道化にはなれなかった 06

「待って! 待ってよユウリ!」
「知らない。聞きたくない」
自分でもびっくりするほど凍てついた声音にヴィクトルがひるむ。その隙をついて勇利はリビングを抜けた。寝室に入り、内側からドアの鍵を閉める。
ようやく一人になれたところで心のダムが決壊する。パーティーの間はなんとか我慢した。ヴィクトルの隣で作り物の笑顔を振りまいて彼の迷惑にならないよう、精一杯振る舞った。帰宅した今、笑顔の仮面は必要ない。
「っく、うう、う、ふうう……っ!」
ぼたぼた大粒の涙をこぼしながら勇利は必死に歯を食いしばる。ヴィクトルに嗚咽を聞かれるのは屈辱だった。ドアの向こうで彼がハッと息を呑む気配がする。マッカチンが前足でカリカリとドアを引っかく音がする。
「……ユウリ、お願いだ。出てきてくれないか。話をしよう」
ヴィクトルがおずおずと声をかけてくる。いつも自信満々な彼がこうも下手に出てくるとは! 勇利は鼻で笑ってしまった。ズズズと鼻水をすすり上げて言う。
「ドア越しでなら――いいよ。ねえ、どうしてあなた、僕の邪魔をしたの?」
「邪魔って……俺はただ、ユウリの手助けをしようと、」
「それが余計なお世話だっていうんだ!」
彼に向かって怒鳴るのは二度目だ。前回はただの八つ当たりだった。けれど今回はどうだろう。ヴィクトルに非がないとはどうしたって思えない。手の甲で涙をぬぐい何度か深呼吸する。
「助けなんか、僕はいらなかった」
「っ……」
「ヴィクトルは僕が失敗すると思った? あの人の前で恥をかいて泣き出すと思った?」
勇利は失敗するとは考えていなかった。絶対に成功するという確信があった。人々の目を多少楽しませるくらいのことは自分にだってできるはずだと信じて魔法を使った。
けれどヴィクトルは、あの土壇場で勇利の挑戦を台無しにしてしまった。勇利を信じてはくれなかった。
「ヴィクトル」
勇利はまぶたを閉じる。決断をくだすのには勇気が要った。
「僕、日本に帰る。あなたの後は継げない。ごめんね」
「ま、って、待ってくれ。俺がユウリの矜持を傷付けたのは、確かだ。でも、だからって、それはないだろ?」
「あなたは何もわかってない」
勇利は半身をひねった。ドアに額をくっつけてささやくように喋る。
「僕はね、気付いてしまったんだよヴィクトル」
勇利の魔法がいくら上達したところで。勇利がいくら腕を磨いたところで。彼にとって勇利の立場は永遠に大魔法使いの弟子なのだと痛いくらいにわかってしまった。ヴィクトルがずっとそういうふうに勇利を扱うなら、自分がどれだけ望んだところで彼とは対等になれないのだとも。ヴィクトルと肩を並べて同じ目線から物を見るなんて夢のまた夢だということも。
どれだけすごい魔法を使えるようになってもヴィクトルが勇利を頼る日は一生来ない。
「あなたの負担になるばっかりで、何も返せないなら意味がない」
なりたくて大魔法使いの弟子になったわけじゃない。最初はなし崩しだった。魔法が使えるとわかって、ヴィクトルと暮らすのが段々と楽しくなった。いつか必ず彼に恩返しをしようと勇利はそれだけを思って黙々と修行に励んでいた。
けれどヴィクトルには自分の力など必要ない。彼は一人でも大丈夫なのだ。一人で大丈夫なら、勇利がここにいる意味はない。世界の命運などどうでもいい。勇利ではない別の誰かを探して弟子にすればいい。
「今夜中に荷物をまとめて、明日には出ていく。短い間だったけど、ありがとう。ヴィクトルと過ごした日々のことは、きっとずっと忘れないよ」
一方的に別れを告げる。勝手だとなじられるか、もっとしつこく引き留められるかと思ったがヴィクトルはもう何も言わなかった。何も。
次の日の朝。勇利は私物の入った大きなボストンバッグを片手にヴィクトルの家から出ていった。


尻ポケットの内側にある携帯がヴヴヴと振動した。バスに揺られてぼーっとしていた勇利は慌てて携帯を取り出す。電源ボタンを押すとメールのアイコンのところに1の数字が表示されていた。アイコンをタップして勇利はどきどきしながら新着メールを開いた。
文面を最後まで読み終えた勇利は深々とため息をついた。ご活躍をお祈り致しますという文字列がまぶたの裏で点滅する。
(また駄目だった……)
車掌が次のバス亭を告げる。そこは勇利の目的地ではなかったけれど、衝動的に降車ボタンを押してしまっていた。「次、停まります」無機質なアナウンスが流れ、しばらくしたのちバスが停まる。勇利はうなだれながら運賃を支払ってバスを降りた。
ここから自宅まではかなりの距離がある。が、大人の足なら歩けないほどでもない。
(ちょっと帰りが遅くなっても誰も気にしないし……)
今はとても誰かと話す気分にはなれない。ざわめく胸の内を静める時間が欲しい。勇利はとぼとぼと歩き出した。
周囲にはのどかな田園風景が広がっている。太陽は地平線に沈みかけており、山の稜線や水田は差し込む西日に染められて真っ赤に燃えていた。カナカナカナとどこか遠くでヒグラシが鳴いている。すいっと視界をトンボが横切っていく。数匹のアメンボが水面で戯れている。
勇利はおもむろにネクタイをゆるめた。水に映る自分の顔はひどくゆがんでいる。今にも泣き出しそうだ。
(なんで僕、こんなところで途方に暮れてるんだ)
夏の夕暮れ時にたった一人で立ち尽くして。聞こえるのはセミの鳴き声と風の吹く音だけで。寂しいし虚しいし切ない。
(仕事が見つからないなんて情けないにもほどがある)
勇利が日本に帰ってきて二週間が経った。その間、ヴィクトルからはなんの音沙汰もなく、勇利は少しずつ穏やかな日常を取り戻しつつあった。
現状、日本における勇利の立場はただのニートだ。無職で引きこもりで金食い虫だ。家族は何も言わないけれど、町民の視線が気になって仕方がない。
何より家業の手伝いもせずに――手伝おうとしたら姉に「邪魔だから引っ込んでろ」と言われてしまった――部屋でだらだらしているとヴィクトルのことばかり考えてしまって気が滅入るばかりだ。
居ても立ってもいられなくなった勇利は就職活動を開始した。生きていくためには金が要る。金を稼ぐには働かねばならない。
英語ならばすらすら喋れる。ロシア語も簡単な日常会話程度ならこなせるようになった。グローバル化を推進している日本だ。こんな自分でも拾ってくれる企業がどこかしらあるだろう。
そう思って職探しを始めたのだが、勇利はすぐに自分の見込みの甘さに直面する羽目になった。――勇利は絶望的に面接が苦手だったのである。
面接では大学卒業後の空白期間、何をしていたのか必ず問われる。魔法使いの修行をしていたと正直に答えられるわけもなく、勇利はロシアに遊学していたと回答する。「なぜ?」と理由を訊かれ、毎回それらしい返答をでっち上げるのだが、更に突っ込まれるとしどろもどろになってしまう。
終盤で「君みたいな人はうちみたいな小さいとこじゃなくて、外資系に行ったほうがいいんじゃない?」などと言われてしまえばもう詰みだ。勇利は「はい」とも「いいえ」とも言えず、すごすごと退散するのがお決まりのパターンだった。最終面接まで漕ぎ着けても必ずそこで落とされてしまう。
(やっぱり男が事務職って厳しいのかな)
はああああぁと勇利はもう一度ため息をついた。接客が苦手な自分には営業はまず無理だ。だから職種を経理や総務に絞って求人に応募しているのだが、手応えはなく連敗記録を重ねている。福祉職や現場作業員は引く手数多とはいえ、続けられる気がしない。
「ヴィクトルが今の僕を見たら笑うかな……」
彼ならきっと「勇利に普通の会社員なんて無理無理」と笑顔でばっさり言い切るだろう。「俺に任せておけば将来安泰だぞ!」とかなんとか言って、勇利の不安を打ち消してくれるに違いないのに。
ヴィクトルは太陽の申し子だった。無邪気で明るくて奔放で、あの人とずっと一緒にいられればそれでよかった。けれどもう会えない。彼と勇利の縁は途切れたのだ。自分から断ち切った。
どんなに難しくても、ヴィクトルのことをゆっくりと思い出にしていく。その内、勇利は魔法の使い方も忘れるだろう。彼の声も、温もりも、彼から与えられたもの全部、色褪せて消える。
なまぬるい水が頬を伝う。首筋に流れて汗と混じる。勇利はそれを無視して道を歩き続けた。


炎の海が木々を飲み込んでいく。邪悪な竜が荒れ狂う。剣戟の煌めき。力尽きて倒れていく人々。兵士たちは血を流しながら必死に応戦しているが、戦線が崩壊するのももはや時間の問題だった。このままでは国が焼き尽くされる。あの竜が王都に飛び立つのを一体誰が止められるだろう――?
滅びの運命を阻止できるとしたら、彼しかいない。
戦う術を持たない民衆は祈りながら崖の上を見つめる。そこには一人の男が立っている。熱風に銀髪をなびかせ、紫のローブをはためかせ、片手に杖を持つ男は不適な笑みを浮かべていた。
杖が高々と掲げられる。守るよ。この命に代えても守ってみせる。それが俺の使命だから。
「やめて…そんなの無茶だ……っ」
誰かが小さくつぶやいた。
「いくらあなたでも死んじゃうよ」
男が呪文の詠唱を開始する。竜がぐるりとこうべを巡らせる。見つかった。見つかってしまった。竜がバサリと翼を広げる。
「逃げて、お願い」
この距離で自分の声が彼に届くはずがない。だが、彼は一瞬こちらに視線をよこした。その目がひどく優しげに細められる。ばいばい。彼の唇が動く。
「嫌だ、逃げて、逃げろ、ヴィクトル――っ!」
大声で彼の名を呼んで勇利はベッドから飛び起きた。燃え盛る森が、邪竜の姿が、一瞬にしてかき消える。
「え…………?」
勇利は混乱しながら辺りを見回した。ここは慣れ親しんだ自分の部屋で間違っても戦場ではない。にも関わらず、しばらく震えが止まらなかった。パジャマは寝汗でぐっしょり濡れている。
「なん、で」
勇利は昔から悪夢にうなされることが多かった。悪夢の内容は目が覚めるとすっかり忘れてしまうが、覚えていることもある。まがまがしく、すべてを灰燼に帰してしまうあの赤色だけは、目覚めたあとも脳裏に焼き付いて薄れなかった。
しかし勇利が恐れおののいているのは悪夢にうなされたからでは、ない。そもそもヴィクトルとロシアで暮らしている間、勇利は夢をほとんど見なかった。自分でも魔法が使えると知ったあの日から、勇利はぐっすり眠れるようになった。
だというのにヴィクトルから離れて帰国した途端、また悪夢に襲われるようになった。しかも内容がくっきりと頭に残っている。今までは目覚めた瞬間、夢の記憶は霧散してしまっていたにも関わらず。
夢の中で竜と戦っていたのはヴィクトルだった。絶望的な状況の中、彼は、彼だけは勝利を諦めていなかった。
(あれは何を意味してるんだ……?)
ただの夢に決まっている。それなのに胸がざわざわする。嫌な感じだ。皮膚の下を虫が這いずり回っているような。勇利はぶるっと身震いした。とっさに両手で自分の肩を抱き締める。
明日は三件面接の予定が入っている。一日中出ずっぱりだ。寝不足になるのは避けたい。勇利は腕をさすりながら、再びベッドの中に潜った。きつくまぶたを閉じて念じる。何もかも忘れてしまえ、と。
うだつの上がらないサラリーマンをやっているのが自分にはお似合いだ。美しい大魔法使いのことは夢か幻と思えばいい。勝生勇利はヴィクトル・ニキフォロフという男のことなど知らない。会ったこともない。そうやって自分を誤魔化し続ければ、いつかは胸の痛みも消えてなくなるだろう。――本当に?
(そんなの、嘘だ)
勇利はヴィクトルが大好きだった。忘れなければとことあるごとに自分に言い聞かせるのは、心の奥底では忘却を望んでいないからだ。ヴィクトルのことを覚えているのは辛い。彼の温もり、優しい眼差し、やわらかな声。陽だまりのように勇利を包み込んでくれた全て。覚えているのと同じくらい忘れてしまうのも苦しい。
(このままずっともやもやしたまま生きていくくらいならいっそ、)
そこまで考えて勇利はあっと目を瞠った。あるところで停滞していた思考が一気に加速する。勇利は慌ててベッドを降りると、帰国してからろくに整理していなかったトランクの中身を漁り出した。
探しているものは確実にこの中にある。しばらく無我夢中でトランクの中を引っかき回していた勇利は、ぴたりと動きを止めた。視線の先には革のブックカバーで覆われた分厚い手帳がある。それは授業で見聞きしたことをこれに書き留めておくといいと言って、ヴィクトルが買ってくれた手帳だった。
勇利は震える指で手帳を開くと素早く目を走らせた。手帳には様々な図形や言語がびっしりと書き込まれている。ヴィクトルを始めとした教師陣たちから授けられた知恵が手帳には詰まっている。
「あっ、た」
その中に勇利の探している呪文もあった。長々と古代ルーン文字で綴られた詠唱。それは――忘却の呪文だ。勇利の喉仏が大きく上下する。
この魔法を使えば一切合財忘れてしまえる。あったかもしれない人生を、自分が傷付けたかもしれない人を思って枕を濡らす必要もなくなる。抗いがたい衝動に勇利はゆっくりと唇を開いた。
「統べよ、時の流れに身をゆだねよ……」
静かに詠唱を紡いでいく。体の中心で魔力が渦巻くのがわかる。ヴィクトルに出会った日のこと、白夜祭に連れていってもらったこと、一緒に夜空を翔けたこと、ダンスをしたこと。ヴィクトルと過ごした日々が脳裏に閃いては消えていく。走馬灯のように。
「砂時計を返すべし。深淵なる闇を見つめ、心眼を開くべし。……瞬きの生を喜びとせ――っ!?」
「カツ丼てめえ何やってんだこのクソバカ野郎が!!」
もう少しで詠唱が終わるというところで邪魔が入った。背中に全力の回し蹴りを食らい、肺から一気に空気が抜ける。勇利はげほげほ咳き込みながら振り返り、ぽかんと口を開けた。
「ユリオ……?」
勇利の背後ではユーリ・プリセツキーが仁王立ちしていた。肩を怒らせ、まなじりを限界まで吊り上げ、凶悪な形相でこちらを睨んでいる。
「な、なんでここに?」
「うるせえ! あいつに何もかも押しつけて逃げやがって! むかつくんだよ!」
「ぐえっ」
襟首を鷲掴みにされ引き寄せられる。勇利は思わず頬を赤らめた。ユーリの言動はヤンキーそのものだが見た目は一級品だ。彼の整った顔が目と鼻の先にあるのは心臓に悪い。
「てめえのせいでヴィクトルはなあ!」
「ヴィクトル? ヴィクトルがどうしたの!?」
勇利はさっと青ざめる。ユーリの一言でおおよその状況は察せられた。ヴィクトルの身に何かが起こったのだ。だからユーリが自分の前に現れた。
よくよく見ればユーリの衣服もぼろぼろだった。あちこちが焼け焦げ、素肌があらわになっている。髪はぼさぼさでユーリは目に涙を溜めている。泣き出したいのを精一杯こらえている彼の様子は痛々しかった。
「竜だ」
ドクン、と心臓が一際大きく脈打つ。
「………え?」
「あいつは今、竜と戦ってる。なんとか持ちこたえてるがやられるのは時間の問題だ。あいつ一人じゃあれを倒すのは無理だ」
先程の勢いが嘘のようにユーリは淡々と説明した。第五世界で太古の時代に封印された災いの竜が目覚めた。第五世界は勇利たちが生きる第九世界よりも時の進みが遅い。第五世界は中世に突入したばかりであり、各地で戦乱が勃発していた。
再び竜を封印できなければ、人類は滅びの道を辿る。第五世界に存在する国家はただちに戦をやめ、手と手を取り合い、竜を打倒するべく立ち上がった。彼らは大魔法使いたるヴィクトルにも協力を求め、ヴィクトルは彼らの要請に応じた。
だがしかし。剣や弓で竜の硬い鱗を貫けるわけもない。兵士がまとう鎧は重く動きは鈍重。対してあちらは強大な翼を持ち、俊敏に動き回る。第五世界の人類は現在、窮地に立たされている。
「ヴィクトルの命はもう一つしか残ってない」
告げられた事実に勇利は息を呑んだ。
「竜との戦いで奴は一度死んだ。元々残ってた命は二つ。次に死んだらあいつはもう生き返れない」
「そん、な」
「カツ丼、俺と一緒に来い。ヴィクトルにはお前が必要なんだ」
ユーリの語り口は怖いほどに静かだった。一切の感情が削ぎ落とされていた。暗闇の中でグリーンアイが爛々と光っている。その異様な光がユーリの精神状態を物語っていた。
「嗚呼、そっか」
ユーリの話を聞いて何もかも腑に落ちた。幼い頃から繰り返し見た悪夢。あれは予知夢だったのだ。ヴィクトルとの出会いは必然だと思った自分は間違っていなかった。ヴィクトルを救うこと。それこそが勇利に背負わされた宿命だった。
(しょうがないなあ、ヴィクトルは)
ヴィクトルは勝生勇利という人間を本当に大切にしてくれた。慈しんで愛してくれた。特別で、傷付けたくないからこそ過保護にもなった。
ヴィクトルは一人でも生きていけると勇利は考えた。だから彼のもとを離れた。ちっとも大丈夫ではなかった。彼には助けが必要だ。
自分にだって何かができる。だから真綿にくるむように守る必要などどこにもないと教えてやらなければ。彼の前できちんと証明してやらなくてはならない。腹は決まった。
「ユーリ・プリセツキー、お願いだ。僕をヴィクトルのところに連れていって」
真正面からユーリを見据えて懇願する。勇利のお願いにユーリはニヤリと口の端を吊り上げた。
「お安い御用だこの野郎」
のろのろと顔を上げると、心配そうにこちらを見ているヴィクトルと目が合った。唇がわななく。勇利は口元を抑えた。そうでもしないと発狂して手当たり次第ヴィクトルに物を投げつけてしまいそうだった。
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