道化にはなれなかった 04

「ユウリってダンスは得意?」
「へ?」
突然の問いかけに勇利は手を止めた。フォークの先端からジャガイモが落ちて、皿の中に逆戻りする。その拍子にクリームシチューが跳ねて勇利のシャツを汚した。
「ああ、ごめんごめん」
ヴィクトルが苦笑しながら人差し指を振ると胸の辺りにできた染みは瞬時に消えてなくなった。
「で、どう? ユウリは踊れる?」
「えっと……他の人よりはできると思う。高校卒業するまでバレエ習ってたから」
「リアリイ?」
ヴィクトルが驚いたように目を丸くする。野暮ったい外見の勇利と華やかなバレエが彼の中では上手く結び付かなかったのだろう。勇利は腰に手を当てて胸を張った。
「うん。僕の唯一の特技、かな」
勇利がはにかむとヴィクトルはテーブルに手をついて身を乗り出してきた。
「なら明日から練習を始めよう。魔法の授業は一旦中止ね。即興で踊れる曲はある? 白鳥の湖とかくるみ割り人形とか」
「踊るのは別に構わないけど……どうして練習が必要なの?」
勇利が問いかけるとヴィクトルは虚を衝かれたように目をまばたかせ、「またやってしまった」と自身の額をはたいた。ヴィクトルは思いつきで行動を起こす人間だ。ゆえに先走って結論を最初に述べることが多い。説明が不足するのもしょっちゅうで、最近の勇利は気の向くまま突っ走るヴィクトルのストッパー役を自ら買って出ている。
「もうすぐ俺の誕生日パーティーをやるんだ。宮殿を借りて」
「…………宮殿?」
「そう、宮殿」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
「…………わあ」
勇利は考えることを放棄した。大魔法使いというのはなかなか儲かる職業らしい。ヴィクトルの自宅は広々としていて高価そうなインテリアがあちこちに飾られている。それだけではなくヴィクトルが普段身に着けているのは全てハイブランドの代物で、勇利は恐れおののくばかりだ。今使用している食器やカトラリーも桁がひとつ違うものばかりなのだろう。値段を知ってしまえば触れるのが怖くなるに決まっているので、勇利はお金に関する事柄についてはなるべく現実逃避するようにしていた。
「それでいろんな人を招待するつもりなんだけれど、テーブルマナーとかワルツのステップとか一通りユウリに教えておいたほうがいいだろうと思ったんだ」
「なるほどね。それでダンスの相手は誰がしてくれるの? ユリオ? それともピチット君? クリスとギオルギーの二人は女役に適さないよね。身長高いし」
「お前の相手は俺だよ」
「えっ」
「俺は男役も女役もどっちもできるからね。ユリオの踊りには女性のやわらかさが足りないし、ピチットの動きはクセが強いんだ。タイ舞踊が基礎になってるからかな」
「でもヴィクトル忙しいんじゃないの?」
「まあね。だから優先度の低い仕事はみんなに割り振るつもりだよ。一週間くらいなら俺がいなくてもなんとかなるさ」
勇利が空を飛べるようになったあの日から、ヴィクトルは夕食の時間には必ずこの家に帰ってくるようになった。そしてその日あった出来事を勇利の口から聞きたがる。彼は自分と勇利の間には信頼関係が全く成立していないという事実に気付いたらしい。メンタルが安定していないと魔力を上手く操れない勇利のために、ヴィクトルは時間を割いてくれているのだった。
ただでさえ忙しいヴィクトルの手を煩わせるのは申し訳ないと思う反面、一週間もヴィクトルを独占できると思うと喜びを隠しきれない。勇利はパンを頬張りながら明日からのダンスレッスンに思いを馳せる。
(ああ、今日はお風呂から上がったらちゃんと柔軟しないと……。クラシックのCDって日本から持ってきてたっけ? なかったらヴィクトルから借りればいっか)
勇利がああでもないこうでもないと考えていると、視界の端から手が伸びてきて顎をすくわれた。楽しげに目を細めたヴィクトルが至近距離でささやく。
「そんなにそわそわして……俺といられるのが嬉しいの? かわいいね」
「っあ」
顎をくすぐられ、勇利は吐息を漏らす。かっと頬が熱くなった。反射的にヴィクトルの手首をつかむ。
「からかうのやめてよ。そもそも僕男だし、かわいいとか、そんなのおかしい……」
「からかってるだなんて心外だな。ユウリがかわいいのは本当のことなのに」
「もういいから。さっさとご飯食べちゃおうよ。シチューが冷めちゃう」
勇利のつれない態度にヴィクトルはしばらく唇をとがらせて文句を言っていたが、勇利が相手をしないでいると肩をすくめて食事を再開した。


どの国のどの町にあるのかもわからないバレエスタジオでヴィクトルと勇利は向かい合っていた。
ダンスの練習をするには広い空間がどうしても必要だ。一部の壁面が鏡になっていれば尚更いい。しかしバレエスタジオを一週間丸々貸してくれる知り合いの伝手など、ヴィクトルは持っていなかった。ゆえに彼は少々強引な手段を用いた。
今は使われていない閉鎖されている廃屋じみたスタジオとリビングのドアを力技でつなげたのである。床に分厚く積もった埃や割れた鏡などは魔法を使えばすぐにきれいになった。匠もびっくりなビフォーアフターを目の当たりにした勇利は「やっぱりヴィクトルはすごいやっ!」と目をきらきらさせていて、俺の弟子がこんなにもかわいい……っ!とヴィクトルは身悶える羽目になった。
けれど時間は有限だ。いつまでも遊んでいるわけにはいかない。ヴィクトルが手を打ち合わせると鋭く乾いた音が空気を裂いた。途端、勇利の背筋がしゃんと伸びる。
「まずはユウリの技量を見せてほしい。踊れるのはバレエだけ?」
「ううん。バレエもだけど……ブロークンダンスとか、ベリーダンスとか、タップダンス、ポールダンス、フラメンコ……。ワルツも一応習ったことはあるよ。『シャル・ウィ・ダンス?』の真似したり」
指折り数える勇利にヴィクトルは束の間言葉を失った。ユーリから彼は体力お化けだと聞かされていたので、運動神経はそこまで悪くないのだろうとヴィクトルは思っていた。現に彼の動きは野暮ったい外見とは裏腹に常にきびきびしている。昨日勇利がバレエを習っていたと知って、彼の腹筋が割れているのにも納得がいった。
だが勇利のポテンシャルはヴィクトルの予想を大きく超えているらしい。
(ユウリは本当にびっくり箱みたいだ)
次にどんな行動を起こすのか直前までわからない。だからこそ見ていて飽きない。
「じゃあストレッチが終わったら声をかけて。肩慣らしに一曲踊ってもらうよ。そのあと休憩を挟んでワルツの練習に移ろう」
「はい」
勇利の顔がきりりと引き締まる。いい顔だ。黙々とストレッチに取り組む勇利を眺めていると、遠い過去が顔をのぞかせてくる。
ヴィクトルとて最初から大魔法使いになると決まっていたわけではない。ヴィクトルも昔はただの子供だった。貧しい村に生まれ、冬になると木製の靴を履いて凍てついた湖の上を駆け回った。そり遊びとスケートだけが深い雪で閉ざされた村の娯楽だった。
大魔法使いの修行をするため村を離れるとき、一番悲しかったのはもうスケートができなくなることだった。家族との別れはそこまで辛くはなかった。会おうと思えばいつでも里帰りできたから。
反対にヴィクトルを喜ばせたのは教養としてダンスやピアノのレッスンを受けられたことだ。上流階級の人間らしく振る舞うのも大魔法使いの務めだとかつて師は語った。
ヴィクトルは美しいもの、芸術を愛している。魔法もまた芸術の一種だ。あまたの人々を魅了し、その瞳に、胸に、夢や希望を灯す。いうなれば点灯夫のようなものだ。
勇利の中に宿ったばかりの小さなともし火を大きく燃え上がらせてやること、消えてしまわぬよう風よけになってやること。それが今のヴィクトルの役目だ。
「ヴィクトル、ストレッチ終わったよ」
名を呼ばれ意識が過去から現在に引き戻される。挑むような面持ちでこちらを見る勇利にヴィクトルは口角を持ち上げた。
「よし、曲をかけるよ。何番?」
勇利から渡されたCDをオーディオにセットしながら尋ねる。と、即座に「5番」と返事があった。真っ白なCDには英語でスワンレイク――白鳥の湖と油性マジックで書かれている。
「黒鳥のグラン・フェッテを踊ります」
「……へえ」
肩慣らしにしてはずいぶんと難易度の高いものを選ぶ。勇利の負けず嫌いが垣間見えてヴィクトルはくすりと笑みをこぼした。
フェッテとはフランス語で泡立てる、鞭打つなどを意味する単語だ。黒鳥のグラン・フェッテ・アン・トゥールナン――略してグラン・フェッテもしくはフェッテと言われることが多い――は踊りの中に脅威の32回転が含まれている。宙に浮かした踵の上下で勢いをつけ、遠心力を利用して回る。オディール役の女性は練習では本番の倍の数を回る。軸足一本でいかに速く美しくダイナミックに舞えるのかが鍵になる。
たとえ勇利が男性だとしても、己の技量を知らしめるのにこれほどうってつけの踊りはないだろう。
「いいよ。やってみせて」
勇利がうなずいてスタートポジションに着く。ヴィクトルが再生ボタンを押すと華やかな音楽が流れ始めた。トゥシューズを履いた勇利の足が跳ね上がり、そして――空気が一変する。
緻密で、伸びやかで、優雅な動き。王子を誘惑せんとするオディールを勇利は見事なまでに演じきっている。
(これは……すごいなんてもんじゃない)
ヴィクトルは口元に拳を当てて勇利の踊りに見入った。勇利が蠱惑的な流し目をくれる。怪しげな色香が全身から放たれ、自分を誘惑しようとする。息つく暇もない32回転。彼のスピンは速く美しく文句の付け様がなかった。服の裾から白くなまめかしい腹筋がちらつく度、見てはいけないものを見ているような気分になる。
気付けばヴィクトルは一歩足を踏み出していた。勇利の手首が翻り、王子と化したヴィクトルをたぐり寄せる。勇利の腰を支え、リフトする。長年組んで練習していたかのように二人の息はぴったりと合っていた。
曲が終わる。ヴィクトルは勇利の足元にひざまずき、手の甲にそっと唇を寄せた。
「ど、う……かな……はあ、はあ」
肩で息をしながら小首を傾げる勇利にヴィクトルは両手を上げて降参の意を示した。


勝生勇利はベビーフェイスである。本人は「東洋人はみんなこんなもんだよ」と頑なに否定しているが他のアジア人と比べても彼は幼く見える。
顔は下膨れ気味で眉は太く凛々しい。くっきりした二重まぶたを縁眼鏡の下に隠していて、髪の毛はいつもどこかしら跳ねている。人目を惹くような派手な見た目ではないが、彼が信頼している相手に対してだけ浮かべる笑みはひたすらに無防備で心をくすぐる何かがある。
人目を惹く派手さはないが端整な顔立ちをしている勇利が着飾ったなら、がらっと雰囲気が変わるに違いない。ヴィクトルはそう踏んでいた。
「ヴィクトルー、これでいい?」
「――ワーオ」
髪のセットを終えて洗面所から出てきた勇利は、しかし、さながら、さなぎから羽化した蝶のごとき変貌を遂げていた。
普段は下ろしている前髪を上げて後ろに流し、フルオーダーのスーツで全身を包んでいる勇利はヴィクトルの隣に立っても見劣りしないほどきらびやかだ。
ヴィクトルがさんぜんと輝くダイヤモンドならば、彼は月光を湛えて静かに光る黒真珠だ。いささか陳腐な言い回しではあるが。
「あの、僕そんなに変、かな」
穴が開きそうなほど見つめられ居心地が悪くなったのか、勇利がもぞもぞ身をよじる。「いいや?」ヴィクトルは首を横に振って勇利の首筋に鼻をうずめた。勇利が小さく悲鳴をあげて逃げようとするが両足に太股を絡めて動きを封じる。
下品にならない程度に振りかけられた香水がヴィクトルの鼻腔を満たす。体臭と、整髪料と、香水が混じった複雑な男の匂い。
「ひぅっ」
ますます強く鼻を押し付けると勇利の体が小さく震えた。これ以上は、おそらく、許されない。ヴィクトルは名残惜しく思いながら勇利の手を解放した。
「……あのさあ」
首筋を抑えながら物言いたげな顔をしてこちらを見る勇利にヴィクトルはにっこり笑って言った。
「大丈夫。ユウリは十分いい男だよ」
「……僕の気も知らないで」
日本語で勇利がぼそっとつぶやく。意味を尋ねても勇利は教えてくれなかった。もうすぐパーティーの始まる時間だ。
「お手をどうぞ」
「これはどうもご丁寧に」
ヴィクトルがうやうやしく手を差し出すと、勇利がそっと手を重ねてきた。顔を見合わせてどちらからともなく噴き出す。
今日開かれるのはヴィクトルの誕生日パーティーだ。表向きはそうなっている。けれどそれだけではない。大魔法使いの弟子である勇利のお披露目も兼ねているのだ。今の彼を見れば招待客の誰もがヴィクトルが自らエスコート役を買って出るのに相応しい相手だと認めるだろう。
勇利はヴィクトルの手で磨かれて自信をつけていく。醜いアヒルの子が白鳥に成長するように、勇利は少しずつ輝きを増していく。
勇利の成長を見守るのがヴィクトルは楽しくて仕方がなかった。
(いつかこの子は俺の手を離れてしまう……)
いつかはそうしなければならない。ヴィクトルの命はあと二つ。勇利の命は七つも残っている。勇利よりもずっと早くヴィクトルは死ぬだろう。
だからこそ今は誰よりも近いところで勇利の輝きを脳裏に焼き付けるのだ。
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