やさしさはここに在るよ 後編

「――すごい」
真利は感嘆のため息を漏らした。絶対的な美に圧倒され呆然と立ち尽くすしかない。まさに魂を抜かれるという言葉が現状には相応しい。
大理石の階段には真っ赤な絨毯が敷かれ、壁には緻密な金の装飾が施されている。丸太のごとき円柱が立ち並び、天井には巨大な絵画が飾られている。
万華鏡の中に飛び込んだようだ。何もかもがまばゆい。この場所は真利の好きなバンドのライブステージよりも燦然と光り輝いている。まぶたを閉じればちかちかと金色の光が踊る。
「……リ、マリ、おい! マリ!」
「…………っは!」
何度も名前を呼ばれて我に返る。と、壁の装飾とは異なる金色が視界の端でさらりと揺れた。
「お前俺の話聞いてなかっただろ」
唇をひん曲げてこちらを睨む青年の名はユーリ・プリセツキー。かつてはロシアの妖精と呼ばれていた少年はすくすく成長し、今ではロシアの貴公子と呼ばれるようになった。
「ごめんごめん。一瞬意識飛んでたわ」
「……時差ボケじゃねーの」
不機嫌そうな声音にはわずかに不安の色が混じっている。真利は頬がゆるみそうになるのを必死でこらえた。言動はいささか乱暴だがユーリの性根は真っ直ぐだ。そして彼は年上の女性にめっぽう弱い。
真利を心配しているくせに体調を気遣う言葉ひとつ口に出せないユーリは天邪鬼で大変かわいらしい。ちらちらとこちらの様子を伺っているユーリの頭を撫で繰り回したくてたまらない。
しかしそんなことをすれば確実にユーリを怒らせる。真利はぐっと我慢して平静を装った。
「昨日は爆睡だったから目は覚めてるわよ。大丈夫。本当に調子が悪かったらちゃんと言うから」
「ならいーけどよ。……で、お前何が目当てなんだ。ここマジで広いぞ。一日で回んのは無理だかんな」
「ぶっちゃけ芸術なんてさっぱりわかんないからメジャーな作品見れたらそれでいい」
「案内しがいのない奴だなてめーは」
呆れたように肩をすくめ、ユーリが手元の地図に目線を落とす。ここはエルミタージュ美術館。ロシアはサンクトペテルブルクにある観光名所のひとつだ。世界遺産にも登録されている。
歴史や絵画に興味はないが芸術鑑賞をして自分の感性と教養を磨くのもたまにはいい。サンクトペテルブルクをよく知るにはここに来るのが一番だとヴィクトルは言った。というわけで真利は今日一日ここで過ごすつもりでいる。
ヴィクトルと勇利は仕事だ。二人は一緒にいられなくて申し訳ないとしきりに真利に謝ってきたが、そもそもアイスショーを目前に控えて遊び回るなど論外だ。これは推測でしかないが、昨夜真利とディナーを共にするためにあの二人はこの数ヶ月死に物狂いで働いたのではないだろうか。
今日の朝もばたばたと慌ただしく出ていった。そしてユーリが来た。聞けば暇潰しの相手をヴィクトルと勇利の両方から頼まれているという。ユーリは渋面を作って玄関に立っていたが真利にはそれがただのポーズだとわかっていた。
先程からユーリはゆっくりはっきりわかりやすい単語ばかり選んで英語を喋っている。出会った頃から彼はそういう振る舞いを自然にできる人間だった。
(もてなされるってのは気分がいいもんだ)
普段はもてなす側だからこそ強くそう思う。放置プレイをかまされたところで真利は気にしないが、ヴィクトルも勇利もユーリも真利がいい思い出を作れるよう、この旅が楽しいものになるよう協力してくれている。その心意気が嬉しい。
「っうし。とりあえずこのまま階段上がって冬宮行くぞ。昼飯は中のカフェで済ませりゃいいだろ」
「りょーかい。頼りにしてるぞ、ユリオ」
かつて真利がつけたあだ名で呼ぶと彼は一瞬嫌そうな顔をしたが、もはや諦めの境地に達しているらしく何も言わずに颯爽と歩き出す。
器の広いいい男に育った。うちの弟とは大違いだ。
真利は小走りで階段を駆け上がった。ユーリを追い越し、二人の目線が同じ位置になるところで足を止める。携帯を取り出してカメラを構える。
「はい、笑って」
ユーリのほうに肩を寄せてピースする。ユーリは小さく舌打ちすると口角を一センチほど持ち上げて画面を見た。犯罪者と見紛うような凶悪な笑顔だった。
それから二人は数時間かけて旧館の展示品を見て回った。日本語版のオーディオガイドを借りておいたので通訳なしでも真利は作品の世界観を大いに楽しむことができた。途中でトイレ待ちの長蛇の列に並ぶとユーリはぶうぶう文句を言ったが「今度からうちでカツ丼食べさせてやんないよ」と脅しをかけるとぴたっと口をつぐんだので真利は思わず笑ってしまった。
時計の針が正午を回ると二人は旧館を出て新館に移動することを決めた。がその前に腹ごしらえと小休止が必要だ。二人は迷わずカフェに足を向けた。しかしカフェの中も観光客でごった返していたので席を取れるまでかなりの時間がかかってしまった。
「つっかれた……前はこんなのへっちゃらだったのにねえ。寄る年波には勝てないわ」
足が棒のようだ。土踏まずの辺りがずきずきと痛む。真利がふくらはぎを揉んでいるとユーリが鼻を鳴らした。
「ダッセェ。つかそんなんでよく接客業やってられんな」
「それはそれこれはこれ。人混み半端なかったし、やかましい団体客いたし。TPOをわきまえろっての。うちの弟と暮らしてるロシア人も大概フリーダムだけどあそこまでひどくないわ」
「そりゃ言えてる」
ユーリはうなずいて同意を示すとサンドイッチにかぶりつき、ストローで生絞りのジュースをすすった。真利も一旦喋るのを止めて食事に集中する。ユーリはサンドイッチをおかわりし、真利はデザートにチョコレートケーキを注文した。
真利はケーキを頬張る自分の顔をユーリがちらちら伺っているのに気付いた。何か言いたいことがあるのか口の開け閉めを繰り返している。真利はあえて無視をしてユーリが自分から話しかけてくるのを待った。
デザートの皿が空になり、飲み物も底をつく。真利がフォークを置いた刹那、「マリ」と名前を呼ばれた。強く静かな響きだった。
「悪かったな」
「………何が?」
謝罪のわけを問うとユーリは罰が悪そうに顔をうつむけた。長めの前髪がすだれと化して彼の表情を覆い隠してしまう。
「ここにいるのが、あいつらじゃなくて」
「………は」
真利はぽかんと口を開けた。それくらいユーリの口から出てきた言葉は真利にとって予想外だったのだ。真利はユーリのつむじをじっと見つめた。
(苦労人。んでもってとんでもない器用貧乏)
勇利とヴィクトルの不在をユーリが気にして謝る必要などどこにもない。けれど気にして、真利の心中を慮ってしまうのがユーリ・プリセツキーという青年なのだ。こういった場面で普段のふてぶてしい態度を貫けるほど彼は成熟していない。彼はまだ二十歳を過ぎたばかりなのだ。
「私はユリオに会えて嬉しいよ。謝んなくちゃいけないのはむしろこっちじゃん? 付き合わせてんの私。あとお父さんとお母さんからも言われてるし」
「え………?」
ユーリがおずおず顔を上げる。無防備な表情に母性をくすぐられる。真利は頬杖をついてにやにやした。
「勇利とヴィクトルだけじゃなくて、ユリオが元気でやってるかちゃんと確かめてこいって。あんた、ヴィクトルと一緒に身内認定されてるから」
「し、心配されるようなこと、なんもねーし」
「そんなの会ってみなきゃわかんないでしょ」
ユーリの頬に赤みが差す。怒っているのではなく照れているのだ。かわいいかわいいと真利は目を細めた。
「っていうかあの二人とずっと一緒にいるほうが私は無理。だからユリオはそういうの考えんな。俺に会えて嬉しいだろ? って私に向かって言ってたほうがずっとあんたっぽい。ほら、言ってみ?」
「――俺に会えて嬉しいだろ?」
「めっちゃくちゃ嬉しい。たまんない。あとでTシャツにサインちょーだい。家宝にするから」
「もう何回もサインしてるだろーが!」
「ぁあああん?」
「あすんまんせん今のナシ」
真利が本気で睨むとユーリが頬を引きつらせた。若干距離が遠のいている気がするがまあいい。彼はすっかりいつもの調子を取り戻したようだ。真利がわざと唇をとがらせると「きめえきめえ」と肩を揺らして笑う。ここにいるユーリはロシアのアイスタイガーでも、ロシアの貴公子でもなかった。どこにでもいる極々普通の若者だった。
「ユリオー。私の座右の銘教えたげる」
「は? なんだよそれ。そんなもんあんのか」
「あるある。私の座右の銘は一期一会、だよ」
一度会った人とはもう二度と会えないかもしれない。だからこそひとつひとつの出会いを大切にするのだ。
「私と出会ってくれてありがとう」
万感の思いを込めて言う。返答は「バカ」の一言だったがユーリの瞳がうるんだのを真利は見逃さなかった。
昼食を終えると二人はカフェを出てエルミタージュ美術館の新館を訪れた。宮殿広場に面している半円球の建物がそれで、観光客の数は旧館に比べてはるかに少なかった。真利もユーリもあまりの混雑に辟易していたので新館に来てやっと肩の力を抜くことができた。
新館ではピカソ、ゴッホ、モネ、セザンヌといった日本の美術の教科書にも掲載されている画家の作品がいくつも展示されていて、真利は郷愁を覚えずにはいられなかった。
手を動かして何かを作るのは好きだったが、芸術作品に感動したり、見惚れたりすることは滅多になかった。美術の授業が座学だったとき、真利は決まって落書きか昼寝をしていた。
フィギュアスケートだって似たようなものだ。きれいだとは思うし、選手が技を決めればテンションが上がる。が、真利にしてみればそれ以上でもそれ以下でもない。曲の世界観だとか、指先まで神経が行き届いているとか、全身を使って表現しているとか、そんなのはちんぷんかんぷんだ。
勇利は物心ついた頃から始めたスケートが大好きで大好きで仕方がないという感じだった。ヴィクトルに傾倒するようになってからはもっとフィギュアスケートにのめり込むようになった。いつの間にか大きな大会に出るようになって、度々海外にも行くようになった。
勇利は自分とは別の生き物なのだと高校生のとき、真利は薄々思っていた。当時の真利には熱中できる趣味がなかった。何をやってもすぐに飽きてしまって、ひとつのことをずっと続けていられる弟が不思議で仕方なかった。
バンドの追っかけを始めて真利は少しだけ勇利の気持ちを理解できるようになった。
(ずいぶん遠くまで来ちゃったよね、あんたも私も)
ヴィクトル・ニキフォロフとかいう人の形をした北極星を追いかけてロシアなんかに行ってしまった。そんな弟に会うために真利も空を飛んで海を渡った。
「ねーユリオ」
足を止めて振り返る。ユーリは片眉を上げて真利の呼びかけに応じた。
「あんだよ」
「私に何も訊かずに頑張れって言ってくんない?」
「は?」
「私さ、ずっとうやむやにしてたこと、今夜はっきりさせようと思ってんだ。でもそれって結構勇気が要るわけ。だから応援してくんない?」
「……それ、あいつらに関係すること、か?」
「まーね」
「わかった」
ユーリがひたとこちらを見つめる。その揺るぎない視線に年甲斐もなく頬が赤らむ。真利は胸の内でこの世に生きるありとあらゆるイケメンを罵倒した。
「変にこじれたら悪いのはあいつらだ。ぜってえそうに決まってる。だから――頑張れ。逃げ場所が必要になったら俺んとこ来いよ。泊めてやるから」
「はー……ほんと。ほんとさあ。あんたが私の弟だったらどんなに可愛がったことか」
「勘弁してくれ」
そんなのはご免だとユーリが舌を出しつつ右手の中指を立てる。ただの冗談だ。それはユーリも真利もよくわかっている。しかし。
(もしも私とこいつが同い年だったら、)
本気で好きになってどこまでもどこまでも追いかけていたかもしれない。ヴィクトルの背にひたすら手を伸ばしていた勇利と同じように。
(さすがにないか。ないわ。ないない)
真利は失笑して頭を振り、脳裏をかすめた想像を追い払う。
「ユリオ。あんた、彼女ができたら真っ先に私に紹介しな。見定めてあげるから」
「ふざけんな。お前は俺のおふくろか」
真利とユーリは軽口を叩き合いながら歩き出す。空が黄昏色に染まるまで二人はずっと新館の展示を見て回った。


大理石でできている階段を上りきって真利は振り返った。ここはヴィクトルと勇利が暮らしているアパートの正面玄関だ。階段の一番下ではユーリがジーンズのポケットに両手を突っ込んで真利を見上げている。
思う存分エルミタージュ美術館を探索し満足した真利はユーリが運転するバイクに揺られてここまで帰ってきた。
「本当にいいの? 私のカツ丼美味いよ? お母さんには負けるけど」
「いい。食いたくなったらハセツに行く。あとお前のカツ丼はヒロコのと同じくらいうめえから自信持て」
「お、おう。サンキュー。ユリオが素直だと調子狂うわあ」
「うっせ。……おい、マリ。俺のガイド、どうだった?」
不遜な態度から一転、急に自信のなさそうな顔つきになってこちらの様子を伺うユーリに真利はにっと歯をむき出しにして笑いかけた。
「文句なし。満点。存分に楽しませてもらったわ。あいつらにもそう伝えとく」
「……ならいい。じゃあな。明日は寝坊すんなよ」
「そっちこそお腹丸出しで寝て風邪引くんじゃないよ」
誰がするかバーカ。真利の台詞をユーリが鼻で笑い飛ばす。それで気は済んだとばかりに彼は踵を返してバイクにまたがった。ヘルメットをかぶり、エンジンをかける。
最後にユーリは顔を上げてこちらを見た。口パクで「じゃあな」と告げられる。真利はひらひらと手を振って応じた。バイクが発進し、あっという間にユーリの背中が遠ざかる。
ユーリの後ろ姿が完全に見えなくなると真利は体を反転させ中に入った。エントランスホールを突っ切ってエレベーターに乗り最上階を目指す。
「さぁーて。ちょっと急がないとね」
あらかじめヴィクトルから預かっておいた合鍵――このアパートは全ての部屋が電子錠になっている――をスリットに通すと軽い電子音がして扉のロックが解除された。玄関で靴を脱いだ真利は一直線にリビングを目指す。
先程、勇利から十九時に帰ると連絡があった。現在時刻は十八時二〇分。のんびりしていたらすぐに二人が帰ってきてしまう。
「よし」
真利はキッチンに立つと腕まくりをして気合いを入れた。今日の夕食は真利が腕を振るって作る豚汁とカツ丼だ。真利はてっきり今日のディナーも外食で済ませるものと思っていたが、二人の希望は違っていた。
――実は今うちには日本からわざわざ取り寄せた特Aブランドのお米と新鮮な卵があるんだ。
――豚肉も市場で買ったばっかりだよねヴィクトル。めちゃくちゃ分厚いやつ。
――あと野菜と味噌と味の素もあったかな。腐らない内にどうにか食べてしまいたいんだ。ね、勇利。
代わる代わるカツ丼を食べたいとほのめかされ、苦笑したのは今朝のこと。真利が「作ればいいんでしょ作れば」といえば二人は「やったー!」と諸手をあげて喜び、ハイタッチをし、暑苦しい抱擁を玄関で交わしてから出掛けていった。
大会で勝ったときにしかカツ丼を食べてはならないという勇利の自分ルールもこのような場合は適用されないらしい。
(あいつらどんだけカツ丼好きなのよ)
米を研いでヴィクトルが購入したという炊飯器に釜をセットして炊飯ボタンを押す。鍋で湯を沸かしている間に豚汁に入れる具を包丁で切り分け、卵と豚肉とパン粉を用意する。板長と共に厨房に立つことも多いため、あれこれ考える必要もなく真利の体は自然と動いていた。
カツ丼を作るのは意外と簡単だ。けれど寛子の味を再現するとなると難易度は一気に跳ね上がる。勇利ではおそらく無理だろう。
(お母さんの味を継げるのは私だけ)
つまりあの二人の胃袋を真利は掌握しているのだ。この先彼らは死ぬまでずっと自分にだけは逆らえないのである。そう考えると非常に愉快だ。
真利は悦に浸りながら豚汁の具を鍋に投入し、溶き卵をフライパンに投入した。時間よりも自分の目と感覚が大事だ。卵を全体に広げ、フライパンに蓋をし、火加減を調整して待つ。
「3、2、1、はい、でーきあーがりーっと」
火を止めて蓋を持ち上げる。湯気が換気扇に吸い込まれていく。金貨にも劣らないきらめきと食欲をそそる香りだけがあとに残った。
「豚汁はどうかなー」
菜箸を鍋に入れてごぼうをつまむ。熱々のそれを口に放り込んで真利はもぐもぐ口を動かした。ついでに人参に菜箸を突き刺して硬さを確かめる。
「ん、こんなもんでしょ」
硬すぎず、さりとて型崩れするほどやわらかくもない。しっかりとした歯応えを堪能し、真利は菜箸を食洗機に置いた。
ゴムでひとつにくくっていた髪をほどき、指で揉みほぐしていると不意に家のチャイムが鳴った。電子ロックの外れる音とドアの開く音が聞こえ、にわかに廊下が騒がしくなる。
「ただいまー! 真利姉ちゃんいるー?」
「ただいま真利ー! ワーオ、とってもいい匂いがするね! 俺もうお腹ぺこぺこ!」
ドタドタと足音荒く勇利とヴィクトルがリビングに姿を見せる。二人ともシャワーを浴びずに急いで帰ってきたのか汗をびっしょりかいていた。息も完全に上がっている。チムピオーン・スポーツクラブからここまで走って帰ってきたに違いない。
二人は真利を見て、次にフライパンの中に視線を移した。卵とじのカツをとらえた二人の目の色がはっきりと変わる。
「ちょっと着替えてくる!」
「五分だけ待っててくれ! すぐ戻る!」
叫びながら真利の目の前を通り過ぎ、寝室に消えていく。二人のカツ丼への執念を目の当たりにし、真利はぶっと噴き出した。
「子供か!」
勇利とヴィクトルが着替えを終えて再びリビングに現れるまで真利は腹を抱えて笑い転げた。


ディナーの時間はあっという間に過ぎていった。真利が精魂込めて作ったカツ丼と豚汁を二人はものの数分で平らげ、どちらも二杯、三杯とおかわりをした。現役アスリートの食べっぷりは見ていて気持ちがいい。すぐにお腹いっぱいになってしまった真利は魔界への誘いをちびちび飲みながら、二人の健啖家ぶりに感心していた。
「それでユリオとのデートはどうだった?」
「健気で超かわいかった」
真利がユーリから謝罪を受けた話をすると二人は複雑そうな表情で黙り込んだ。真利はん? と首を傾げる。
「真利姉ちゃんばっかり……ずるい」
「あの子はやっぱり年上が好きなんだねえ」
「僕たちにはちっとも優しくしてくれないのに」
大の大人二人がぶうぶうとユーリではなく、真利に向かって文句を言ってくるのははなはだ見苦しかった。そもそも、だ。
「あんたたち二人が敬意を払うに値する人間じゃないのが悪いんでしょ。振り回されて迷惑してるって散々文句言ってたわよ」
反論すれば二人はぴたっと口をつぐんだ。身に覚えがあるのか、後ろめたそうに目をそらす。真利はこれ見よがしに酒瓶を振ってみせた。
(まあ、ユリオも満更でもないって感じだったけど)
はた迷惑な師弟の愚痴をこぼすユーリの口元がゆるんでいたのは自分だけの秘密だ。言えば、二人は更に図に乗るに決まっている。ただでさえ羽目を外しすぎている彼らなのだから、真利が釘を刺すくらいで丁度いいのだ。
そんなふうに楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
フライパンと鍋の中がすっからかんになり、冷蔵庫にしまってあったデザートも胃袋に収まった。真利が汚れた食器を片付けている間、ヴィクトルは湯を沸かして紅茶を淹れてくれた。勇利はソファに座ってこくりこくりと船を漕いでいる。
「真利が来てくれてよかった。勇利、最近頑張りすぎてたから」
「そーね。最後まで走りきってくれたらいいと思うわ。………ねえ」
「ん?」
「勇利、起こしてくんない? 話あるから」
「………」
ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、ヴィクトルは無言でキッチンの火を止めた。真利の視界を横切り、勇利の正面にひざまずいて、そっと呼びかける。
「勇利、勇利、起きて。真利が大事な話があるって」
「んー………?」
勇利のまぶたが震え、ゆっくりと押し上げられる。あらわになった焦げ茶色の瞳を真利はひたと見据えた。短く息を吸う。
「私、結婚したから」
「そーなんだ……けっこん……結婚!?」
一気に覚醒した勇利が立ち上がって叫ぶ。
「結婚って何!? どういうこと!? 相手は誰!? っていうかいつの間に!? 何も聞いてないんだけど!」
「だって言ってないし。あ、ちなみに籍入れただけで挙式はまだだから。一応今年中にはやる予定。あっちとこっちの親には報告済み」
「な、なんだよそれ」
勇利が両の拳を握ってうつむく。ヴィクトルは声もなく肩を震わせる勇利を心配そうに見つめていた。
「なんで何も言ってくれなかったの。僕、弟だよ? なのになんで籍入れるまで教えてくれなかったの」
「勇、利っ!?」
自身の頬に触れようとしたヴィクトルの手を勇利は勢いよくはたき落とした。まなじりを吊り上げてきっとこちらを睨んでくる弟に真利は苦笑する。
「何も言わないのはあんたのほうでしょ」
え、と勇利が目を丸くする。頭上に疑問符を飛ばす勇利とは対照的にヴィクトルがはっと息を呑む音が聞こえた。
「まどろっこしいからはっきり言っちゃうけど、私もお父さんもお母さんもあんたたちがセックスするような関係だってこと、とっくに気付いてるからね」
「あ、え………?」
勇利の顔からざっと血の気が引いていく。瞬く間に顔面が蒼白になり、体がふらりと傾ぐ。ヴィクトルは脱力して再びソファに座り込んだ勇利の隣に腰を下ろすと、彼の肩をそっと抱き寄せた。勇利が頼りなくヴィクトルにしがみつく。ヴィクトルは勇利のつむじにキスを落とし、ロシア語で何かを小さくささやいた。
「真利」
「ん」
「今のはさすがにひどいと俺は思う。それが君の家族に対する仕打ちなのか」
ヴィクトルがこちらを見る。海水をそのままかためたような瞳の中で青白い炎が踊っていた。冷たく激しい怒りの炎。真利は肩をすくめてヴィクトルの怒りを受け流した。
「ちょっとベランダでタバコ吸ってくるわ」
「真利!」
真利はヴィクトルの呼びかけに応えず、ひらりと手を振った。窓を開けてベランダに出る。窓を閉めると勇利の嗚咽は聞こえなくなった。
タバコをくわえて火をつける。
「久しぶりに泣かしちった」
まあ、いいだろう。勇利は今まで好き勝手に生きてきたのだから。これくらいの腹いせは許されてしかるべきだ。
「あーまっずい」
大量に煙を吐き出して真利はふっと微笑んだ。
タバコを吸い終わってリビングに戻ると、勇利はきちんと背筋を正して座っていた。目は赤いが動揺は収まったらしい。ヴィクトルは勇利の肩を抱いたままだ。
「勇利」
名前を呼ぶと勇利の肩が揺れた。
「あんた、ちゃんとヴィクトルに謝ったんでしょうね?」
さっきの、と言いながら真利が手の甲をさするジェスチャーをすると勇利は蚊の鳴くような声で「うん」と答えた。
「そ。ならいいや。で、さっきの話の続きなんだけど」
「…………」
「私たち別にあんたたち二人が付き合ってようがなんだろうがどうでもいいから」
意識してやわらかな声音を作る。真利が言うと勇利の顔に困惑と安堵の色が浮かんで消えた。ヴィクトルが目を瞠る。
一歩、二歩、三歩。真利は大股で勇利に歩み寄った。勇利が眉根を寄せてこちらを見上げる。真利はそっと勇利の頭に右手を置いた。
いつの間にか身長を越されて。泣き虫は鳴りを潜めて。家族に向かって後ろめたそうな表情を浮かべることもなくなった。それでもふとした瞬間に勇利は罪悪感にさいなまれているような顔をする。ごめんなさいと声なき声が聞こえてくる。
それが嫌で。とてつもなく嫌で。もういいよとただそれだけを伝えたくて自分はここまで来たのだ。
「あんたはもううちのこと気にしなくていいってそれだけ言いたかったのよ。ゆ~とぴあかつきは私と私の旦那が継ぐ。初孫の顔も私たちが見せてあげる。だからもうこそこそすんのやめな。ちゃんと胸を張って、堂々と、好きなら好きって言いなさい。帰省したときに隠れていちゃいちゃすんのもやめて、みんなの前でキスのひとつでもぶちかましゃいいのよ」
息継ぎをして「それから」と続ける。ずっと秘めていた想いを面と向かってぶつける機会は今を逃せばおそらく二度とやってこない。
「ぎりぎりまで結婚のこと黙ってたのは煩わせたくなかったからで、ちゃんと顔見て直接言いたかったから。――ねえ、勇利」
右手をどけて真利はしゃがみ込む。勇利は両手で顔を覆っていたが真利が辛抱強く待っていると顔を隠すのをやめた。
ウサギみたいに真っ赤な目をして、情けないことに鼻ちょうちんまで作っている弟が真っ直ぐに真利を見つめる。
「私はあの家で生きていく。子供の頃はなんで私ばっかりって思ってた。あんたの図太さがうらやましかった。でも今はそんなこと全然思わない。接客業は性に合ってるし毎日楽しい。私は今の自分が好きだし、ゆ~とぴあかつきの仕事も大好き。でも、ひとつだけ、これだけはあんたに知っててほしい」
「何……?」
「あんたが生まれた日に、みんながなんて言ってたか」
ツンと鼻の奥が熱くなる。息が震える。待て待て。メンがヘラってる女子高生じゃあるまいし。三十路を越えた中年女が実の弟の前で号泣するなど洒落にもならない。
真利がハ、ハ、と短く浅い呼吸を繰り返しているとソファの真ん中に座っていたヴィクトルが静かに端に移動した。勇利とヴィクトルの間にぽっかりと隙間ができる。
「真利、おいで」
畜生と真利は歯噛みする。これだから世界一モテる男はずるい。やることがいつだって的確で、洗練されていて、そのくせ嫌味がない。
真利は鼻をすすりながらソファに腰を下ろした。勇利とヴィクトルがぴったり体を寄せてくる。二人のぬくもりが波立った心を鎮めていく。
「生まれた赤ちゃんが男の子だってわかって、親戚の人たちも、近所の人たちも、みんなこれでゆ~とぴあかつきの将来は安泰だって口を揃えて言ってた。この子が大きくなるのが楽しみだって満面の笑みを浮かべてた。嬉しそうだった。私は――輪の中に入っていけなかった」
「……うん」
あのとき、真利の頭にふと浮かんだのは自分が生まれたとき、この人たちはこれほどまでに喜んでくれたのだろうかという思いだった。待望の長男が生まれたと聞いて、近所の人たちが次々家に押しかけてきた。誰もが父親の肩を叩き、男の子を生んだ母親を称賛した。
真利は廊下からその光景を眺めていた。自分がいては邪魔になるだろうと思ったし、疲れているだろう両親をこれ以上煩わせたくなかったのだ。
「私があんたの顔をちゃんと見られたのは、みんなが帰ったあとだった。お母さんが部屋の外にいる私を呼んでくれて、ごめんねって頭を撫でてくれた。あのとき、私がどれだけほっとしたか、きっとあんたには一生わからない」
「真利姉ちゃん、」
「でも生まれたばっかりの弟は、ちっちゃくて、しわしわで、抱かせてもらったらやっぱりかわいかったんだ。ゆ~とぴあかつきの看板を背負えるように私がこいつを一人前の男に育ててやるって思った」
けれど、勝生勇利は、真利の大事な大事な弟は、あのさびれた古臭い町で一生を終えていくような器ではなかったのだ。
「だから、もういいの。勇利。ここがあんたの帰る場所になっても誰も文句言わないよ。けど、みんな本当はあんたにゆ~とぴあかつきを継いでほしかったんだって。ただそれだけは覚えといてよ」
「っ……う、ん。うん、うん。真利姉ちゃん」
「んー?」
「今まで、ずっと、ありがとう。ありがとう。これからもよろしくお願いします……っ」
「ん。家のことは任せとけ」
こつんと。額と額をくっつける。勇利はまたぼろぼろ涙をこぼしていた。相変わらずよく泣く弟だ。真利がくすくす笑っていると、背後のほうから「ずるいなあ」とすねたような声が聞こえた。
「勇利も真利もずるい! 俺を仲間外れにしないでよ。俺だって勝生ファミリーの一員なんだからね!?」
そう言って無駄に長い両腕で勇利と真利の二人をぎゅうぎゅう抱き締めてくる。
「いだだだだっ!」
「ヴィクトルあんた邪魔!」
「離れてよヴィクトル!」
「いーやーだー! だって勇利をさらったのは俺だよ!? ってことは真利を泣かせたのは俺だよね? 真利が泣き止むまで離れないから!」
「泣いてないし!」
「いや、泣いてたじゃん」
「勇利ぃ? あんた一体どっちの味方だよ」
「もうそういうのいいから。なんか僕疲れちゃった……明日本番だし今日はもう寝ようよ」
「よし! じゃあ今日は三人で川の字になって寝よう!」
「無理」
勘弁してほしい。真利はじたばたともがいてヴィクトルの腕の中から抜け出した。ばっさりと一刀両断されたヴィクトルが捨てられた子犬のような瞳で見上げてくる。真利はうっとたじろいだ。
「ちょっと勇利、これなんとかして……って」
助けを求めて勇利を見やれば、彼もまた期待に満ち満ちた瞳で勇利を見つめていた。焦げ茶色の瞳がきらきらと光っている。
「え、嘘でしょ?」
「たまにはいいかなあって」
「ほら、勇利もこう言ってるし」
「…………………」
「…………………」
「…………………」
「ああもうわかったわよ! ヴィクトルはちゃんと服着て寝ること」
「はーい!」
「こんなときだけかわいこぶるな」
両手を振り回してはしゃぐヴィクトルに苦笑して立ち上がる。真利はくるっと体を反転させ、両手を二人の顔面に突き出した。
「寝室までエスコートよろしく」
真利が言うと二人は顔を見合わせ、弾けるように笑い出した。
その夜、真利と勇利とヴィクトルの三人はヴィクトルの部屋にあるキングサイズのベッドで眠った。会話は尽きることなく、低いささやき声が途切れたのは群青色の空がようやく白み始めた頃だった。


ひとつの照明が真っ暗なスケートリンクに一筋の光を差し込む。スポットライトに照らされて、リンクに滑り込んでくる人影が浮かび上がる。衣装に縫い付けられたビーズが楚々としたきらめきを放っていた。

――さて、ヴィクトリー・オン・アイスもいよいよ大詰めとなりました。次にユウリ・カツキが演じるのは名プロと名高い彼の代表作「Yuri on Ice」。この曲は彼の人生そのものを表現した曲ということですが、今宵は特別なたった一人の人を想って滑るそうです。
――その特別な人というのはヴィクトルではないんですね?
――インタビューでは否定していましたね。さて、カツキがスタートポジションに着きました。

美しいピアノの旋律が流れ始める。勇利が伏せていた顔をゆっくりと上げる。VIP席で勇利の演技を見守っていた真利はハッと息を呑んだ。
(今、あいつ確かに……)
勇利が真利を見てわずかに微笑んだ。ばっちり目が合った。見間違いでも、気のせいでもない。
今勇利が見せてくれているもの。魂のこもった美しい演技。その全てが真利に捧げられている。それが真利にははっきりとわかった。
結婚を祝福する勇利の想いが演技を通して伝わってくる。真利は口元を両手で覆った。
(大丈夫。ちゃんと伝わってるよ。勇利)
これまでずっと自分たちはたくさん喧嘩をしてきた。すれ違いもあった。ぎくしゃくした時期もあったし、わだかまりがないとはいえない。そもそも血のつながった姉弟だとしてもやはり他人だ。全てをわかり合えるわけでもない。それでも、だ。
(あんたはずっと私の弟。私の自慢の弟だ――ね、勇利)
今、真利の弟はスケートリンクの中で幸せそうに舞っている。嬉しそうに笑っている。まるで新しい玩具を買ってもらった子供のように。
勇利の演技が終わる。幸福の海に浸かりながら、真っ先に立ち上がり真利は力いっぱい拍手をした。肩で息をしながら勇利がゆっくりこちらを向いてピースサインを掲げる。花が咲くように笑みがこぼれて、真利は「ハラショー!」と声が嗄れるまで叫び続けた。
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