道化にはなれなかった 03

チョークで描かれた魔法陣の真ん中に立つとヴィクトルは踵を二回床に打ちつけた。途端、周囲の景色がぐにゃりとゆがみ一変する。よく知っている温かくやわらかな空気に肌を撫でられ、どっと肩の力が抜けた。
(やっと帰ってこられた……)
今回の仕事は特に大変だった。まさか妖精の国まで出向いて、妖精王に英国の王子を返せと直談判する羽目になるとは思わなかった。
しかも王子をさらった理由はただの退屈しのぎであり、王子を返してもらうためにはチェスの一騎打ちで勝たねばならなかった。
三日三晩、不眠不休で戦い続け辛くも勝利したが途中、ユーリやピチットの使い魔たちに横槍を入れられたときは本気で発狂しそうになった。あそこで耐えた自分は偉いと心の底から思う。
(ユウリを気遣ってやれって言い分はわかるけど……)
そもそも別の世界では時間の流れも違う。
第七世界では第九世界よりも時が早く進む。こちらの一週間は向こうの一日に等しい。
ヴィクトルとて交渉を長引かせるつもりはなかった。できるだけ早く戻るつもりだったのだ。だが何をどう言いつくろったところで、ユーリもピチットも納得しないだろう。
(――疲れた)
心身ともにヴィクトルはくたびれていた。ソファにダイブし長く深く息を吐き出す。
世界は九つも存在するというのに、大魔法使いはたったの一人。その重圧を理解してほしいなどとはいわないが、やっと見つけた弟子をないがしろにしていると思われるのは心外だ。
仕事で出向いた極東の島国。突然の悲劇にヴィクトルの胸は締め付けられた。なんの罪もない無垢な魂が目の前で消えていく。あのとき世界はどこまでも残酷だった。
だからこそ勇利が息を吹き返したとき、ヴィクトルは本当に本当に嬉しかったのだ。全身の細胞が歓喜を叫んでいた。肩の荷を半分預けられる相手が現われることをずいぶん長い間渇望していたヴィクトルにとって、勇利との出会いはまさに僥倖だった。
かわいくて、かわいくて、仕方がない。もっと心をくだいてやれたらと思う。だがこの身はひとつ。ヴィクトルには他に優先しなければならないことが山ほどある。
(ユウリ、は、もう寝てしまったか)
時計を確認すれば日付はとっくのとうに変わっていた。今頃彼は夢の中だろう。起こしてしまうのは可哀想だ。けれど彼はあまり眠れていないようだと使い魔の口を通してユーリたちが教えてくれた。それが気がかりだ。
(顔を一目見るくらいなら大丈夫か?)
ヴィクトルは静かに立ち上がった。勇利にあてがったゲストルームのドアを控えめにノックする。当然ながら返事はなかった。軽く逡巡したのち、ヴィクトルはそっとドアノブに手をかけた。
「……ぶない……げて……だめ、」
「ユウリ?」
勇利は悪夢にうなされているようだった。びっしょりと汗をかき、眉根を寄せ、うわごとを何度も繰り返している。彼は毎晩悪夢を見ているのだろうか。だとしたら眠れないのは当然だ。
「可哀想に。こんなにやつれてしまって」
肌から健康的なつやが失われている。ヴィクトルはにわかに後悔した。いくら仕事のためとはいえ、長く彼のそばを離れるべきではなかった。もっと早く気付いてやるべきだった。
ヴィクトルは勇利を起こしてしまわないよう、慎重に彼の額に右手を置いた。小さく呪文を唱える。すると険しかった彼の面持ちが徐々に安らかになっていった。
「俺にできるのはこれくらいだ」
いい夢を。つぶやいてヴィクトルは踵を返した。返そうとした。
「――う”ぃくとる?」
けれど舌足らずに名前を呼ばれてしまっては立ち止まるほかない。ヴィクトルは微笑んだ。
「ごめん……起こしてしまったね。俺はもう行くから寝なさい」
「……………うん」
何度か口の開け閉めを繰り返し、勇利は小さくうなずいた。ヴィクトルは首を傾げつつ彼の部屋をあとにした。ドアにもたれ、腕を組んで考え込む。
(さっきのユウリ、何か言いたそうにしていたな)
こんな時間だし、長々と居座るのも悪いと思って早々に立ち去ってしまったけれど、もしかしたら勇利は自分との会話を望んでいたのではないだろうか。ヴィクトルと勇利の間には明確な壁がある。その壁を飛び越えるチャンスを自分はみすみす逃したのかもしれない。
「っユウリ!」
そう思うと居ても立ってもいられなくなり、ヴィクトルはもう一度ドアを開けた。彼はベッドの上で上半身を起こし、静かに肩を震わせていた。鈍器で頭を殴られたような衝撃がヴィクトルを襲った。
「あ、ごめんなさい、違うんです、僕、あのっ!」
ヴィクトルに泣き顔を見られた勇利はわかりやすく狼狽した。必死で誤魔化そうとする彼は意地らしくて、見ていられなかった。こんなに近くにいるのに一人で泣かせてしまった。最悪だ。
「ユウリ……俺と遊覧飛行しない?」
ごくり、と生唾を飲み下し、ヴィクトルはおそるおそる提案した。あんなに緊張したのは久しぶりだったとヴィクトルはのちに語るのだった。


勇利が固まって反応できないでいると、痺れを切らしたヴィクトルがベッドに乗り上げてきた。スプリングが軋む。目を白黒させていた勇利は慌てて涙をぬぐった。
泣き顔を見られただろうか。多分大丈夫なはずだ。ヴィクトルの声は平然としているし、月明かりをのぞけば部屋は真っ暗だ。何も見えるはずがない…。焦っている勇利は色素の違いというものをとんと失念していた。
(我ながら女々しい)
ヴィクトルに背を向けられた瞬間、無性に寂しくなって堰を切ったように涙があふれ出た。あなたに会いたくてたまらなかったなんて、口が裂けても言えやしない。
「服……はそのままでいいか。こっちこっち」
勇利の足をまたぎ越し、ヴィクトルが窓を開け放つ。風に乗って夏の草花の匂いが鼻孔をくすぐった。窓枠に身をくぐらせたヴィクトルがおいでと勇利に向かって手招きをする。勇利は困惑しながら彼に近寄った。
「あの、何をするつもりなんですか?」
「何って、さっきも言ったでしょ。遊覧飛行。魔法の絨毯はないからただのお散歩になっちゃうけどね」
「なんでそんなこと……」
「頑張ってるユウリに俺からのご褒美だよ。さ、この手を取って」
暗闇の中で、白魚のように光るヴィクトルの手が差し出される。無意識に手を重ねようとして勇利ははたと気付いた。彼はさっき仕事を終えて帰ってきたばかりのはずだ。一筋の月明かりに照らされている彼の横顔は青白く、調子がいいようには見えない。
(休ませてあげないと、)
夜の散歩なら今日じゃなくてもいい。自分に付き合って彼が無理をする必要は、ない。
宙に浮かせた手を勇利は引っ込めようとした。けれど。「駄目だよ、ユウリ」あっさり捕らえられて強い力で引き寄せられる。勇利の腰を抱いて男は満足そうに笑った。彼の吐息が耳をかすめてかっと頬が熱くなる。
「逃げないで。お前に逃げられると傷付く」
「嘘だあ」
思わずこぼれた本音にヴィクトルは唇をとがらせた。
「嘘じゃない。かわいい弟子に素っ気ない態度を取られる俺の気持ち、考えたことある?」
言われて勇利はそっと目を逸らした。ぐつぐつと血液の煮える音が耳の奥から聞こえる。
「ユウリ?」
ヴィクトルが心配そうに顔をのぞき込んでくる。刹那、まぶたの裏でぼこっと赤い泡が弾けた。
「……素っ気ないとか言われたって、知らない。期待外れだって思うなら別の人を弟子にすればいいよ。ヴィクトルだって本当はがっかりしてるんでしょ?」
「ちょっ、と待って、ユウリ。話を、」
「どうせ僕は出来そこないだよ。落ちこぼれだよ。そんなの僕が一番知ってるよ! 僕がヴィクトルの期待に応えられるわけがない! そんなの最初っからわかってたじゃないかっ!!」
ヴィクトルが驚いたように息を呑む。とうとうやってしまった。どろどろしていて、醜い自分をさらけ出してしまった。
実力もないくせにプライドだけは人一倍高い自分。人付き合いが苦手で、与えられるものを何もかも拒絶して、一匹狼を気取っている。誰かに認められたくてたまらないのに素直になることもできない。
惨めで情けなくて恥ずかしい人間。それが勝生勇利の本質だ。ヴィクトルに釣り合うはずもない。
「――それでユウリの言いたいことは全部?」
それなのになぜかヴィクトルの声音はとても優しかった。見放されると決めつけてかかっていた勇利が戸惑うほど。
「ねえ、ユウリ。ネバーランドに連れていかれた子供たちが空を飛ぶには何が必要か知ってる?」
「……へ?」
「信じる心と妖精の粉があれば彼らは空を飛べるんだ。そうか、お前は何もわかってなかったんだな」
俺は感覚派だからね、教え方がわかりにくいっていつも文句言われるんだ。だからユリオたちに教育を任せたんだけど、失敗だったかな。頑固なユウリには体感させるのが一番手っ取り早いのかも。
「あの、すみません。僕の話聞いてました?」
「うん聞いてたよー。要するにユウリは自分に自信が持てないんでしょ?」
「一言……」
自分が誰にも言えずに長いこと抱えていたコンプレックスをあっさり要約されてしまい、勇利はがーんとショックを受けた。
「つまり魔法が使えるようになればいいわけだ」
「そんな簡単に言わないで」
「簡単なことだよ。自転車の漕ぎ方を覚えるのと同じ。――今から飛ぶけどしっかり俺に捕まっててね!」
制止する間もなく。ヴィクトルは勇利の腰を抱いたまま夜空に身を躍らせた。
「う、わぁあああぁあああ!!」
バタバタと衣服の裾がはためく。ビュンビュン風を切る音がする。重力に逆らって落ちていく。腹が底冷えする。勇利は悲鳴をあげながら必死に足をばたつかせた。ヴィクトルが声をあげて笑う。
「死ぬ死ぬ死ぬううう!」
「いいよいいよその調子!」
「バカ! ヴィクトルのバカ! 自殺なら一人でやってよバカ!」
ぐんぐんと落下する。地面が近付く。潰れたトマトが脳裏をよぎり、新たな涙がつと勇利の頬を伝った。
不意にヴィクトルが指を鳴らす。風がぶわりと巻き起こり、落下が止まる。浮遊感が全身をつつみ、勇利はぽかんと口を開けた。無言でヴィクトルを見やる。勇利と目が合うと彼はばちんと片目をつむった。
「浮遊魔法は初歩の初歩って誰かに教わらなかった?」
「………………」
もはや何を言う気も起こらず勇利は顔をそむけた。自分の不安をぶつけて、泣き喚いて、醜態をさらしまくった挙句、知識不足を問われた。もう嫌だ。灰になって消えてしまいたい。両手で顔を覆い勇利は羞恥に打ち震える。
「見てごらんユウリ。今夜は星がきれいだ」
勇利の心境を察しているのかいないのか。わかった上で素知らぬ振りをしているのか。ヴィクトルが顔から手をどけるよう促してくる。しばらくためらった末、勇利はゆっくりと頭上を仰いだ。そして――目を瞠る。
「……すごい」
気付けば二人は雲の上を漂っていた。大気が薄く少しだけ肌寒い。その分、月も星もくっきりと見える。幾千幾万の宝玉がきらめいて夜空を彩る。夏の大三角形がすぐ近くに見えた。耳を澄ませば星々が奏でるさやかな歌さえも聞こえてきそうな絶景に勇利は言葉もなく見惚れた。
「ユウリ、気付いてる?」
「え?」
「ユウリは今自分の力だけで飛んでるよ」
「え!?」
勇利は慌てて自身の体を見下ろした。ヴィクトルの言葉は本当だった。いつの間にかヴィクトルの手は離れていて、勇利は一人で雲の波の上を飛んでいた。
「――信じられない」
呆然とつぶやく。腰に手を当ててヴィクトルは誇らしげに胸を張った。
「ほらね。俺が間違ってるはずがないんだ。ユウリはれっきとした魔法使いなんだよ。……おっと!」
衝動的に勇利はヴィクトルの胸に飛び込んでいた。二人はくるくるとその場で回転する。
「ヴィクトル、僕、僕、ありがとう……本当にありがとう」
胸がいっぱいで陳腐な感謝の言葉しか出てこなかった。おそるおそるヴィクトルの背中に手を回す。と。ヴィクトルに全力で抱き締め返された。肺が潰されて嬉しい悲鳴をあげる。
(ああ、そうか)
ヴィクトルの腕の中で勇利は唐突に自分の運命を理解した。
(僕はきっとこの人に出会うために生まれてきたんだ)
迷いや不安は消えていた。今はただ彼の温もりを感じていたかった。
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