青い春に果てはなし

つやつやと黒光りする革靴を履いてヴィクトルが立ち上がる。
振り返ったヴィクトルから靴べらを受け取った優ちゃんは早くも涙ぐんでいた。
「それじゃあ、」
お気に入りのトレンチコートを羽織って、頭にサングラスを乗せたヴィクトルが名残惜しげに目を細める。
「ナガイアイダ、オセワニナリマシタ」
僕と一緒に何度も練習した台詞を口にして、深くお辞儀をする。その拍子にサングラスがずり落ちてきて、ヴィクトルの鼻に当たった。顔をしかめる彼を真利姉ちゃんがぷっと笑う。
頭を上げたヴィクトルはほんのり耳を赤くしながら、腰を屈めて上がり口でお座りをしているマッカチンと目線を合わせた。
「先にロシアに帰って待ってるからね。みんなの言うこと、ちゃんと聞くんだよ」
マッカチンが優等生よろしく「ワン!」と鳴く。愛犬の頭をひとしきり撫でてヴィクトルは立ち上がった。そのタイミングでお母さんがみんなの代表として進み出る。
「ヒロコ、トシヤ、マリ、アリガトー! トッテモタノシカッタ、デス!」
ヴィクトルが背を丸めてお母さんを抱き締める。
「ヴィッチャン元気でねえ。また遊びに来んね」
ヴィクトルがにっこり笑う。あ、と思ったときには手遅れで彼はお母さんのほっぺたにしっかり唇をくっつけていた。「げえ!」と真利姉ちゃんが鼻にしわを寄せ、「あらまあまあ」とお母さんが顔を赤くする。僕はとっさにお父さんの顔を盗み見て後悔した。顔は笑っているけれど眼鏡の奥の目がちっとも笑っていない……怖い……。僕はそっと腕をさすった。
「ヴィクトル、おにぎり作ったからお腹すいたら食べてね」
お母さんとのハグを終えたヴィクトルにユウちゃんがビニール袋を持たせる。おにぎりと聞いてヴィクトルはぱっと顔を輝かせた。
「ナカミ、ハ、ナンデスカ!?」
「ふふ、それは内緒。食べてからのお楽しみ」
ユウちゃんが茶目っ気たっぷりに片目をつむる。俺そういうの大好きだよー! 英語ではしゃぐヴィクトルをみんなが微笑ましそうに眺めていた。
本当はいつまでもここでこうしていたいけれど、そうもいかない。隣に立つヴィクトルの腕を引いて注意をこちらに向けさせる。
「ヴィクトル、そろそろ行こう。時間なくなるよ」
「……オーケー、勇利」
ヴィクトルがうなずくまでちょっとだけ間があった。それだけでいつもより一際明るく振るまう彼の本心を察してしまう。
「またねヴィクトル!」
「ユーロ頑張れ!」
「ワールドも!」
これから過酷な競技生活に復帰するヴィクトルにスケオタ三姉妹が口々にエールを送る。ヴィクトルは彼女たちの言葉を右から左へ聞き流したりせず、「ありがとう」「金メダル獲るよ」「楽しみにしててね」と真心のこもった言葉を返してあげていた。
「ミナサンサヨウナラ! ゲンキデ!」
玄関を開ける。ヴィクトルを先に通して僕も外に出た。
「あんたの部屋の荷物、送ったら連絡入れるからねー!」「オフシーズンまで勇利のことは私に任せなさい。びしばし鍛えとくから!」「じゃあな! 次来たときは三人で飲みに行こうぜ!」
真利姉ちゃんの、ミナコ先生の、西郡の声が後ろから追ってくる。ヴィクトルはトランクを引いていないほうの手を挙げて応えた。振り向かないまま彼は真っ直ぐに石畳を歩いて門の外に出た。
ヴィクトルの隣に並んでゆっくりと歩く。
僕の家から駅まではまあまあの距離があって、歩くとそれなりに時間がかかる。車で送ると言ったのだけど、ヴィクトルは首を横に振って僕の提案をやんわりしりぞけた。
町をゆっくり見て回りたいから。それがヴィクトルの望みなら、僕が反対する理由はどこにもなかった。
「ほらあそこ。あそこの無人販売所で俺がやらかしたの覚えてる?」
「覚えてる覚えてる。ヴィクトルがお金払わずに交番に連行されて僕ほんと心臓が止まるかと思った」
「無人販売のシステムがね、俺には衝撃的だったんだ」
「海外じゃスリは当たり前だもんね」
「来年もまた海で花火をやろう」
「ユリオは?」
「強制連行で」
「激怒してる姿が思い浮かぶよ……」
「お酒の配達したこともあったね」
「あのときは助かりました。お父さんもさあ、いくら友達が足の骨折ったからって安請け合いしないでほしいよね。うちの息子と息子の先生を貸しちゃるけんなんてさー」
「千羽鶴作るのは骨が折れた」
「ノルマ百個はきつかった……毎日やっても全然終わり見えないし、ヴィクトル途中から違うの折り始めるし!」
「俺、いろんなの折れるようになったよー。カエルでしょ、カメラでしょ、パックンチョにエッフェル塔にペンギン、ドレス、かき氷、万華鏡……」
思い出話は尽きなかった。たかが八ヶ月。されど八ヶ月。僕はヴィクトルと長い時間を過ごした。最後のほうは何をするのも一緒だった。慌ただしい日々の中、僕たちはたくさんの思い出を作ってきた。
きっといくら月日が流れたとしてもヴィクトルと一緒に過ごした長谷津での毎日は色褪せることがない。
駅が見えてくる。構内に入ると二人とも言葉少なになって、会話がふつりと途切れた。無言のまま改札を通り抜ける。
僕がヴィクトルから離れて窓口のほうに行くと、年老いた駅員さんは何も言わずに僕を中に通してくれた。
目礼するとその駅員さんはぴっと背筋を正して敬礼を返してくれた。ゆるりと口元に微笑を浮かべて。とても優しげな瞳をして。
エスカレーターに乗ってホームへと向かう。電光掲示板を確認するとヴィクトルが乗る電車が来るまでもう十分もなかった。
「ヴィクトル、僕、僕……」
言いたいこと、伝えたいことがたくさんあるのに胸が詰まって言葉にならない。
ヴィクトルは僕の額にかかる前髪を撫でつけてかすかに笑った。
「大丈夫。わかってる。ありがとうも、またねも、これからもよろしくも、勇利の気持ちは全部届いてるよ」
ヴィクトルは眩しいものを見るかのように目を細めて両腕を広げた。ヴィクトルの懐に潜り込むと痛いくらいの力で抱きしめられる。
ヴィクトルは僕を抱きしめたまま、ゆらゆらと腕を左右に揺らした。踊るみたいに。
ああ、駄目だ、畜生。絶対泣かないって決めてたのに視界がぼやけてしまう。
ヴィクトルは長いハグを終えると、最後に僕の背中をぽんぽんと叩いた。ぐすぐす鼻水をすする僕を見て、ヴィクトルがちょっと困ったような顔をする。
「ああ、もう……。参ったなあ。俺まで泣いちゃいそうだ」
実際、ヴィクトルの青い瞳はうるうるしていて、本物の湖のようだった。今にも崩壊寸前という感じで、鼻の頭が赤くなっている。
ホームにアナウンスが流れた。もうすぐ電車が到着してしまう。
「俺をコーチにしてくれて、あの家に快く受け入れてくれたこと、本当に嬉しかった。ありがとう、勇利。これまでで最高のバケーションだった」
「僕も、ありがとう。ヴィクトルが僕のためにしてくれたこと、ずっと覚えてる。絶対、忘れない」
電車がホームに入ってくる。強風が吹いて、金属のこすれる音がした。ドアが開いて、お客さんが降りてくる。
「それじゃあ……準備万端整えてロシアで待ってる」
「うん……」
ヴィクトルがトランクの取っ手を握り直し、電車に乗り込む。行ってしまう。いなくなってしまう。長谷津から。この町から。あの家から。僕のそばから。
僕は必死に涙をこらえながら彼の姿を見つめた。
本当にこのままヴィクトルと別れていいのかな? 春までもう会えないのに……。
ふと僕は焦りを感じた。ぐずぐずしていたら電車は行ってしまう。
何か言わなきゃ。何か……。
気付けば僕は一歩踏み出してヴィクトルの唇に自分の唇を押し付けていた。
「ナショナルで金メダル獲るから!」
驚愕に目を見開いているヴィクトルに向かって僕は叫ぶ。
「だから楽しみに待ってて!」
「勇、」
ヴィクトルが何かを言いかける。けれど無情にもドアは閉まってしまった。少女漫画みたいだ。電車がゆっくりと動き出す。ヴィクトルが何か叫んでいるけれど走行音にかき消されて何も聞こえない。
やがて電車は遠ざかって見えなくなった。僕が晴れ晴れした気持ちで涙をぬぐっていると、ポケットに入っている携帯が震えた。ヴィクトルからメッセージが届いていた。
<ロシアに来たら百倍にして返してあげる>
文章はやわらかいけれど、彼が怒っているというか高揚しているのがびしばし伝わってきて、僕は声をあげて笑った。
「滑りに行こうかな」
今日は練習しないつもりだったけれど、体がうずうずして居ても立ってもいられない。今なら空だって飛べそうだ。
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