道化にはなれなかった 05

「いよいよ出陣だ。覚悟はいいかい?」
ヴィクトルが優雅に微笑みながら顔をのぞき込んでくる。勇利はヴィクトルの腕に手を添えたまま微笑み返した。
「いいよ。いつでもどうぞ」
もちろん挑発的な微笑はただの虚勢だ。極度の緊張に勇利は今にも失神しそうになっている。だがそれを悟られるわけにはいかない。平生の自分が他人の目にどのように映っているか、勇利はよくよく承知している。ユーリにもお前は大魔法使いの弟子らしくないとしょっちゅう言われている。
だから今夜は、今夜だけは、本当の自分を隠して堂々たる振る舞いを見せつけねばならない。いかにも才気にあふれていて勉学に長けている人好きのする若者。勇利が今から演じるのはそういう人間だ。
ヴィクトルがそばにいてくれる。なら勇利はどんなことだってできるはずだ。彼の名誉を守るためなら、まったく違う自分を演じることなどいともたやすい。
(さあ、幕の上がる時間だ――)
カチリ、と脳味噌のどこかでスイッチの切り替わる音がする。まぶたをきつく閉じて開く。と同時にヴィクトルが動き出した。魔法陣の中に足を踏み入れる。世界がぐるりと回転し、気付けば二人はエカテリーナ宮殿の大広間に立っていた。ヴィクトルと勇利を認めた人々がざわめく。
優雅な音楽、目も眩むほどきらびやかなシャンデリア、色とりどりの宝石、ドレス、美しく着飾って笑いさざめく人々。まさか自分が社交界デビューを果たす日が来るなど、少し前まで思いもしなかった。
「ユウリ、意識を飛ばすな」
ヴィクトルが耳元でささやく。目の前の光景に見惚れていた勇利は慌てて気を引き締めた。呆けている場合ではない。大魔法使いとその弟子は今や注目の的だった。「あの隣の坊やが?」「ずいぶんとかわいらしい」「相変わらず美しい男……」ひそひそとささやきが交わされる。痛いくらいの視線が肌に突き刺さる。いつの間にか音楽が鳴り止み、誰もが二人の一挙手一投足を観察していた。
鼓動が破れ鐘のように鳴っている。口から心臓が飛び出そうだ。緊張という名の風船がどんどん膨らんでいって弾けそうになった寸前、ヴィクトルが口を開いた。
「ハァイ、ヴィクトル・ニキフォロフだ。紳士淑女の諸君、楽しんでるかい? 今夜は俺の誕生日を祝うために集まってくれて感謝するよ。さて、俺が大魔法使いなんていう使い走りになってから膨大な年月が流れた。そしてようやく俺は次の大魔法使いになるに相応しい青年と出会うことができた。噂はもうみんなの耳に入ってきているだろうね? じゃあもったいぶるのはよそう。俺の隣にいる彼がユウリ・カツキ。日本から来た友人で、彼こそが次代の大魔法使いだ」
ヴィクトルが後ろに下がる。勇利は何百何千という視線を一身に受け、ごくりと唾を飲んだ。大丈夫。絶対に大丈夫だから……。自分に言い聞かせて深く息を吸い込む。
「こんばんは、ユウリ・カツキです。ヴィクトルのもとで厳しい修行の日々を送っています。僕が思うにヴィクトルは指導者には向いてないね。前触れもなくマンドラゴラを鉢から引っこ抜かれたときは、本当に殺してやろうかと思ったよ」
お腹に力を込めて、少しだけ魔力を使って、朗々と声を響かせる。勇利の声は会場の隅々にまで届いた。くすくすと笑う声が漏れ聞こえる。どうやらヴィクトルの破天荒な言動は魔法をたしなむ人々に広く知れ渡っているらしい。
「僕の苦労話を聞きたいって人、ここにはたくさんいるんじゃないかと思うよ。僕も愚痴を聞いてくれる新しい友人が欲しいんだ。今夜は皆さんと楽しくお喋りしたいな」
勇利がにっこり破顔する。と、誰かが「ようこそロシアへ!」と拍手をしながら叫んだ。目を凝らせば拍手をしているのはピチットだった。「ようこそ!」と誰かが彼に続いて叫ぶ。ようこそ! ようこそ! ようこそ! 声が幾重にも重なって反響する。嵐のような拍手が鳴り止むと白魚のような繊手が視界の端からぬっと伸びてきた。
勇利の正面には赤毛の少女が立っていた。濃紺のドレスを身にまとい、涙型のイヤリング――石はおそらくマラカイトだ――を両耳から垂らしている彼女は勇利と目が合うと片目をつむって言った。
「ミラ・バビチェヴァよ。ヴィクトルとはそこそこ親しい間柄。ねえ、カツキ。あなたが嫌でなければ私とファーストダンスを踊ってくださらない?」
ちらりと横目でヴィクトルをうかがう。勇利の視線に気付いているだろうに彼は微動だにしなかった。つまり自分で決めろということだ。勇利が迷ったのはほんの数秒だった。女性からの誘いを公衆の面前で断って恥をかかせるなど、言語道断だ。
「ありがとう。ファーストダンスの相手に選んでもらえるなんて、光栄だよ」
勇利が差し出された手を取るとミラはぱっと瞳を輝かせた。いつの間にか周囲には男女のカップルが集まり、ダンスをしない人々は壁際に寄っている。
勇利とミラが大広間の中央に進み出ると並べられた椅子の上に鎮座していた楽器たちがふわりと浮かび上がった。会場の音楽を一手に担っているのは燕尾服に身を包んだコンダクターだ。
勇利とミラはホールドの姿勢を取って見つめ合った。コンダクターがタクトを振り上げる。二人は呼吸を合わせて大きく足を開いた。華麗にナチュラルスピンターンを決めるとあちこちから感嘆の吐息が漏れた。
(……この子、上手いっ!)
踊りながら勇利は舌を巻いた。ぎこちない勇利のリードにミラはぴったりとついてくる。こちらが誤って足を踏みそうになるとさりげなくアドリブを入れてカバーしてくれる。リードしながら、リードされている。
(でも、ヴィクトルとは全然違う)
魔法の天才でもある彼はダンスの天才でもあるらしかった。彼は練習中ずっと女役を務め、勇利を気持ちよく踊らせてくれた。ヴィクトルと踊っていると楽しくて楽しくて勇利は毎回時間の感覚を忘れた。
ヴィクトルが淑女ならミラはじゃじゃ馬だ。容易に手綱を握らせてはくれない。あわよくば男から主導権を奪ってやろうという魂胆が見え隠れしている。簡単に表現するなら――わかりやすく喧嘩を売られている。
(嫌いじゃないけど、負けられない、かな!)
可憐な少女一人あしらえないようではとてもヴィクトルの隣には立てない。ミラの腰をぐっと抱き寄せると彼女がおやと目をまばたかせた。リバースピボットからダブルリバーススピンへとつなげる。. アン・ドゥ・トロワのリズムを刻みながら体の位置を入れ替えてくるくると舞う。曲が終わる頃には二人は汗だくになっていた。肩で息をしながらしばし見つめ合う。先に沈黙を破ったのはミラだった。
「ふふふ、カツキってダンスが上手なのね」
「君ほどじゃないと思うよ……」
どうやらミラの中で勇利は対等に接する相手として申し分のない男だと認められたらしい。無駄に精神をすり減らしてしまった。体ではなく心が疲弊している。だが弱音を吐くことを勇利は己に許さなかった。
ミラのあとに三人の女性と踊り、さすがに足がふらついたところでヴィクトルが声をかけてきた。
「ユウリ! ちょっとこっちにおいで。お前と話したいって人がいるんだ」
すると女性は快く勇利を解放してくれた。ヴィクトルの手がそっと背中に添えられる。
「ありがと、ヴィクトル」
勇利が感謝すると、彼は「礼には及ばないさ」と口角を持ち上げて答えた。ヴィクトルに導かれて壁際にはけた勇利は招待客の中に見知った顔が混じっているのに気付いてほっと胸を撫で下ろした。
「クリス」
クリスはヴィクトルが勇利のために揃えてくれた優秀な家庭教師の内の一人だ。彼の担当は語学。古代ルーン文字を始めとして、アラビア語、ドイツ語、フランス語など様々な言語学に精通している。
「お疲れ様。汗かいてるけど大丈夫?」
はい、とシャンパングラスを渡される。細いグラスの中身はスパークリングワインだ。グラスの傾き具合に合わせて金色の海が揺らめく。小さな泡が上昇する。勇利はわずかに逡巡したのち、グラスを受け取った。
普段の生活ではアルコールの摂取を避けているが、こういった場で飲酒を断るのはマナー違反だろう。それにそこそこ激しい運動をしたので暑い。体内の水分を奪われるとしても今は冷たい飲み物で喉を潤したい。
勇利が一息に呷るとクリスがヒュウと口笛を吹いた。
「いい飲みっぷりだねえ。君、下戸じゃなかったんだ。それにあんなに踊れるなんて思わなかった」
「俺もユウリにダンスの才能があるなんて知らなかった。あとユウリはお酒に強いよ~。外じゃめったに飲まないけど」
「そうなんだ。おすすめのバーを教えてあげようと思ったのにつまらないな」
「駄目だ」
僕は飲まないけどバーにならいくらでも付き合うよ。そう勇利が伝える前にヴィクトルがやんわりとした口調で、けれどきっぱりと断りを入れた。
「ユウリはまだロシアに慣れてないんだから。俺のいないところで何かあったら困るよ」
「ずっとこんな調子でさ。一人で外出もさせてもらえないんだ。まるっきり子供扱い」
勇利が唇をとがらせて言うとクリスがくつくつ喉の奥を鳴らして笑い出した。何がそんなにおかしいのか。勇利が首を傾げると彼は意味ありげな眼差しをヴィクトルに向けた。
「ヴィクトール。程々にしておかないとユウリに嫌われるよ」
無言でそっぽを向いたヴィクトルに勇利は目をまばたかせた。
(か、わいい、かも……)
いつも堂々としていてなんでも卒なくこなし飄々と笑っているヴィクトルにこんな子供っぽい一面があるとは思わなかった。微笑ましい気持ちでヴィクトルを見つめる。視界の端でクリスが肩をすくめるのが見えた。
「破れ鍋に綴じ蓋ってやつだね。まあいいや。俺もご婦人方と踊ってくるよ。君たちも楽しんで」
クリスの背中が人混みに紛れて消えるとヴィクトルが気遣わしげに勇利の顔をのぞき込んできた。
「ごめん、ユウリ。俺もお歴々に挨拶してこないと」
一人で大丈夫かと言外に訴えてくるヴィクトルに勇利はにっこり笑った。彼のお荷物に甘んじる気はない。それに酒の力は偉大で今ならなんでもできるような気がしている。
「そんなに心配しないでよ。僕を誰だと思ってるの?」
腰に手を当てて胸を張るとヴィクトルは勇利の肩を軽く叩いていなくなった。手持ち無沙汰になった勇利は二杯目のスパークリングをちびちび飲みながら壁の花に徹する。
肌の色も髪の色も目の色もそれぞれまったく異なる人々が談笑する光景をぼんやり眺めていると、金髪碧眼の美女と目が合った。人々の輪を抜け出してこちらに歩み寄ってくる。
「アデーレ・バウチャーよ。ねえ、あなた」
にんまりと口元に弧を描くアデーレ。勇利は無意識に眉根を寄せた。甘ったるい猫撫で声と動物園にいる猿を観察するような目付きが神経に障る。
「かの大魔法使いの弟子というからには、あなたも天賦の才能をお持ちなんでしょう?」
「……僕にはよくわかりません。比較する対象がいないので」
じわじわと汗が噴き出る。この話題を続けるのはよろしくない。けれど彼女は簡単に勇利を逃がす気はないようで、なおも話しかけてくる。
「わたくし、あなたの魔法が見てみたいわ。何かやってみてくださらない?」
勇利は返答に窮した。アデーレは薄ら笑いを浮かべたままこちらを見上げている。隠しもしない侮蔑の感情。彼女は勇利がヴィクトルの弟子に相応しいとは思っていない。勇利は下唇を噛みしめる。
(そんなの、僕が一番よくわかってるさ)
気高く偉大な大魔法使い、ヴィクトル・ニキフォロフ。そんな彼の唯一の弟子が自分だなんて何かの冗談だと未だに思う。
けれどあの日、あの夜、彼と一緒に勇利は星屑が散りばめられた夜空を飛んだ。雲を突き抜けて、薄い大気の中で、ヴィクトルは勇利に微笑みかけてくれた。ヴィクトルが勇利に見せてくれる景色はいつだって美しくて、きらきらしていて、愛しい。胸の鼓動が高鳴って、嬉しくて、楽しくて、いつかこの人の隣に並びたいと勇利は本気で望んでしまった。
(僕はいつだって僕を疑ってる。でも、ヴィクトルは信じてくれる)
ちっぽけで、後ろ向きで、どうしようもない自分にも価値があると教えてくれた。
(僕は僕を信じない。だけど、ヴィクトルのことは信じるって決めたんだ)
ぱち、と勇利の瞳から火花が散る。彼は言った。信じる心と妖精の粉さえあれば空を飛べる。手の平に魔力が集まるのを感じる。指先からぱちぱちと金色の火の粉がこぼれる。あともう少し。
(――え?)
勇利が目を見開くのと指先から花火が打ち上がるのはほぼ同時だった。いくつかの火の玉が真っ直ぐ天井に向かって飛んでいく。弾ける。虹色の火の粉が雨となって招待客の頭上に降り注ぐ。火の粉の雨が空中で形を変える。様々な花が咲き乱れ、絨毯を埋め尽くす。色の洪水にわっと歓声が湧いた。
アデーレはつまらなさそうに鼻を鳴らすと勇利の視界から消え失せた。突然のサプライズに驚き、興奮した人々に囲まれ褒めそやされる。だが勇利の耳にはどんな賛辞も入ってこなかった。
手の平を呆然と見つめる。誰もが今のは勇利の仕業だと思い込んでいる。けれど勇利はただ花火を打ち上げようとしただけだ。火の粉を花に変えるなんて芸当はとてもできない。それをやったのは勇利ではなく、別の誰かだ。誰かが勇利の魔法を勝手に強化して、性質を変えてしまった。
のろのろと顔を上げると、心配そうにこちらを見ているヴィクトルと目が合った。唇がわななく。勇利は口元を抑えた。そうでもしないと発狂して手当たり次第ヴィクトルに物を投げつけてしまいそうだった。
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