちた。勇利はそっと目を伏せる。なんでもないなんて下手な誤魔化しがピチットに通じるはずがない。現に彼の面持ちは険しいままだ。
けれど何があったの? と問いかけられても勇利には答えられない。答える気にもなれない。勇利が抱えている劣等感がピチットに理解できるとは到底思えなかった。ないものねだりをするのは、惨めだ。
「あの……」
静寂に耐えられなくなった勇利がそろそろ顔を上げると彼は何を思ったのか、満面の笑みを浮かべた。チョコレート色の滑らかな肌が、真珠の粒のような歯の白さを際立たせている。
ピチットはタイ人で世界史の先生だ。平行世界の概念や、こことよく似た別の世界のことを最初に教えてくれたのは彼だった。
自分たちが生きているこの世界によく似た世界が全部で九つ存在する。人間が地球に暮らし、文明社会を築いている九つの世界には番号が割り振られており、まとめて地球系列世界と称されている。
勇利が生きているのは地球系列世界の中の第九世界だ。魔法の発展が著しく、日常生活において当たり前に魔法が使われている世界である。この世界に魔女狩りの歴史は存在しない。
そんなSFめいた超理論をピチットは噛み砕いてわかりやすく説明してくれた。大魔法使いになるなら様々な世界、様々な国の歴史に精通していなければならない。人の在り方は同じでも細部はまるで異なるからだ。
初回の授業で一通り説明を終えると、目を白黒させている勇利に対してピチットは笑って言った。
――大変かもしれないけど、僕がちゃんとサポートするから。一緒に頑張ろうね、ユウリ! 僕のベストフレンドになってよ!
差し出された手は温かく、壁を感じさせないピチットの明るさに勇利はとても安心したのだった。今もそうだ。ピチットは優しい眼差しで勇利を見つめている。
「ユウリ、魔法の勉強は楽しい?」
「うーん、どうだろう。知らないことを知るのは楽しいけど……」
「そっかぁ。僕はね、魔法を学ぶの楽しいよ! 魔法が大好き。だから極めたいって思ってる。もっときれいで、もっとすごい魔法を使えるようになりたい。ヴィクトルみたいに!」
その言葉を聞いて勇利はどきっとした。次に何を言われるのか、考えただけで鼓動が速くなる。ピチットがありきたりな慰めの台詞を口にしたら、自分の自尊心はおそろしく傷付くだろう。やり場のない怒りを彼にぶつけてしまう。そんな子供じみた真似だけはしたくなかった。
「もしも僕が魔法を使えなくても、やっぱり学ぶことを望んだと思う。ヴィクトルに憧れるのは自由だし。でもユウリと僕は違うから」
けれどピチットは安易な励ましや慰めの言葉は口にしなかった。勇利との間に彼は明確な線を引いた。今の勇利にとってその気遣いはとてもありがたいものだった。
「ヴィクトルって頓着せずに周りを振り回す人だから、ユウリが苦労するのもなんとなくわかるんだ。僕、ユウリには笑っててほしい。だからよく聞いてね」
ピチットは勇利の目をじっと見つめて言った。
「いつだって君は自由だ。ここに留まるのも、出ていくのも、全部ユウリが決めていい。だけどヴィクトルは嘘だけはつかないんだ。そのことをよく考えてみてね」
「ピチット君て……どこまでもピチット君なんだ」
「何それ! どーいう意味!?」
アハハハハ! とピチットが声をあげて無邪気に笑う。彼に諭されて少しだけ胸のつかえが取れたような気がした。今日の授業はそれで終わりだった。
「じゃあ、僕はそろそろお暇するね。晩ご飯、ちゃんと食べること。あと! 次に僕に会うまでにその目の下の隈もなんとかしなくちゃ駄目だよ。バイバイ!」
ピチットがひらひらと手を振って玄関から去っていく。彼を見送ってドアを閉めた勇利は深々とため息をついた。


一方。ニキフォロフ宅をあとにしたピチットは感情の奔流を抑えるのに必死だった。勇利はサンクトペテルブルクに来てから明らかにやつれているし、夜も満足に眠れていないようだった。目の下の隈が何よりの証拠だ。
(無責任にもほどがあるよ! いくら仕事が忙しいからってありえない!)
おそらくユーリからも苦情がいっているだろうが、自分とて黙ってはいられない。長年探し続けてようやく見つけたはずの弟子があんなふうになっても放っておくのなら、ヴィクトルに師匠面する権利はない。一刻でも早く勇利を国里に送り返すべきだ。
「エッペン」
自身の影に向かって呼びかける。と、影が揺らいだ。揺らめき、収束し、影の魔物が鷹の形を取って現れる。彼女はピチットの使い魔だ。
「今から僕が言うこと、一言一句違わずヴィクトルに伝えてくれる?」
ピチットの瞳が赤々と燃える。それは紛れもなく憤怒の炎であった。
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