やさしさはここに在るよ 前篇

機内では英語とロシア語が飛び交っていた。二つの言語が混じって不思議な響きに聞こえる。興奮を押し殺そうとして誰もが小声で喋っている。寄せては返す波のようにささやき声は大きくなったり小さくなったりした。
アエロフロート・ドモジェドヴォ空港発・プルコヴォ空港行き。真利はエコノミークラスよりは快適なビジネスクラスの座席に腰を下ろし、盛大にあくびした。成田からモスクワを経由し、真利はいよいよサンクトペテルブルクに向かう。噂に名高いアエロフロートの遅延で三時間も待ち止めを食らったため、真利はくたくただった。
誰かと一緒だったならお喋りをして時間も潰せただろうがあいにく真利は一人だった。土産物屋を見て回り、カフェで昼食を済ませ、携帯をいじって搭乗開始を待ったが退屈にもほどがあった。
(ちゃんと待っててくれんのかな)
脳裏に勇利とヴィクトルの顔を思い浮かべる。真利はこれからロシアで生活を共にしている弟とそのコーチを訪ねに行く。なんでもヴィクトル主催のアイスショーが六月末にモスクワで行われるそうで、真利はそれに招待されたのだ。
前々からあの二人が一緒に住んでいる家を見たいと思っていた真利は即決した。五月の大型連休が終わったばかりで、タイミングもよかった。例年五月中旬から七月上旬までは客入りが少なく、常勤の従業員が一人いなくても支障はない。両親からは有休の消化を後押しされ、従業員たちはたまには羽を伸ばしてこいと快く真利を送り出してくれた。
贔屓目を抜きにしてもゆ~とぴあかつきはなかなかに風通しのよい職場であると真利は思う。必ずお土産を買って帰らねばなるまい。
取れた有休は四日。真利は三日間ロシアに滞在し、四日目の昼の便で帰国するつもりでいる。アイスショーが行われるのは三日目の夕方だ。
構わなくていいと言っておいたのだが勇利とヴィクトルは多忙の合間を縫って真利の相手をしてくれるらしい。今日も空港まで迎えに行くので到着予定時刻と乗る便を教えてほしいと打ち合わせの電話をしたときに勇利から言われた。真利は使えるものはなんでも使う主義だ。
これくらいの時間に着く予定だと話したところ、勇利は電話の向こうで「わかった」とうなずき、その次に「僕は練習があるからヴィクトルを行かせるよ」と言った。ロシアの英雄、リビングレジェンドなどと謳われている男が完璧に尻に敷かれている。真利が思わず笑ってしまったのは致し方ないことだろう。
(もう五年も経ったんだもんねえ。月日が流れるのは早いわ)
勇利がロシアに渡って五年。ヴィクトルはとっくの昔に現役を引退しプロに転向。勇利も結果の良し悪しに関わらず今シーズンでの引退をメディアに公表している。
(あたしもおばちゃんになるわけだ)
しみじみと感慨にふけってしまう。久しぶりに実の弟の顔を見るわけだが、はてさて、元気にしているだろうか。もしも元気そうではなかったら監督不行き届きでヴィクトルに説教をかましてやろう。真利は想像してにやりと口の端を持ち上げた。
(ま、大丈夫なんだろうけどさ)
ヴィクトルが落ち込んでいる勇利をそのままにしておくわけがない。そう思えるくらいには真利はあのロシア人を信用している。
六年前の春、ヴィクトルは我が家にいきなり押しかけてきてそのまま居着いてしまった。ヴィクトルは勇利がかぶっていた殻をひとつずつ丁寧にむいていって、新しい魅力を引き出した。ヴィクトルにとって勇利がどういう存在なのか、真利は十分すぎるほど知っている。それが何を意味しているのかもうっすらと気付いていた。弟がロシアへ行くと打ち明けてきたとき、やっぱりねと嘆息したのを真利はよく覚えている。
今回真利がロシアへ行こうと決めたのは、その辺りをはっきりさせておきたかったからだ。二人に直接伝えたいこともある。
(多分、これが最初で最後)
この旅行が終われば真利は日本へ帰る。日本へ帰って二度とロシアの土を踏むことはないだろう。真利と勇利は違う道を選んだ。それを誇らしいと思うことはあっても、寂しいと思ったことはない。
(ねむ……)
くああと再びあくびが漏れる。あちらに着く前にひと眠りしておこう。真利はゆっくりとまぶたを降ろした。
 真利が眠っている間に飛行機は目的地に到着した。あっという間だった。外に出ると乾いた空気が肌を包む。音も、色も、気配も、日本とは何もかもが違っている。気圧されたのは一瞬で真利はすぐに背筋を伸ばして歩き出した。
荷物受取り所に直行し、自分のスーツケースをピックアップする。アエロフロートはロストバゲージが起きる確率も高いと聞いていたので、無事に自分の荷物を受け取った真利はほっと胸を撫で下ろした。あとは空港に来ているはずのヴィクトルと合流するだけだ。
もしかしたら連絡が来ているかもしれない。真利は待ち合わせ場所であるタクシー乗り場に着くと飛行機に乗っている間オフにしていた携帯の電源をオンにした。するとメールのアイコンのところに3の数字が出ていた。一件目と二件目はただのダイレクトメール。三件目のメールの送り主はやはりヴィクトルだった。
早速メールを開く。内容に目を通し真利は眉根を寄せた。ヴィクトルからのメールはいたって簡潔で、あと三〇分ほどで空港に着くという文章が書かれていた。それは別にいい。ただこのメールが届いたのは今から二〇分前のことらしい。つまり、あと一〇分ほど待たねばヴィクトルは来ない。
(三時間遅れた私より遅いとかまじか)
頭の隅にわずかにあった罪悪感が一瞬で霧散する。遅刻を理由にたかってやろう。どうせならブランド物の財布か鞄が欲しい。さて、何を買ってもらおうか。真利がほくそ笑んでいるとバタバタと慌ただしい足音が近付いてきた。
「真利! イズヴィニーチェ!」
プラチナブロンドの髪を揺らし、血相を変えた美丈夫が駆けてくる。サングラスをかけて顔を隠していても正体は明らかで周囲が小さくざわめいた。
ヴィクトルは真利の正面で立ち止まるともう一度「イズヴィニーチェ」と謝罪を繰り返した。駐車場からここまで一直線に走ってきたのだろう。そのくせ、息がまったく乱れていないのはさすがアスリートといったところか。
「こんなに打ち合わせが長引くとは思わなかったんだ! 本当にすまない」
次にヴィクトルの口から飛び出したのは流暢な日本語だった。発音も抑揚も完璧である。ヴィクトルの日本語は年々上手くなっていって、ついにはネイティブスピーカーの域にまで達してしまった。
「私もだいぶ遅れたから気にすんな」
「気にするよ! 仕事人間の真利が私情を優先してロシアまで来たんだぞ。勇利と最高のおもてなしをしようって決めてたのに初っ端からつまずいた」
「いや私そこまで真面目じゃないから。ライブ遠征とかかなりしてるし」
「それだって弾丸で日帰りがほとんどなんだろう? 勇利が言ってたよ。真利が有休を取ってまで旅行するなんて珍しいって」
「そりゃ家業を継ごうって人間があっちこっち遊び回ってちゃ駄目でしょ。そもそもそういう時期はとっくに過ぎたんだって」
二〇代の頃ならまだしも、真利は今年で三十五になる立派なおばさんだ。何も考えず無邪気にバンドの追っかけをしていられた時期は遠い過去の話で、ひと夏の幻のようなものだった。
真利がそう返すとヴィクトルは物言いたげな顔つきになった。おそらく胸の内では真利の言い分を否定しているに違いない。しかし彼は結局何も言わず、作り物ではない笑顔を浮かべて両手を大きく広げた。
「ハグしても?」
「どーぞどーぞ」
ヴィクトルの両腕がゆるく背中に回される。ヴィクトルの容姿は真利の好みから外れているが、桁外れのイケメンにハグされるのは気分がいい。
「ロシアへようこそ、真利。君が来てくれてとても嬉しいよ」
吐息に艶が混じる。これを無自覚でやっているからタチが悪い。初心な弟はヴィクトルの手練手管にあえなく陥落したのだろう。背中の拘束が解かれる。真利はヴィクトルの顔をしみじみ眺め、日本語でつぶやいた。
「やっぱあいつ面食いだわ」


勇利とヴィクトルが暮らすアパートはネヴァ川沿いの高級住宅地にあるらしい。元々はヴィクトルが一人で暮らしていた住居を勇利が間借りしている形だ。言いだしっぺはもちろんヴィクトルのほうで、同居が正式に決まるまで二人は揉めに揉めた。
二〇一六年、勇利とヴィクトルはGPSを終えて年末年始を長谷津で過ごした。その間に寮に入る、入らない、家賃を払う、払わないで口論する二人の姿を真利は一体何度目にしたことか。
決定打になったのは「ユウリがいればもうマッカチンに寂しい思いをさせなくていいんだ!」というヴィクトルの一言だった。
(世界一もてる男が愛犬をダシに使うとかだっさ)
マッカチンはただの建前と知りつつ、最終的にはヴィクトルにほだされた弟も可愛げがない。どうせ最初から顛末は決まっていたのだから、僕のことを考えてくれてありがとう! 大好きヴィクトル! とでも言っておけばよかったのだ。
「真利、にやにやしてどうしたの? 楽しいことでもあった?」
「別にぃ。思い出し笑いしてただけ。それよりさ、ちょっと窓開けていい?」
真利が訊くとヴィクトルは助手席側の窓を半分ほど開けてくれた。「ありがと」礼を述べて真利は後ろに流れていく景色をぼーっと眺める。
ヴィクトルが運転する車に乗っているのは快適だった。動きが滑らかでよどみがなく、体に重力がほとんどかからない。数年前はこうではなかった。
「あんた運転上達したね」
「こっちに戻ってきてからなるべく自分で運転するようにしたんだ。昔は運転手を雇ってたけど」
「なんで?」
「…………勇利のほうが運転上手だったから」
「ああ」
オフの日に業務用のミニバンに乗って勇利とヴィクトルはよく出かけていた。真利たちが買い出しを頼むと勇利はともかくヴィクトルはいつも快く引き受けてくれた。真利も一度だけヴィクトルと買い出しに出たことがある。そのときもヴィクトルに運転してもらったが何度も舌を噛みそうになった。煽られるとすぐにやり返そうとするヴィクトルの頭をひっぱたくと、彼は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で真利を見たのだった。
「俺、物心ついてからリリア以外の女性に叱られたの初めてだったんだ。嬉しかった」
「何あんたマゾなの? 引くわー」
「違うよ。真利だって本当はわかってるんだろう? 長谷津で一番早く俺を身内扱いしてくれたのは君だ。ずっとお礼を言いたかった。俺を家族の一員として迎え入れてくれたこと」
謳うように言ってヴィクトルがハンドルを回す。真利はふんと鼻を鳴らした。
ヴィクトルが少しでも早く周囲に馴染めるように、町民と打ち解けられるように。そんなことを思って真利が行動したことなど一度もない。ただヴィクトルの居候が決まって、ゆ~とぴあかつきの雰囲気が妙に浮ついているのが気に入らなかっただけだ。
常連客たちはどうしても彫刻じみた美しさを持つヴィクトルが気になるようで、みんなそわそわしていた。ヴィクトル目当ての客やマスコも大勢押しかけてきて、いつもはめし処で一時間半は飲み食いして帰っていく人が、なんとなく居づらいからと言って二十分くらいで帰ってしまった日もあった。
ゆ~とぴあかつきは老舗の温泉屋だ。一昔前は宿泊業も営んでいた。やがて客足が遠ざかり、温泉宿ではなくなってしまった。それでも生き残るために試行錯誤する両親を真利は幼い頃から見てきた。
古きよき伝統を受け継ぎながら、時代の変化に合わせてゆるやかに在り方を変えてきた。両親と店は真利の誇りだった。いきなりやってきたロシア人にむちゃくちゃにされるのは我慢ならなかった。たとえそれが弟が長年憧れていた人間だとしても。
食客として扱わなくていい。気兼ねなく接してほしいとヴィクトルは言った。だから真利は彼を目一杯こき使った。ヴィクトルだけではなく勇利もだ。弟は姉のパシリをさせられるものと昔から決まっている。
ピークの時間帯は店に顔を出すな。給仕をしろ。風呂掃除をしろ。電球を変えろ。廊下の雑巾がけをしろ。
そうやって過ごす内にゆ~とぴあかつきに漂う空気は段々と元通りになっていった。ミーハー心丸出しの客もマスコミも消えて、常連客のおっさんたちとヴィクトルが仲良く酒を飲み交わす姿も見られるようになった。
ヴィクトルが長谷津で過ごした日々を真利は今でも鮮やかに覚えている。毎日がお祭りのように騒がしかった。
「ヴィクトルー。勇利が引退したらさ、一回うちに顔出しな。温泉浸かって、だらだらして、しばらくのんびりしたらいいわ。羽休め、必要でしょ」
「俺はともかく勇利はそうだろうね。今後のことを考えるならノイズの少ない環境のほうがいい」
「……ねえ」
喉元まで出かかった言葉を飲み込むのには苦労した。真利は「やっぱ、なんでもない」と言って座席に深く身を沈めた。勇利が引退したら、二人はどうなるのだろう。どうするのだろう。それを今ヴィクトルの口から聞いてしまうのは何かが違うような気がした。
「何、気になるよ、俺」
ヴィクトルがちらっとこちらを見る。答えなければしつこく追及されそうだ。
「あー……うん。こっちは潮の香りが強いなって思っただけ」
窓から吹き込む風が二人の髪をなびかせる。車の窓から太陽に照らされてきらきらと光る海が垣間見えた。長谷津の海は意外と匂わないのだと真利はロシアに来て初めて気付いた。
「あ、俺も長谷津で暮らし始めた頃にそう思ったよ。で、勇利になんでだろう? って質問したんだ。そしたら勇利、すっごく寂しそうな顔したんだけど理由わかる?」
「さっぱりわかんない」
「俺たちが潮の香りだと思ってるのは、実はプランクトンの死骸が放っているものなんだ。長谷津の海はきれいで死骸が少ないから匂わないんだよ。長谷津はいい町だって勇利は言った。時間の流れがゆっくりで、穏やかで、きれいな場所だって。こんなに素敵なところなのに、疎ましいと思ってしまう自分が嫌いなんだって」
「それ、私が聞いていい話じゃなくない?」
「数年前の話だし別にいいんじゃないか? 勇利も今はそんなこと思ってないだろうし」
「ふーん。で?」
「勇利があんまりにも寂しそうだから、言ったんだ。いつか帰ってこられて嬉しいって素直に思えるようになる日が来るよって。長谷津はまぎれもなく勇利の居場所であり、帰るべき故郷なんだって。――俺にとってペテルブルクがそうであったように」
「あんたってホームシックにかかったことあんの?」
真利が訊くとヴィクトルは思わずといったふうに苦笑をこぼした。
「ペテルブルクと長谷津の両方で、ね」
「ぷはっ」
ヴィクトルの返答を聞いて真利は確信を抱いた。自分たちはきっと一生の付き合いになる。ヴィクトルが長谷津や勇利の家族である自分たちを好いてくれているのなら、なんの問題もない。
たとえ真利と勇利の進む道がまったく違うとしても、まったく交わらないということにはならないのだ。


「あー、つっかれたー………」
コンシェルジュが常駐しているというエントランスホールを通り抜け、エレベーターに乗り、真利はとうとうニキフォロフ宅に足を踏み入れた。高級アパートの最上階。広々として日当たりのいいペントハウスがヴィクトルと勇利が暮らす家だった。
白と青が基調となっている洒落た内装。計算しつくされた照明の位置と家具の配置。無駄がなく洗練されたインテリアデザインからは一種の美学を感じる。ヴィクトルにこれほど相応しい住まいもない。勇利がしゃちほこばった様子でこの家の敷居をまたぐところを想像し、真利は声を出さずに笑った。
もしかしたら興奮してわあわあ喚いていたかもしれない。一度でいいからヴィクトルの家に行ってみたいと弟は口癖のように言っていた。
「靴は脱いで上がって。スーツケースはそこ。あとでゲストルームに運んでおくから。あ、上着は俺にちょうだい」
最高のおもてなしをしたいというヴィクトルの言葉に嘘はなかった。甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。真利は素直にヴィクトルの好意を受け取ることにした。靴をシューズラックにしまい、上着を彼に預け、自分はリビングの中央に置いてあったソファに寝そべる。
だらしない姿なら今まで散々見せてきた。今更取り繕おうとも思わない。ヴィクトルは実家にいるときと同じように自然体で振る舞う真利を見て嬉しそうに微笑んだ。
「真利ー、紅茶とコーヒーどっちがいい?」
真利の上着をハンガーラックにかけながらヴィクトルが問いかけてくる。
「コーヒー。ブラックで」
「オーケー。ちょっと待ってて」
キッチンに立つヴィクトルの後ろ姿を真利は横になったまま眺める。ヴィクトルが袋をミルに傾けると、ザザと豆が流れていった。ヴィクトルが手馴れた仕草でハンドルを回し、豆を挽く。粉をネルに移し電気ケトルで沸かした湯を注ぐ。
コーヒーができるまであっという間だった。芳醇な香りがリビングに満ちる。
「マンデリンだよ。熱いから気を付けて」
「ありがと」
正面にマグカップが置かれる。真利は思いきり鼻で息を吸った。自然と口元がゆるむ。ふちに口をつけてゆっくりと泥水のような液体をすする。
「ドリップコーヒーうま……超幸せ」
「よかった。もうすぐ勇利が練習から帰ってくる。帰ってきたら外でディナーをしよう。レストランの予約を取ってあるんだ」
「レストランの予約う?」
真利が眉根を寄せるとヴィクトルは苦笑して首を横に振った。
「真利が思ってるような店じゃないさ。むしろ隠れ家的なところだよ。俺たちの行き着け。ドレスコードもなし」
「ならいいけどさ」
コーヒーを飲み干し、真利は再びソファに寝転がった。この位置からだと壁にかかっているコルクボードがよく見える。
そのコルクボードはB5サイズくらいの大きさで、糊付けされた貝殻やビーズがふちを飾っていた。十数枚の写真が画鋲で留めてある。写真は勇利とヴィクトルとマッカチンが写っているものがほとんどだった。
(あー……そうだ。マッカチンの墓参りにも行かないと)
二年前、マッカチンはこの世を去った。死因は老衰。マッカチンが死んでからヴィクトルは犬を飼っていない。
「いい顔してんじゃん」
真利の知らないどこか遠くの海で海水とたわむれる二人と一匹は生きた宝石のようできらきらとまぶしい。どんなに腕のいいカメラマンでも真利をあんなふうに撮ることはできないだろう。
ヴィクトルは以前、自分は勇利と青春をやり直している最中なのだと真利に語った。写真に写る彼らは汚れのひとつも知らない顔で笑っている。
(私の学生時代ってどんなだったっけなー……)
セーラー服を着て毎日学校に通っていた自分も写真の中の二人のように輝いていたのだろうか。なんの変哲もない高校生時代を過ごしたけれど。
(あっちゃん、今何してるんだろ)
ふと元彼の顔が脳裏に思い浮かぶ。真利のどこがよかったのか知らないが、元彼のあっちゃんは高校二年生になってクラスが一緒になるとすぐ交際を申し込んできた。特に断る理由もなく真利はなんとなくであっちゃんの告白を受け入れ、高校を卒業するまで付き合った。
真利とあっちゃんが別れたのは卒業式の日だ。あっちゃんは自動車工場への就職が決まっていて、卒業式が終わると真利にプロポーズしてきたのだった。長谷津は田舎だ。田舎なので十代後半で結婚する若者は多かった。しかし真利はあっちゃんのプロポーズを断った。
真利の進路はすでに決まっていた。真利は婿入りしてくれないなら結婚は無理だと言い、あっちゃんは婿入りは嫌だと言った。それで終わりだった。
その後真利は二人の男性と付き合ったがあっちゃんほど長続きした相手はいなかった。
あっちゃんにプロポーズされたあのとき、首を縦に振っていたら真利の人生は大きく変わっていたに違いない。
(まあそんなのありえないけど)
真利が物思いにふけっていると廊下から玄関のドアが開く音がした。次いで「ただいまっ」と少し焦ったような勇利の声がする。
「お帰り」
「お帰りー。お邪魔してまーす」
ヴィクトルと真利の声が揃う。リビングに駆け込んできた勇利はよほど急いで帰ってきたのか、ハアハアと息切れし、額に汗をにじませていた。
「ごめんヴィクトル。ちょっと遅くなった。……久しぶり、真利姉ちゃん。長旅お疲れ様」
「おっすおっす」
「勇利、シャワー浴びるなら早く行っておいで」
「あ、大丈夫。チムピオーンで済ませてきたから。着替えだけしてくるね」
バタバタと勇利が寝室に駆けていく。口の端を嬉しげにほころばせて。真利とヴィクトルは顔を見合わせて笑った。
数分後、ジャージから普段着に着替えてリビングに戻ってきた勇利を見て真利は「ほうほう」とうなずいた。コーディネートのセンスは相変わらず致命的だが全身をブランド物で固めている。ヴィクトルがとてつもなく複雑そうな表情を浮かべているのは喜ぶべきか悲しむべきか判断がつかないからだろう。
勇利が身に着けているのは彼が自分で購入しそうにないアイテムばかりだった。
(ちょっとだけお洒落を頑張りましたってか?)
久しぶりに再会した姉と外食に行くために着飾るという殊勝な一面が勇利にあったとは驚きである。勇利は真利とヴィクトルが沈黙している理由がさっぱりなようで、こてんと首を横に倒した。
「どうかした? 時間ないんじゃないの?」
その問いは主にヴィクトルに向けられたものだった。どのように返答するのか真利は興味津々の眼差しをヴィクトルに注ぐ。真利の視線を受けてヴィクトルはたじろぐ様子を見せた。
「あー、勇利……これは俺の個人的な意見でしかないんだが……そのジャケット……は、いや、やっぱりなんでもなっ!?」
気付けば真利はヴィクトルの脇腹に肘鉄を食らわせていた。ただでさえ甘ったれの弟だというのにこれ以上甘やかしてどうするというのだこの男は。
「ジャケット、変えてこい。それか羽織り物なしにしな。色も柄もシャツに全然合ってないから」
「う……そんなに駄目?」
真利は無言でうなずいた。勇利が肩を落としてジャケットを脱ぐ。真利がヴィクトルに視線を投げると彼は勢いよく顔をそむけた。
(なるほどなるほど)
薄々察してはいたがこの四年の間に二人の力関係はほぼ対等、どころか逆転すらしているらしい。まあそうだろう。勇利をロシアに呼び寄せたのはヴィクトルだ。勇利の機嫌を損ねれば何がどう転ぶのかわからない。
「そろそろ出ようか。本当に遅刻する」
ごほん、と咳払いをひとつしてヴィクトルが言う。勇利と同居を始めてからのヴィクトルの苦労を想像し、真利は少しだけ彼に同情した。


真利が連れていかれたレストランはカウンター席が五、テーブル席が一〇というこじんまりとしたところだった。店の中央には簡易的なステージがあり、グランドピアノが設置されている。
細い路地裏にある階段を下りて辿り着いたその店には確かに隠れ家の赴きがあった。顔を隠さずに堂々と入店したヴィクトルと勇利に対して店にいた客はなんの反応も示さなかった。
ちらちらと視線は感じるが表立って騒ぐ客も携帯を向けてくる客もいない。もしかしたらそれがこの店の暗黙の了解なのかもしれなかった。世間の目から逃れてひと時の安らぎに身をゆだねたい客のためにこの店はあるのだろう。
「いい感じじゃん」
「だろう?」
真利が褒めるとヴィクトルが得意そうに胸を張った。ウェイターがメニュー表を片手に近付いてくる。
「ニキフォロフ様、ようこそお越しくださいました。お席までご案内いたします」
ウェイターに通されたのはステージが正面から見える四人掛けのテーブルだった。金色の板に洒落たフォントでReservedの文字が刻まれている。文字の色は黒かった。
「ロシアなのになんで英語?」
「さあ……旅行客も多いからじゃないの?」
そんなのどうでもいいからさっさと注文しよ。僕お腹減った。さっさと席に座りふてぶてしく言い放つ弟に真利は半眼になった。練習で疲れているからとはいえ、この愛想のなさはひどい。そしてそんな態度を気に留めることもなく「勇利何にするー? あ、俺これ頼むから半分こしよう」などと鼻の下を伸ばしているリビングレジェンドは見るに堪えない。
(破れ鍋に綴じ蓋……)
そんなことわざがぴったりである。正直ヴィクトルの忍耐力には感服するばかりだ。
血のつながっている肉親だからこそ勇利とひとつ屋根の下で暮らせたが、もし赤の他人だったなら絶対に無理だった。
勇利は基本的にわがままである。末っ子長男ゆえに甘やかされて育った。負けず嫌いで自分の意見を曲げることを知らない。年が離れている姉弟だから真利と勇利の仲は上手くいっているのだ。年子であれば自分たちの関係はとっくのとうに破綻していただろう。
真利がそんなことをつらつら考えていると不意にヴィクトルがメニュー表から顔を上げた。視線が絡む。ヴィクトルはしばらく真利を見つめ、ふっと頬をゆるめた。
――わかっているよ。そう語りかけられた気がして真利はどきっとする。
北国の男は狼のように強く、賢く、たくましい。ヴィクトルは時として紳士にもなるし、幼子にもなるし、賢者にもなる。真利が勇利に抱く複雑な感傷を彼はいつだってその澄んだ海色の瞳で見通しているのかもしれなかった。
真利と勇利が対立したとき、彼はあくまで中立の立場を取るだろう。どちらの肩も持たず、傍観を決め込むだろう。そう信じられるからこそ真利もヴィクトルには気を許している。
「二人とも注文決まった?」
真利とヴィクトルの間に漂う微妙な空気を鈍感な勇利が見事にぶち壊す。
「あんたってほんと……成長しないわね」
「っふ、く、ふふふ」
「え、何。僕なんかした?」
はあーと真利はため息をつき、ヴィクトルが肩を揺らして笑う。勇利はさっぱり状況がつかめず、目をまばたかせるばかりだった。
注文した料理が運ばれてくるまで十五分。談笑しながら料理を食べ終えるのに一時間かかった。店内は満客になり、いつの間にかステージに現れていたピアニストが美しいバラードを奏でている。
空になった皿が下げられデザートが運ばれてくる。そのタイミングで曲が終わりピアニストが立ち上がった一礼する燕尾服のピアニストにパラパラとまばらな拍手が贈られ、通りすがりの客がチップをかごに投げ入れていく。
ピアニストは顔を上げるとゆっくり口を開いた。
「皆さん、今夜は僕の演奏を聴いてくれてありがとう。皆さんはご馳走を食べて、美味しい酒を飲んで幸福な気分に浸っているというのに僕はお腹がぺこぺこで今にも死にそうだ」
彼が話すロシア語をヴィクトルと勇利が代わる代わる翻訳してくれる。
「あとで厨房に行ってまかないをもらおうと思う。オーナーのテオはいい奴だから今夜も素晴らしい働きをした僕をこのまま帰すなんてことは、決して、しないだろう」
「勝手なこと言いやがって!」
店内の隅にいた赤毛の大男から野次が飛んだ。あちこちで笑いが起こる。「あれがここのオーナーだよ」ヴィクトルが真利に小さく耳打ちした。
「あはは。クビになるのはたまらないからふざけるのはここまでにしておこう。さて、今夜は素晴らしいゲストがこの店にいるようだ。誰とはいわないよ。彼らの邪魔をしたくはないからね」
視線が自分たちに集中するのがいやでもわかった。ヴィクトルがひらひらと手を振って周囲にアピールを始める。眉を潜めたのは勇利だった。
「……ごめん真利姉ちゃん」
「いいって別に。予想の範囲内。あれと一緒にいて注目集めないとか無理でしょ」
こそこそと日本語でささやき合う姉弟をよそにヴィクトルは笑顔をばらまいている。
「この国の厳しい冬を少しでも楽しいものに変えてくれる彼らに敬意を表して、この曲を捧げます。『離れずにそばにいて』」
店内が暗くなり、ステージだけが照らされる。ピアニストが椅子に腰かけ背筋を正した。両手の指がそっと鍵盤に触れた。アレンジされたアリアが流れ出す。荘厳で、情熱的で、甘く心を震わせる旋律。ヴィクトルが突然すっくと立ち上がった。
「勇利、踊ろう」
「ちょっ、と待ってよ、いきなりそんな、」
「お願いだよ。俺は今、ここで、お前と、踊りたいんだ。俺は――お前以外とは踊らない」
勇利の手を引っ張り早く早くとヴィクトルが急かす。そんな彼に勇利はひとつ苦笑をこぼして腰を浮かした。ヴィクトルが勇利の腰をホールドし、最初の一歩を踏み出す。
アドリブの振り付けだ。バレエもソシアルダンスも本当の振り付けも全部混じってめちゃくちゃな動きになっている。それでもやはり二人は優雅で美しかった。
全身に星屑のスパンコールをまとっているみたいだった。二人の動きに合わせて汗が飛び散る。照明に照らされてきらきらと輝きを放つ。真利は頬杖をつきながらしみじみ実感した。
(私は勇利とは違う)
自分がアダルトチルドレンだとは思わない。ただないものねだりはしないと昔誓っただけだ。真利はあんなふうに輝くことを望まない。あの輝きをずっと見つめていられればそれでいい。
(私は私の人生を生きる)
この瞬間が幸せだと真利は胸を張って言える。たったそれだけのことが妙に誇らしい夜だった。
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