SSSまとめ

今日の勇利はやけに気合いが入っている。ステップなんて鬼気迫る勢いだし、表情はいつになく艶やかで扇情的だ。間違いなく何かのスイッチが入っている。でも俺にはさっぱりきっかけがつかめなかった。特に変わったことはなかったはずだ。俺は仕方なく勇利に問いかける。「今日はいつになく情熱的で勇ましいけど、何かあった?」「え、うーん」彼はきょとんと目を丸くして考え込んだあと、すぐに何かを思いついたらしくしたり顔で笑った。「トンボが飛んでたから」「トンボ?」「そう、トンボ」リンクの上でぐるっとコンパルソリーを描きながら勇利が声を張り上げる。トンボは夏の終わりを告げる生き物だからー! トンボが飛ぶようになったらもうすぐ新しいシーズンが始まるなって思うんだー! なるほど、なるほど。おそらく勇利にとってのトンボは俺にとっての白夜祭りと同義なのだ。もうすぐ夏が終わり、秋が来る。俺と勇利。勇利と俺。足並み揃えて世界の頂きを獲りに行こう。

お守りとして贈ったので本当に他意はなかったんです。あとで彼の祖国では結婚指輪は右手の薬指にはめるのだと知って心底驚きましたし、彼を恨みました。その場で教えてくれたらよかったのに……。そしたらメディアを騒がせることもなかったじゃないですか。え? 心境の変化ですか? うーん……やっぱり勝負強くなったというか、ここぞ! っていうときにちゃんと技を決められるようになったと思います。それとこれはメンタルの話ではないんですが、毛の処理とか前りやるようになりました(笑)。僕、体毛が濃くて指毛とかも目立つんですけど、やっぱり指輪をはめてるから手のお手入れきちんとしなくちゃとか、指輪を傷付けないように気を付けなきゃとか自然と意識するようになりましたね。だからかな。最近、以前よりも指の先まで神経が行き届いてるねって練習中マイコーチが褒めてくれます。それ自体はとっても嬉しいです。でも、自意識過剰な奴みたいでちょっと恥ずかしいです……。

しとしとと雨が降っていた。電気をつけていない部屋の中は薄暗くて少しだけ肌寒く、心地よい静寂に満ちている。空には鉛色の雲が垂れ込めて、窓の外は灰色に染まっていた。裸の体にガウンだけ羽織って俺はベッドから這い出た。けれど裾をくんと引っ張られる。「どこ、行くの……?」「コーヒー入れようかなって」「やだ」「え?」「どこにも行かないで。ここにいてよ。コーヒーは後でにして」薄暗がりの中、唇をとがらせながら俺のスリーピングビューティーが言う。おおせのままに。俺は小さくつぶやいて、勇利の丸いおでこに唇を落とした。しとしとと雨が降るレイニーデイ。俺たちはどこまでも怠惰で本能的な生き物に成り下がる。

少し夜風が冷たくなってきた今日この頃。ヴィクトルはネイビーブルーのパジャマにガウンを羽織って屋内を闊歩するようになった。 ヴィクトルが歩く度に袖の裾が翻る。花びらが舞うみたいに。 その姿で瓶の珈琲牛乳を一気飲みして、おじさんたちと肩組んで、酔っ払って大声で歌うあなたが好きだよ。

食べられないのにゼリーを買ってしまった。海水を固めたような透き通った青色。とろみがあって瑞々しい。ヴィクトルの目みたいできれいだったから、どうしても欲しかったんだ。僕がそう説明すると彼は「勇利にカニバリズムの趣味があったとはね!」と笑った。ゼリー食べるの許してくれないかなあ……?

「あ」無意識に右手の指輪を回そうとして僕は声を漏らす。今僕の右手に指輪はない。ヴィクトルの右手にも。なぜかってクリーニングに出したから。「指輪に触るのがすっかりクセになってるねえ」指のしわをむにむにつまんで羞恥に耐える僕を見て、ヴィクトルが笑う。その一言が余計なんだよあなたは。

ヴィクトルはロシアの自宅から古い蓄音機を僕の家に持ち込んだ。お気に入りのレコードを彼が繰り返し流すので、歌詞を覚えてしまってふとしたときに口ずさんでしまう。すると彼が「バーブシカの気持ちが今ならわかるよ」と嬉しそうに笑う。レコードも蓄音機も彼が祖母から受け継いだ年代物らしい。

梅雨が来た。僕は安いからビニール傘を愛用している。でもヴィクトルはビニール傘が嫌みたいで、いつも僕と相合傘をしたいと駄々をこねる。彼の傘は蝙蝠傘だ。なんでそんなに相合傘にこだわるんだよって聞いたら、彼は期待に満ちた瞳で答えた。「だって外でユウリとキスできる」うん、僕の負けです。

日本人と付き合うのは難しいと以前リンクメイトが嘆いていた。俺はアジア人には全く興味がなくて、付き合うなら当然白人の女だと思っていたから興味のある振りをしてその話を聞き流した。今猛烈に後悔している。どうしたら部屋にこもった勇利を引きずり出せるのか、彼なら知っていたに違いないのに!

初めて駄菓子屋のガチャガチャを回した。出てきたのは女豹のポーズを取っているオフィスレディだ。「これ何?」勇利に尋ねると笑い含みの返答があった。「フチ子さん。この人形をコップの淵に飾るんだ」「へえ」こんなのが人気商品だなんて日本はやっぱりクレイジーだ。あとでインスタに上げないと。

最近ヴィクトルがガチャガチャにはまっている。集めているのはコップのフチ子さんシリーズだ。新しいのが出る度、嬉しそうな顔をして専用のコップを取り出して写真を撮っている。そんな彼が可愛くて僕もついつい百円玉を渡してしまう。そしたら「甘やかすな」って真利姉ちゃんに怒られてしまった。

「ヴィクトル、屈んで」「ハーイ」俺が首を下げると勇利がシューッと全身に虫除けスプレーを吹き付けてきた。夏になってから外出するときはいつもこうだ。スプレーくらい自分でできるのに、勇利はいつもやってくれる。それがもう当たり前になっているらしい。俺の世話係はとても勤勉で優秀だ。

「うわーすごいやばいヴィクトルの腹筋硬い」ぺたぺたと勇利が俺の腹筋どころか腕やら太股やらいろんなところに手をくっつけてくる。勇利の瞳は宝物を発見した子供みたいにきらきらしていて、正直とてつもなくかわいい。かわいすぎてどうにかなりそうだ。アジア人の男の子、悪くないなあ……。

「……ごめん、ごめんなさいヴィクトル」「俺何度も言ってるよね?シャンプーが少ないからって容器にお湯足して使うのはやめてって。ちゃんと中身交換してって。さっきボトルを引っ繰り返したらすっごく冷たかった!」「だってもったいないじゃん。お湯足したら結構使えるのに」「ユウリぃ?」

「温泉屋の息子のくせに」「それはそれこれはこれ。節約は大事でしょ」「お前ぜんっぜん反省してないね?」「僕思うんだけどヴィクトルはちょっと細かすぎると思う。洗面台に髪の毛が一、二本落ちてたくらいでぎゃあぎゃあ騒ぐし」「嫌なら出てい……嘘嘘ごめん今のナシ!出ていかないで!」「っぶふ」

ヴィクトルとプライベート用の連絡先を交換してしまった。もう一度言おう。あの、ヴィクトルと、連絡先を、交換した。いつでも連絡してきていいからねって彼は片目をつむりながら笑っていたけれど、僕には難易度が高すぎる。ティーンエイジャーでもないのに電話番号を眺めているだけでどきどきする。

突然何かが上から落ちてきて視界が真っ暗になった。「わー!ヴィクトル大丈夫!?」頭上から勇利の慌てたような声がする。俺は頭にかぶさっている何かの端を指でつまんだ。それは使い古されたバスタオルだった。「ごめん!洗濯物片付けてたら落としちゃって」こんな何気ない会話が愛しくてたまらない。

僕は気持ちを言葉にするのが得意じゃない。愛の告白なんてもってのほかだ。だから色々考えてみた。「ヴィクトル、これ」ペーパーバックを数冊、彼の胸に押し付ける。「何これ?」「読んで」訝しげな顔をしながらヴィクトルがページをめくる。愛にまつわる単語に赤線が引いてあるの、気付いてくれる?

どきどきしながら待っているとじわじわヴィクトルの首から上が赤くなった。肌が白いからわかりやすい。そんな彼を見ていたらこっちまで恥ずかしくなってきた。「アー、僕ちょっと買い物に、」「待て、逃げるな、こら、ユウリ!」心臓に悪いから追いかけてこないでよもう!

バンケット中、ヴィクトルとクリスがふざけてちゅーしている写真がインスタに上がっていた。もう一度言う。二人が、ちゅーしている写真が、上がっていた。今ヴィクトルは僕の前で冷や汗をだらだら垂らしながら正座している。ここはオフィシャルホテルの一室だ。「ユウリ、ごめん」知らないよ馬鹿。

僕の淹れた紅茶を飲んだヴィクトルが満足そうに息をつく。それだけで幸せになれるのだから僕の脳味噌は単純だ。「ふふふ」「……何?」「ユウリはいつの間にか俺好みの紅茶を淹れられるようになってたなあって」そりゃね。あなたの知らないところで頑張りましたからね。ご褒美くれると嬉しいんだけど。

お揃いのスーツ。お揃いの歯ブラシ。お揃いのマグカップ。少しずつこの家にお揃いのものが増えていく。「次は何を買おうか?」ヴィクトルが茶目っ気たっぷりに片目をつむる。少し考えてから「イヤリングを半分こ、とかどう?」と僕が言うと彼は花が咲くように笑った。「それって最高だね!」

「どんなのがいい?」「唇の形したやつとか」お互いが身に着けていればわかりやすく見せつけられる。僕は彼のもので彼は僕のものなんだって。ほら、シーズン中はセックスするわけにはいかないしさ。ヴィクトルから付けられた所有印が薄れて消えてしまうのは寂しいんだ。あなたもそうだったらいいな。

いくらロシア語の勉強のためとはいえ、ヴィクトルに絵本を読ませるのは気が引ける。だけど当の本人は毎回やけに嬉しそうに僕をベッドに引きずり込むのでいつも流されてしまう。色素の薄い唇からこぼれるゆったりしたロシア語はセクシーで思わずキスしたくなる。「…ユウリ」彼が目を細めて笑う。嗚呼、

あのリビングレジェンドが、ロシアの英雄が、電球の交換をしている。館内着を着て梯子も使わずに美しい指先を埃まみれにしている。僕は麦茶を飲みながらその光景を眺める。ヴィクトルをパシリに使う真利姉ちゃんはすごいやと妙に感心しながら。じっとりと蒸し暑い夜。首筋に伝う汗は気持ち悪かった。
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