道化にはなれなかった 07

勇利とユーリが降り立った戦場には死臭と熱気が満ちていた。燃え盛る炎の音は存外うるさいと勇利はここに至って始めて知った。けもの道には屍が折り重なっている。ひしゃげた肉塊と骨片と血の海が目の前には広がっていた。喉元まで胃酸が込み上げてくる。
「ウ、オエエ、ングェエエッ……!」
木の根に吐しゃ物をまき散らす勇利をユーリは冷めた目で見つめていた。これくらいの惨状は覚悟して然るべきという思いが彼の中にはあるのだろう。ユーリは年上の勇利に対しても容赦がない。苛烈さと優しさを併せ持つこの少年が勇利はとても好きだった。
「ごめん……ユリオ。ヴィクトルはどこ?」
二人が転移したのは森の中を流れる小川のほとりだった。竜の姿は垣間見えるが最前線からはやや離れている。
勇利の問いかけにユーリは顎をしゃくってある方向を示した。空に魔法陣が次々と展開しては消えていく。魔法陣から現れた無数の光の槍が雨あられと竜に降り注ぐ。だが硬い鱗に阻まれ攻撃は通らない。竜はいらだたしげに首を振るばかりだ。
忘れてしまったはずの夢の記憶がぱっと脳裏にひらめく。夢の中でもヴィクトルはああして竜と戦っていた。だとすれば、だ。勇利は目を凝らした。
「いた」
切り立った崖の上。火の粉が舞う空を背景にしてヴィクトルが杖を掲げていた。いつも丹念にセットしてある髪はぐちゃぐちゃで、顔は煤だらけ。紫のローブはところどころが焼け焦げてひどい有様だ。あんなにみすぼらしいヴィクトル・ニキフォロフを勇利は初めて目にした。
(でも、それでも、)
竜を相手にして一歩も引かず、怯みもせず。凛と背筋を伸ばして勇猛果敢に戦い続ける彼のなんと気高いことか。士気は保っている。ヴィクトルが倒れない限り、人々が絶望に囚われることはない。
勇利が固唾を呑んで戦況を見守っていると不意にヴィクトルの顔が苦しげにゆがんだ。がくん、と地に膝をついてしまう。
当たり前だ。魔法を使うには途方もない集中力が要る。強力な魔法を使えば使うほど精神を消耗し、眩暈や頭痛に襲われるようになる。ヴィクトルがいかに強靭な魂の持ち主であろうと、いつかは限界が来る。
「おい、カツ丼。俺はクリスたちと合流する。お前はどうする?」
「ヴィクトルを助けに行くよ」
勇利は即答した。勇利の揺るぎない返答にユーリは満足げにうなずいた。
「死ぬなよ」
「君もね」
掲げた拳と拳をぶつけ合わせて、二人は逆方向へと走り出した。ユーリは西へ。勇利は東へ。転移の魔法陣を描いている時間はない。今は一分一秒が惜しい。
(ヴィクトル、ヴィクトル、ヴィクトル、ヴィクトル……っ!)
どうか僕が行くまで持ちこたえて。祈りながら勇利は走る。木の根につまずいて転ぶ。すぐに立ち上がって駆け出す。膝から血が出ようが脇腹が痛もうが構いはしない。ただひたすらヴィクトルのもとへ走る。
もはや誰の目から見ても明らかなほどヴィクトルは劣勢に追い込まれていた。竜が大きく口を開ける。舌の奥で赤い光がちらつく。ヴィクトルが杖で五芒星を描く。防護壁を張ろうとするが間に合わない。炎のブレスがヴィクトル目掛けて噴射される。勇利の体は考える前に動いていた。
川面に手を浸す。息を整え、脳内で描いたイメージをそのまま具現化する。地の底から水がはがれ、渦を巻く。乾燥してひび割れた唇をなめ、勇利は小さく命じた。
「行け」
小川を流れる水が蛇となって空を行く。稲妻のような速度で空を疾駆し、竜が吐き出したブレスと真っ向から衝突した。
バボボボッ! と派手な音が大気を震わせ、盛大な水蒸気爆発が起こった。上昇気流が発生し、サァァァと雨が降り始める。しばらく待つと煙と見紛うような湯気が収まり、視界が晴れた。竜もヴィクトルも闖入者の横槍に一時的に動きを止めていた。
口を開けて呆然としているヴィクトルに勇利は思わず笑ってしまった。彼なら勇利の魔力に気付くはずだ。
ヴィクトルがぎくしゃくと首を動かす。彼はあちこちに視線をさまよわせ、そして、とうとう勇利を見つけた。
宝玉みたいな青い眼球がこぼれ落ちそうなほど目を見開いてヴィクトルが固まる。ユウリ、と彼の唇が動く。勇利はヴィクトルに向かって腕を伸ばした。
(遅くなってごめんね)
彼が背負っている重荷を預かれるのは自分だけだったのに、肝心なときにそばにいられなかった。けれどまだ、まだ間に合うはずだ。
「グギャアアアオオオウッ!!」
勇利とヴィクトルの再会は竜の咆哮によってさえぎられた。竜の怒りは獲物を仕留めきれなかったことで頂点に達している。
竜はヴィクトルよりも先に邪魔な侵入者を排除することにしたのか、今度は勇利に向かってブレスを吐き出した。「――ユウリッ!」ヴィクトルが叫ぶ。勇利は慌ててそばにあった大岩の陰に転がり込んだ。
「あつ……っ!」
高温の炎に大岩がどろどろ溶けていく。このままではいずれやられてしまう。
(どうしよう、どうすれば!)
勇利が必死に打開策を考えているとブレスの攻撃が止んだ。元の半分のサイズになった大岩からおそるおそる顔を出す。と、竜が夜空にその巨大な翼を広げているのが見えた。竜がはばたく度に強風が巻き起こり、木々の葉がざわざわとこすれ合う。
はるか上空に飛び立たれてしまえば、剣も弓も届きはしないだろう。勇利は歯噛みした。黒い鱗が炎に照らされててらてらと光る。武器による攻撃は弾かれるだけだ。魔法攻撃も威力は低く、致命傷は与えられない。そう。あの鱗が問題なのだ。
(つまり内側からの攻撃なら……?)
勇利は弾かれたように顔を上げた。閃いた。突破口が見つかった。この方法なら竜を倒せるかもしれない。目には目を。歯には歯を。竜には竜を。勇利は目を閉じて集中する。
「やめろ、やめるんだユウリ! お前にはまだ無理だっ!」
勇利が何をしようとしているのか気付いたヴィクトルがしきりに叫ぶ。危険なのはわかっている。失敗したら二度と元には戻れなくなるだろう。変身魔法はとても難しく複雑だ。だがそれでもやるしかない。ヴィクトルも、この世界も、自分が守ってみせる。
「在るべき形を捨て去る者に祝福を授けたまえ 新たな形を望む者の願いを叶えたまえ」
魔力が膨れ上がる。すさまじい痛みが勇利の全身を襲った。顔が、腕が、足が、どんどん大きくなり、変形していく。背中から屈強な翼が生え、皮膚が濃紺の鱗に覆われていく。
「我が意のままに形を成すべし――!」
呪文の詠唱が終わる。勇利は目を開けた。視界がずいぶん高くなっている。手には鉤爪が生え、視界に入る下半身はびっしり鱗に覆われている。どうやら魔法は成功したらしい。今の勇利はどこからどう見ても人間ではなく、雄々しく優美な竜そのものだった。
「グギャグアアアア!」
空を滑空する黒竜が吼える。倒せる者なら倒してみろと勇利を呼んでいる。勇利は翼を広げた。飛び方ならこの体が知っている。
(見てて、ヴィクトル)
飛び立つ寸前、ヴィクトルと目が合った。「行くな!」と彼が叫ぶ。しかし勇利は制止を振り切って空に飛び出した。勇利の上を取った竜が口から火の玉を吐き出す。右、左、右、右、インメルマンターン。勇利は小刻みに軌道を変えて火の玉を避ける。
二匹の竜はくるくると旋回しながら雲を突き抜ける。雲の上の大気は澄んでいた。大きくて丸い月が静かに輝いている。
(後ろが取れない……っ! けど!)
自分のやりようでピンチはチャンスに変えられる。タイミングを見極めること。それが一番大事だ。上昇と下降を繰り返し、ぎりぎりのところで炎のブレスをかわしながら、その瞬間を待つ。数メートル先に大きな雲の塊が浮かんでいた。あの雲を抜けた瞬間が好機だ。
ためらいなく勇利は雲に突っ込んだ。数秒で抜ける。急制動、急停止し追ってきた竜が雲を抜けてくるのを待つ。勇利を見つけた竜が口を開けた。
(っ今!!!)
勇利は竜に向かって飛び出した。相手の無防備な口内に青白い炎の塊をお見舞いしてやる。勇利の炎と黒竜の炎がぶつかって大規模な爆発が起こった。ゼロ距離でブレスを食らった竜の体が弾け飛び、勇利も炎に包まれる。熱い。苦しい。息ができない。
死ぬかもしれない、と思った。多分死ぬ。命がひとつ減る。でも生き返れるから平気だ。平気なはずだ。それでも死んでしまうのは恐ろしかった。


――リ。――ウリ。
誰かが遠くから自分の名前を呼んでいる。うるさい。ハエの羽音みたいに耳障りだ。いつまでも心地よいまどろみに浸っていたいのに邪魔をしないでほしい。
――起きてよ。俺、ユウリがいないと駄目なんだ。
そんなの知ったことか。自分は起きたくないし、ずっとここにいたいのだ。ここにいれば苦しいことも辛いことも起きない。いつまでも幸せでいられる。でも、と勇利は疑問に思う。執拗に自分の名前を呼ぶ声を勇利は知っているような気がした。
――ユウリ。
あの声に名前を呼ばれるのが自分はとても好きだった。声の主は誰だったろう。知っているはずなのに思い出せなくてもどかしい。
――俺はユウリに謝らなくちゃいけないことがあるんだよ。あのパーティーで一瞬でもお前の力量を疑ったこと。
パーティーと聞いた瞬間、いくつかの映像が浮かんでは消えていった。優雅な音楽、目も眩むほどきらびやかなシャンデリア、色とりどりの宝石、ドレス、美しく着飾って笑いさざめく人々。触るのも怖いような高価なスーツを着て、勇利は会場を歩いた。赤毛の少女とダンスをして、それから、それから?
『かの大魔法使いの弟子というからには、あなたも天賦の才能をお持ちなんでしょう?』
嗚呼、そうだ。勇利は自分こそが大魔法使いの弟子に相応しいと証明しようとした。なのにヴィクトルに邪魔をされたのだ。
(ヴィクトルって……誰だっけ?)
ヴィクトルは大魔法使いだ。銀髪で、背が高くて、目が青い。ハンサムでゴージャスな顔立ち。天真爛漫で自由奔放で気さくな人。彼は勇利のたった一人の師匠だ。
――俺が土下座するとこ、ユウリは見たくないの?
ものすごく見たい。勇利は思った。思ってからはたと気付く。何度も自分の名前を呼ぶ声。あれはヴィクトルの声だ。
――だから、お願いだ。早く帰ってきて。
ヴィクトルの声は震えていた。彼は泣いているのだ。勇利がいなくて寂しいと全力で訴えている。
(……帰らなきゃ)
ヴィクトルのところに帰らなくちゃいけない。彼の涙を拭ってあげなくちゃいけない。彼の涙を止められるのはおそらく自分だけなのだから。
(帰ろう)
体が白い光に包み込まれる。勇利はゆっくりとまぶたを降ろした。白い光が消えて眩しくなくなる。勇利が目を開けるとそこは慣れ親しんだ自分の部屋だった。実家の寝室ではない。ヴィクトルの家のゲストルームだ。
「ユウ、リ……?」
自分はベッドに寝かされていたらしい。ドアの脇に置かれた椅子にヴィクトルが座っていた。目の下に隈を作り、ぼさぼさの髪をした彼は大魔法使いというより世捨て人のようだった。うっすら無精ひげも生えている。
「ヴィクトル、ただいま」
寝込んでいる間に声帯は使い物にならなくなっていた。発声もまともにできない。声はがらがらで、舌の呂律も怪しい。けれどヴィクトルにはちゃんと通じたらしい。彼は瞳を潤ませながら何度も「お帰り」と繰り返した。
「僕、何日くらい気を失ってたの……?」
「三ヶ月だ」
「わあ」
予想以上に長かった。ヴィクトルが全身に怒気をまとう。勇利は首をすくめた。
「ユウリは馬鹿だ。大馬鹿だ! 俺のために命をひとつ犠牲にするなんて馬鹿げてる! 気付け薬も効かないし本当に二度と目覚めないかと思ったぞ俺は!」
「ごめん、本当にごめんなさい。でも、僕、ヴィクトルに死んでほしくなかったんだ。ずっと、一緒にいたかった。日本に帰ってからもずっとあなたのことが忘れられなくて、辛かった」
「…………」
「僕はヴィクトルみたいな偉大な大魔法使いにはなれないかもしれない。でも、でもね、ヴィクトル、僕、僕は、」
伸ばした手をヴィクトルがしっかり握ってくれる。勇利は花がほころぶように微笑んだ。
「僕は僕が思う最高の大魔法使いになるから。失敗も、成功も、全部自分の糧にして進んでいくから、だから、お願い。もう一度僕をヴィクトルの弟子にしてよ」
「……ユウリはそれでいいの? 本当に?」
「うん……ヴィクトルがいいんだ。世界は美しいもので溢れてるってあなたが教えてくれたから」
勇利がおどけて言うとヴィクトルの目尻から涙がいくつも転がり出た。大粒の涙が彼の頬を伝い、白いシーツを濡らす。
「あと、あとね、可能な限りは長生きしてほしい。僕はヴィクトルが好きだから。一人で生きていくには寿命が長すぎるんだ」
「いいよ。ユウリのお願いなら、なんでも叶えてあげる。キスもハグもいくらだってしてあげる」
「キスの、その先は?」
おそるおそる勇利が問いかける。と、ヴィクトルは人差し指を唇に当ててきた。勇利が首を傾げると彼は茶目っ気たっぷりに片目をつむった。
「それはユウリの体調がよくなってからね。あんまり焦らずに行こうよ。俺たちまだデートもしたことないんだから」
「それもそうだね」
言って勇利は声を上げて笑った。つられてヴィクトルも笑い出す。ヴィクトルという存在は最初から勇利の特別で唯一無二だった。ヴィクトルにとっての勇利も同じだろう。少しだけ遠回りをしてしまったけれど、二人はようやく魂の片割れと固い絆で結ばれたのだった。
inserted by FC2 system