リトルシップ・タイムマシン

サンクトペテルブルクにしては珍しく快晴の朝だった。空の青は春めいてあわく、バルト海は魚影が見えそうなほど澄んでいる。
穏やかな波の音に耳を傾けながら勇利はマッカチンを連れて波打ち際を走る。
マッカチンは勇利の数歩先を行きつ戻りつしながら海水と戯れている。尻尾は千切れんばかりに振られ、ご自慢の毛並みはぐっしょり濡れている。勇利は誰ともなしに「あーあ」とつぶやいた。足をゆるめる。
帰ったらすぐに体を洗ってやらないと駄目だろう。ドライヤーとブラッシングも行程に入れると半日がかりの作業になりそうだ。
(薄々予想はしてたさ)
今日は休日だ。自分もヴィクトルも。時間ならたっぷりある。
「そろそろ帰ろっか。きっとヴィクトルが朝ご飯用意して僕たちを待ってるよ」
勇利とマッカチンが出掛ける前は眠っていた彼だけれど、そろそろ目を覚まして活動を開始しているだろう。
「ね、マッカチン。……マッカチン?」
返事がない。勇利はぐるりと周囲を見回した。いつの間にかマッカチンとの距離が大きく開いている。勇利は慌ててマッカチンのもとへ駆け寄った。
「こら、離れたら駄目だろ。迷子になっちゃうよ」
叱ってみたものの、マッカチンの耳に勇利の声はまったく届いていないようだった。尻尾をぶんぶん振り回しながら、前足で懸命に砂浜を掘っている。
(何を見つけたんだろう?)
勇利は不思議に思いながら砂浜にしゃがみ込んだ。しばらく待っていると砂浜に埋もれていた何かの正体が明らかになる。マッカチンが掘り当てたのは――透明なガラス瓶だった。コルクで栓がしてあって、朝の白い日差しを浴びてきらきら輝いている。中には丸まった便箋が入っていた。
マッカチンがガラス瓶をくわえて勇利の手に押し付けてくる。勇利は「ありがとう」と笑ってよだれまみれのガラス瓶を受け取った。ガラス瓶を動かす度、便箋が内側でこすれてカサコソ音を立てる。
首にかけていたタオルでよだれを拭き、コルクを握る。力をこめるとキュポンと間抜けな音がして栓が外れた。
ガラス瓶を逆さまにして上下に振ってみる。落ちてきた便箋をキャッチして勇利は砂浜に座り込んだ。マッカチンが隣に寝そべる。
丸まっている便箋を開く。と、英語の文章が隅から隅までびっしり書き込まれていた。勇利はずり下がっていた眼鏡の位置を直して、文章を読み上げる。
「えーっと、なになに……? 初めまして。どこかの国の見知らぬあなた。僕の名前は――」
勇利は息を呑んだ。手紙に素早く目を走らせて全文を読み終えた勇利は、思わず目頭を押さえた。そのまま石像のように硬直して、勇利は長い間言葉もなく潮風に吹かれていた。


おかしい。あまりにも帰ってくるのが遅すぎる。
ヴィクトルはイライラと人差し指でテーブルを叩いている自分に気付き、眉間のしわを更に深くした。美しくない言動は控えなさい! リリアの鞭のように鋭い叱咤が鼓膜の内側から響いてくる。
ヴィクトルはテーブルから手を下ろすと深いため息をついた。先程まで湯気を立てていた二人分のコーヒー、トースト、目玉焼きはすっかり冷めてしまって、心なしか色褪せたようにも見える。
(厄介事に巻き込まれてるんじゃないだろうな……)
電話をかける。けれど一向につながらない。
ヴィクトルはしばらく逡巡したのち、携帯をテーブルに置いた。あと十分。あと十分待っても勇利からの連絡がなく、帰ってもこなかったら探しに行こう。そう決めて冷めてしまったコーヒーを飲み干す。
ヴィクトルが目を覚ましたとき、既に勇利の姿はなかった。勇利だけではなくマッカチンもいなくなっていた。勇利が朝早くにマッカチンの散歩がてらランニングに行くのはいつものことで、ヴィクトルも大して気にしなかった。
しかしいつもは三十分ほどで帰ってくる彼らが一時間経っても帰ってこないとなれば話は違ってくる。ここはロシアのサンクトペテルブルクで、勇利が生まれた日本ほど治安のいい国ではない。
もちろん勇利のことはある程度信頼しているが、だからといって心配にならないわけではない。
勇利曰く、待てができるようになっただけまだマシ――ということだった。あれは耳に痛かった。
勇利がホームリンクを移した当初、ヴィクトルは誰が見てもわかるほど気を張っていた。繊細な勇利が慣れない環境で調子を崩さないよう、可能な限りそばにいて、彼の周囲を監視して、なんにでも口を出し、結局は勇利よりも先に自分が参ってしまった。
高熱を出してうなされている間、勇利はつきっきりで看病してくれた。そしてたくさん話し合いをした。
――過保護だとは思ってたし、本音を言うと鬱陶しかったよ? でもヴィクトルの心労を減らせるならいいやって思ってたんだ。これ以上負担かけたくなかったし、揉めそうだったし。
――そう、なのか……。
――でも、ヴィクトルが倒れてやっぱりなあなあにしちゃ駄目だって気付いた。ヴィクトル。僕は守ってもらわなくても大丈夫だから。ヴィクトルが必要になったときはちゃんと頼るし、悩み事も打ち明けるようにする。……すぐには無理かもしれないけど、ちょっとずつ、できるようになるから。
努力して変わっていく僕を一番そばで見ててよ。強く言い切った勇利は瞳に確かな光を宿していた。ユーリがいたならソルジャーの目とたとえたかもしれない。
ともかく熱が引いて動けるようになってからヴィクトルは勇利がいつどこで誰と何をしようが構わないことにした。彼が一人で外出する度、根掘り葉掘り詮索するのもやめた。
それでも最後には必ず勇利はヴィクトルのもとに帰ってくる。確信が持てるようになった頃には、ヴィクトルは勇利と自分の知らない誰かが親しげに笑い合っていても、揺らがなくなっていた。
あの頃の迷走しまくっていた自分を思い出すと恥ずかしくてたまらないが、それもいい思い出だと勇利は笑ってくれる。
「さて、と」
十分経った。ヴィクトルは皿にラップをかけるとお気に入りのコートを羽織って外出の支度を整える。春先とはいえ、外はまだ冷えるのだ。
部屋を出てエレベーターで一階まで降りる。エントランスを出て目抜き通りを歩き出した丁度そのとき、コートのポケットに入れた携帯が震えた。
画面をタップするとメールが届いていた。差出人は勇利だ。ヴィクトルは先程彼にメールで『どこにいるの?』と尋ねた。それに対する返信だった。
『海を見てたら時間忘れた。帰るの遅くなってごめん』といささか素っ気ない文章が書かれている。ヴィクトルは数秒黙考し、素早くタッチパッドを操作した。『迎えに行くから勇利は動かないこと!』メールが送信されたのを確認して携帯をしまうと、ヴィクトルは軽やかに走り出した。
早く勇利のところに行って抱き締めてあげないと。なんとなくだけれどそんな気がした。


勇利はすぐに見つかった。二人で、あるいは二人と一匹でよく散歩をする海岸に膝を抱えて座っている彼を見つけて、ヴィクトルはまなじりをゆるませた。
己の体臭をかぎ取ったのか、勇利の隣で丸まっていたマッカチンがすっくと立ち上がる。一目散に駆けてきて懐に飛び込んできたマッカチンをヴィクトルはしっかりと抱き締めた。
「グッドボーイ、グッドボーイ」
仰向けに転がってアピールをしてくるマッカチンのお腹を存分に撫でてやる。愛犬とたわむれていると、罰の悪そうな顔をした勇利が静かに歩み寄ってきた。
ヴィクトルは勇利に笑いかけようとして失敗した。彼の目が赤くなっているのに気付いたヴィクトルは無意識に腕を伸ばしていた。
勇利を座らせてぎゅっと抱擁する。勇利の体はすっかり冷たくなっていた。
「……俺のかわいいこぶたちゃん。お前の涙のわけを聞かせてくれないか」
耳元でささやくと勇利がくすぐったそうに身をよじった。
「話す。話すからちょっと離れて」
言われてヴィクトルは渋々勇利から距離を取った。と同時に勇利の声音が常と変らないことに安堵する。
「さっき、砂浜でメッセージボトルを拾ったんだ」
恥かしげにまつ毛を伏せる勇利の手元には丸いフォルムのガラス瓶があった。
「で、中に入ってた手紙がこれ」
勇利のズボンのポケットから小さく折り畳まれた紙片が出てくる。
「これ読んでみて」
「今? ここで?」
「うん」
ヴィクトルは肩をすくめて手紙を受け取った。破かないよう、慎重に便せんを広げるヴィクトルを勇利は少し緊張した面持ちで見つめている。
そんな勇利の態度に疑問を覚えながらヴィクトルは手紙に目を落とした。
最初から最後まで読んでぱちぱちとまばたきをする。驚愕もあらわに勇利を一瞥すると、彼は小さく首肯した。
二度、三度。繰り返し繰り返し手紙を読んでヴィクトルはようやく顔を上げた。
「勇利、これ、こんなことってあるか? ジャッキー・チェンの映画みたいだ」
「何それ。僕知らない」
「『ゴージャス』っていう映画だよ。ラブコメディ。いや、そんなのはどうでもいい。アメイジング、アメイジングだよ、勇利。世界はなんて素晴らしいんだ!」
驚きと喜びと愛しさと。いろんな感情が渦を巻いてとめどなく溢れてくる。アメイジングを連呼しながら、両手を広げてくるくると回る。マッカチンがぴょんぴょん跳ねてヴィクトルに追従する。勇利は肩を震わせて笑っていた。
ひとしきり騒いでヴィクトルは「ふーっ」と詰めていた息を吐き出した。手に持ったままだった便せんを勇利に返す。
勇利が便せんを丸めて瓶に戻すのを待って、ヴィクトルは口を開いた。
「勇利、ひとつだけ言わせてくれないか」
勇利の肩に手を回して、内緒話を打ち明けるようにこそこそささやく。
「俺は今も昔も勇利の夢を馬鹿にしたりしないよ。他のみんなもね。きっと自分を誇らしいとすら思っただろう。俺を好きになって、追いかけてきてくれて、諦めないでいてくれて――ありがとう」
「……ドウイタシマシテ」
照れ屋な教え子はそっぽを向いていたけれど、ヴィクトルの言葉に感じ入っているのは明らかだった。その証拠に彼の両耳はほんのり赤く染まっていた。


――初めまして。どこかの国の見知らぬあなた。僕の名前は勝生勇利。日本人の十五歳です。
日本というのは極東にある小さな島国の名前です。僕はその国でフィギュアスケートというスポーツをやっています。特製の靴を履いて、氷の上を滑ったり、跳んだり、回ったりするウィンタースポーツです。
今年僕のシニアデビューが決まりました。フィギュアスケートには三つのクラスがあって、ノービス、ジュニア、シニアと分かれています。
シニアデビューをするということは国内外のトップレベルの選手たちと国の威信を背負って点数を競うということです。
ヴィクトルとようやく同じ舞台で戦える。想像しただけで、わくわくして、どきどきして、叫び出したい気分になります。夜も眠れません。
ヴィクトル、ヴィクトル・ニキフォロフというのは僕の憧れのスケーターです。ヴィクトルはかっこよくて、きらきらしていて、いつだって僕たちを感動させる滑りを見せてくれます。
ヴィクトルに戦って、勝つ。それが僕の夢です。
実はこの手紙はヴィクトルへのファンレターなんです。がっかりさせたらごめんなさい。
本当は彼がいるロシアのサンクトペテルブルクにエアメールで送るつもりでした。でもそれはやめて海に流すことにしたんです。……どうしても勇気が出なくて。
この手紙がヴィクトルのところに届いたとして、彼が読んでくれる確立はゼロに近い。だって彼は一日に何千通ものファンレターをもらっているはずだから。
でも、でも、もしこの手紙がヴィクトルの目に留まったら? 
同性からの手紙なんて気持ち悪いって思われるかもしれないし、俺に勝とうなんて生意気だって鼻で笑われるかも。
いつか実物の僕を見たときにがっかりするかもしれない。いや、ヴィクトルはそんな人じゃないと思うけど、怖いものは怖い。
それにやっぱり僕みたいな駆け出しのスケーターがヴィクトルに勝ちたいなんて口が裂けても言えない。
だから決意表明の手段としてメッセージボトルを選びました。そしたら僕の決意なんて誰にも知られずに済むかもしれないから。
自分でも馬鹿げてるって思う。でも、こうせずにはいられなかったんだ。
僕にはひとつだけ心配なことがあります。それは僕がシニアで成績を残す前にヴィクトルが引退してしまうんじゃないかってこと。
彼は僕より4つも年上でいつ引退してしまっても不思議じゃない。
だから、だからお願いします神様。僕がヴィクトルと戦えるようになるまで彼が現役でいてくれますように。一刻も早く同じ試合に出られますように。
この手紙を最後まで読んでくれてありがとう。あなたがこれをきっかけにフィギュアスケートに興味を持ってくれたら嬉しいです。ヴィクトルや他の選手や僕のファンになってくれたらもっと嬉しいです。
気が向いたら日本にも遊びに来てください。日本には美味しい食べ物がたくさんあります。生卵を食べてもお腹を壊したりしないので安心してください。
勝生勇利。
inserted by FC2 system