いつか羽ばたくハミングバード

「……ねえ、……ない?」
「でも……めい……くじゃ……」
「まだ……べてるし……あとで男子から……」
教室の後ろのほうに固まっている女子たちがこちらを見ながらひそひそささやき合っている。勇利はなるべく気にしないよう努めながら、ブロッコリーを口の中に放り込んだ。
今は昼休みの時間だ。放送委員が担当している校内放送――ただCDで音楽を流しているだけ――が終わって、教室の騒がしさは少しだけ収まっていた。
元気がありあまっている男子たちはさっさと昼食を済ませて教室を飛び出していく。校内放送が終わった今、教室でのんびりしているのは外で遊ぶつもりなど更々ない人間ばかりだ。
「お前さ、この前、星井さん振ったってほんと?」
勇利のことを話しているらしい女子のグループに目をやりながら加藤が言った。中学に入学して、勇利が最初に言葉を交わしたのが加藤だ。教室の席は出席番号順になっていて、出席番号はアイウエオ順で決められていた。
入学式の前に教室で加藤と挨拶をして、なんとなく馬が合い、勇利は加藤と行動を共にするようになった。
勇利は加藤の質問にどう答えるか迷った。
「うん……まあ……」
勇利が身構えながら煮え切らない返事をすると、加藤は「ふーん」とうなずきながら弁当箱を片付けて机に突っ伏した。勇利はぱちぱちとまばたきをする。
「え、それだけ?」
もっと根掘り葉掘り聞かれると思っていた勇利が声をあげると、加藤がゆうらりと頭を持ち上げた。眠たげな目が勇利を見上げてくる。
「マジかどうか知りたかっただけだし」
「あ、そうなんだ」
「ほっとした顔やめれ」
「いや……恨み言とか言われるのかなって」
「ねーべ。勝生がレンアイごっこに興味ないのわかってんし。というわけでおれは寝る」
加藤の頭が徐々に下がっていく。何がというわけなのか。勇利は苦笑をこぼして「おやすみー」と声をかけた。
黙々と弁当を食べ続けていると「あの、勝生くんっ」と少し上ずった声が勇利の名前を呼んだ。
声の主を探して視線を滑らせる。勇利の机の脇に一人の女子が立っていた。さっきこちらを見ながらひそひそ話していたグループの中の一人だ。そのグループはどちらかというと目立たない女子の集まりでできていて、勇利とはほとんど接点がない。
「僕に用事? えっと、中村さん、だよね」
もしかしたら初めて話すかもしれない。勇利が確認すると中村さんは淡く頬を染めてうなずいた。
「あの、あのね、迷惑かなって思ったんだけど、もしかしたら勝生くん知らないかもと思って。これ」
中村さんがおずおずと差し出してきたのは二つ折りの携帯だった。学校に携帯を持ち込むのは校則違反だ。けれどそんな校則を真面目に守っている生徒はほとんどいなかった。
勇利は首を傾げながら画面をのぞき込み、はっと息を呑んだ。開かれた携帯の画面には髪を切ってこれまでのイメージを一新したヴィクトルの写真が写っていた。
(ヴィクトル……かっこいい……見たことない写真だ……)
写真の中のヴィクトルはダークグレーのスーツを着て、手首に巻いている腕時計に唇を寄せて微笑んでいる。
勇利がぽーっと見蕩れている間、中村さんは一生懸命説明してくれた。
――この広告ね、バシュロンコンスタンタンっていうブランドがSNSにのっけてるやつでね、日本でも見られるんだって! 来週から二週間、博多駅の中の吹き抜けゾーンに張り出されるらしいの。勝生くん、ヴィクトル好きなんだよね? だから……。
中村さんの説明を聞きながら勇利はSNSをやっていないのを激しく後悔した。SNSは最近流行り始めたネットのサービスで、危ないから勇利はまだやってはいけないと両親から止められていた。
何が危ないのかよくわからなかったが、やりたいと思える理由もなかったので勇利は大人しく両親の言いつけに従っていた。けれどヴィクトル情報を入手し損ねるなら話は別だ。
(今日帰ったら始めよう)
両親にはばれないようにこっそりと。名前を変えて、誰ともやり取りしなければ大丈夫なはずだ。
「教えてくれてありがとう、中村さん」
「ううん! どういたしまして!」
勇利がお礼を言うと中村さんはぱっと顔を輝かせてグループの輪の中に戻っていった。
(来週から二週間……どうしよう……)
ヴィクトルの巨大広告。絶対に現物をこの目で拝みたい。できれば写真だって撮りたい。
(でも……)
長谷津から博多までは果てしない距離があるように思える。勇利はほとんど一人で遠出をしたことがなかった。遠征するときなどは必ず大人が一緒だ。高校生になるまで単独行動は禁じられている。
(それに、練習だってあるし……)
お金はお小遣いがあるから大丈夫だ。けれど時間がとても足りない。
(広告を見るためだけに博多に連れていって、なんて言えるわけなか)
お父さんもお母さんも真利姉ちゃんもみんな忙しいのだ。ミナコ先生だってバレエ教室がある。
行くなら一人で行くしかない。
練習を休まないためには、学校を休むしかない。
キーンコーンカーンコーンと昼休み終了のチャイムを聞きながら、勇利は一人静かに決意を固めていた。


その日はいつもと変わらない朝だった。ただ勇利の心のありさまだけがいつもとは違っていた。
勇利は素知らぬ振りをしていつものルーティンをこなした。
洗面所で顔を洗い、居間に向かう。一人で朝食をとり、部屋に戻って寝間着から制服に着替える。姿見に映った自分の姿を見て、勇利はよしとうなずいた。
いつも通学に使っているリュックを持ち上げる。今日は教科書ではなく私服が入っているからうんと軽い。昨日はみんながしているように教科書を学校に置いてきてしまった。
リュックの中身を点検して勇利は満足した。財布も携帯も変装用の帽子もきちんと揃っている。
ここまでは順調だ。肝心なのはこの先である。
携帯を開いて勇利は震える指でボタンを押した。何回かのコール音のあと、聞き慣れた担任の声が聞こえてきた。
「おはようございます、堀内先生。あの、ぼく、勝生です」
「あら、おはよう、勝生くん。朝早くにどうしたの?」
堀内先生のおっとりした声に罪悪感が刺激されて胸がちくりと痛んだ。
堀内先生はいつもにこにこしていて、優しくて、みんなの人気者だ。そんな人にぼくは嘘をつこうとしている……。
一瞬やめてしまおうかという思いが頭をよぎった。けれど勇利はかぶりを振ってその考えを追い払った。
全てはヴィクトルのため。ヴィクトルの広告を生で見られる機会なんて一生やってこないかもしれないのだ。
いつか勇利は本物のヴィクトルに会って、自分がどんなに彼に憧れているか伝えるつもりだけれど、それとこれとは話が別だ。
勇利は勇気をかき集めて言った。
「ぼく、あの、昨日スケートの練習中に転んで足をくじいたんです。それで、念のために大きな病院で診てもらうことになって……。堀内先生には電話しておくってお母さん言ってたんですけど、うちのお母さん、おっちょこちょいだから心配になって……もう連絡ありましたか?」
「そうだったの。先生、今日勝生くんがお休みだって今知ったわ。連絡してくれてありがとう。わかりました。足、なんともないといいわね。お母さんには代わらなくて大丈夫かしら?」
「あ、はい。僕のほうから伝えておきます」
「勝生くん、しっかりしてるのねえ。先生感心しちゃった。それじゃあ、また明日、学校でね」
「はい、失礼します」
堀内先生との電話を終えて勇利はふーっと詰めていた息を吐き出した。
(試合前より緊張したかも……)
心臓がばくばくしている。
(とにかくこれで準備は完了だ)
勇利はリュックを背負って部屋を出た。抜き足差し足忍び足で廊下を渡り、階段を下りていく。
この時間、こちらの建物に人はいないため、気配を殺す必要などないのだけれど、どうしても振る舞いが慎重になってしまう。
玄関で靴を履き、小さく「行ってきます」と告げる。表に人がいないのを確かめて勇利は一気に走り出した。
ゆ~とぴあかつきの敷地外に出て一番近くの公衆便所まで全速力で駆ける。個室に飛び込んで勇利はずるずると座り込んだ。
「はあ、はあ、はあっ」
ドアに背中を預けて呼吸が整えるのを待つ。心臓がドンドコドンドコ太鼓のような音を奏でていて、今にも破裂しそうだった。
「は~~~~っ、着替えよ」
勇利は立ち上がってズボンの汚れを払った。制服を脱いで便器の上に置く。
リュックからトレーナーとジーパンと帽子を取り出して身に着け、代わりに制服を畳んでしまう。
リュックを背負い直して勇利はそうっと個室から抜け出した。きょろきょろと辺りを見回す。公衆便所の周囲に人影はない。
勇利は帽子を目深にかぶって歩き出した。駅へ向かう道すがら、何人か顔見知りと出くわしたけれど誰も勇利の正体には気付かなかった。
駅に着く。券売機で切符を買い求め、改札を抜ける。ドアが開いていろんな格好をした人が降りてくる。勇利はほんの一瞬だけ、電車に乗るのをためらった。
――男は度胸だよ、勇利!
怖気づいて動けなくなった勇利の頭の中で真利姉ちゃんの声がひらめいた。勇利が西郡にこてんぱんに負かされて泣いて帰るたび、真利姉ちゃんは笑いながら勇利をなぐさめてくれた。
(男は度胸、男は度胸、男は度胸)
勇利はえいや! とコンクリートを蹴った。体が宙に浮いて、電車の中に吸い込まれる。ドアが閉まるのと勇利が着地するのはほぼ同時だった。
電車がゆっくりと走り出す。空いている席を見つけて勇利は腰を下ろした。
流れ行く景色を見つめながら、ヴィクトルのことを勇利は考えた。
(ヴィクトルに、会えるんだ……ぼく、本当に行っちゃうんだ……)
本物のヴィクトルは目的地にはいないけれど、日本のありとあらゆる街頭を彼が席巻するなんて勇利が記憶している限り初めてのことだ。
これがどんなに素晴らしいことか、きっと勇利にしかわからない。
(早くシニアに上がりたいなあ)
今はまだ広告のヴィクトルに会いに行くので精一杯の自分だけれど、いつかは彼と一緒に滑りたい。一緒に滑って、愛犬の話をしたりして、友達になるのだ。とびきり仲のいい友達に。そして、そして……。
勇利はふああとあくびをこぼした。まぶたが重い。かくんと頭が落ちる。
心地よいまどろみの中で勇利はヴィクトルの夢を見た。自分とヴィクトルがまばゆいフラッシュの中、表彰台で握手を交わしている夢だ。自分は金メダルを、ヴィクトルは銀メダルを首から提げている。ヴィクトルが悔しさをにじませながらも清々しい笑顔で言う。勇利、君は俺の最高のライバルだ――……。
「お客さん、終点ですよ、お客さん」
控えめに肩を揺さぶられて勇利は目を覚ました。心配そうに勇利の顔をのぞき込んでいるのは真利姉ちゃんと同じくらいかもう少し年上に見える男の車掌さんだった。
「ご、ごめんなさい!」
勇利は慌てて電車の外にまろび出た。いつの間に眠ってしまったのだろう。それよりもここはどこなのか。そっちのほうが大事だ。
視線を四方八方に飛ばし、博多駅の文字を発見した勇利は大きく安堵した。自分は一人でちゃんと目的地に辿り着けたのだ。
(えっと、博多口、博多口……)
博多駅はとてつもなく広く、人も多かったが案内表示を頼りに歩いていき、勇利はなんとか改札を見つけることができた。そして――。
(ヴィクトル、だ)
勇利はヴィクトルの広告を発見した。天井から大きく垂れ下がっている垂れ幕にでかでかとヴィクトルの写真が使われている。
腕時計の文字盤に口付けをしながら、流し目をくれている。前髪を全て後ろに流し、謎めいた微笑を浮かべているヴィクトルは男の色気全開だった。
かっちりしたスーツに全身を包んでいても、胸筋の盛り上がりから彼が鍛え抜かれた体の持ち主であるとわかる。大理石のような滑らかな肌にはくすみひとつなく、プラチナブロンドがきらきらと光彩を放っている。まさに生けるダイアモンドだ。
「ねーあの広告の人めっちゃイケメンじゃない!? やばい!」「海外のモデルかな。俳優? 初めて見た」「いくらなんでもあれは加工のしすぎだなあ」「あの人どっかで見たことあるんだけど……」
広告を見てきゃあきゃあ騒いでいる女性たちに勇利は口の中で違うよとつぶやいた。
彼はモデルでも俳優でもシンガーでもない。フィギュアスケーターだ。勇利が世界で一番大好きで、心の底から尊敬している相手だ。
なんて美しくてきれいなんだろう。
つつ、と一筋の涙が頬を伝う。
ヴィクトルが美しいのは彼が強い人だからだ。内側からにじむ自信が彼をあんなふうに輝かせているのだ。
(ヴィクトルみたいになりたい)
どんなときも揺らがずに立っていられる強さと。
何があっても泰然としていられる勇気が欲しい。
勇利はずっとその場から動かなかった。心ゆくまで携帯で写真を撮ったあとは、カフェに移動して飽きることなくヴィクトルの広告を見上げていた。
気付けばずいぶん時間が経っていて、すぐに帰らないとスケートの練習に遅れてしまいそうだった。
勇利は後ろ髪を引かれる思いで帰りの電車に乗った。電車の中で携帯で撮った写真を眺め、写真でこうなのだから実物はもっときらきらしいに違いないと思いを馳せた。
長谷津に帰り着いてからもずっと夢見心地だった勇利は、練習にまったく集中できずコーチに叱られ、昼間どこで何をしていたのか洗いざらい喋らされた。
結果的に勇利が学校をさぼったことが両親にも伝わり、勇利は利也とコーチの両方から厳しく説教される羽目になった。
普段は滅多に暴力を振るったり、声を荒げたりしない利也が勇利に手を上げたのは後にも先にもこのときだけだ。
学校をさぼるのはまだいい。けれど日の丸を背負って立とうという人間が怪我を口実にするのは最低の行いである。二度とそんなくだらない嘘はつくなというのが利也の言い分だった。
勇利が堀内先生に捻挫と言ったのは、急に熱を出して寝込むというよりも説得力があるだろうというただそれだけの理由だった。
利也に指摘されて初めて自分の浅はかさに気付き、勇利は恥ずかしくてたまらなくなった。
ぶたれた頬を押さえて勇利が玄関でうなだれていると、ちょんちょんと肩を小突かれた。振り向くと背後に真利が立っていた。
「帰ってきたらさあ、なんかお父さんの怒ってる声聞こえんじゃん? お説教終わるの待ってたんだけど、」
勇利の顔を両手で挟んで真利はにい、と笑ってみせた。
「あんた学校さぼってヴィクトルの広告見に行ったって? やるじゃん。超クレイジー」
たった一言。されど一言。真利姉ちゃんに褒められ、落ち込んでいた勇利は少しだけ元気を取り戻した。
「で、どうだったの? ヴィクトル」
「すっっっごくかっこよかった! ばりやばかあ!」
その日、勇利は真利の部屋に入り浸って延々とヴィクトルの話をし続けた。真利は携帯をいじったり、ネイルをしたり、雑誌を読んだりしながらもちゃんと相槌を返してくれた。勇利は真利のそういうわかりにくい優しさがとても好きだった。


勇利が買い出しから帰宅するとリビングでヴィクトルが土下座していた。勇利は驚いて動きを止めた。
マッカチンが遊んでとばかりにヴィクトルの頭を前足で小突いているが、彼は微動だにしない。
「……何やってるの? ヴィクトル」
無視をしようかどうしようか迷ったが、放置をするとあとあと面倒になりそうな予感がしたため、勇利は仕方なく声をかけた。するとヴィクトルがそろそろと上半身を起こした。笑顔を浮かべているが頬がひくひく痙攣している。
「ごめん、勇利」
「何に対しての謝罪? 三流雑誌にスキャンダルが載るとか?」
「いい加減アリシアの件は忘れてくれないか。完全なデマだったわけだし。実はね、その……エージェントから俺たちあてに仕事のオファーがあって」
「受けたんだ。勝手に。僕に相談なしに」
「うっ。俺は勇利のキャリアになると思って……」
段々とヴィクトルの声が小さくなっていく。無言のままヴィクトルをねめつけていた勇利は、彼が泣きそうになったところでまなじりをゆるめた。
「とりあえず、食材先にしまっちゃっていい?」
「もちろん」
勇利がさほど怒っていないのを察したのか、ヴィクトルがほっと肩の力を抜く。勇利が買ってきた野菜や卵を冷蔵庫にしまい終えると、ソファに移動したヴィクトルがぽんぽんと隣を叩いた。勇利が大人しく隣に座ると、ヴィクトルがぴったり肩をくっつけてくる。おまけに腰に腕まで回してきた。
「それで? どんな仕事なの?」
「広告モデルだよ。世界的に有名な腕時計ブランドの。ヴァシュロンコンスタンタンっていってね、勇利は知らないだろうけど」
勇利は「あ」と小さく声をあげたが、ヴィクトルは気付かなかったらしい。
「日本に新しい店舗を出すんだって。それに合わせて大々的に広告を打ち出すとかで俺と勇利にお声がかかったんだよ。即決しないなら他の人間を起用するって向こうが言ってきたらしくて、本当は勇利と相談してから決めたかったんだけ、ど……勇利!? そんな泣くほど嫌だったのか!?」
ごめん! 勇利が乗り気じゃないならやっぱりやめよう! 立ち上がって断りの電話を入れようとするヴィクトルに勇利はぶんぶんと首を横に振った。鼻の奥が熱い。勝手に視界がぼやけてしまう。けれど広告の仕事が嫌でこうなっているわけではない。
「僕、知ってる」
「え?」
「ヴァシュロンコンスタンタン、知ってる。十二年前、ヴィクトルがモデルに起用されて、それからずっと広告塔やってる。日本でのヴィクトルの知名度が上がったのもそのときだよ」
十二年前、勇利は十二歳だった。王冠をひとつも持たないただの中学一年生だった。
「携帯で撮ったヴィクトルの広告の写真を見ながら、もっと早く生まれてたらなって思ってた。僕がロシア人だったらよかったのにって。ヴィクトルに早く会いたくてたまらなかった。僕がシニアに上がるまで引退しないでって毎晩星に祈ってたよ」
目尻に浮かんだ涙をぬぐって勇利はかすかに微笑んだ。
「こんな日が来るなんて、あの頃は思ってもみなかった。僕、やるよ。やりたい。だから断ったりしないで……」
ぷりーず。勇利がささやくとヴィクトルは静かにソファに腰を下ろした。両肩に手を置かれる。ヴィクトルの瞳を見て、ぞくぞくと背筋が震えるのを感じた。
飢えた獣の貌をしている男が愛しくってたまらない。
「聞かせて。俺の知らない勇利の話。たくさん」
ちゅ、ちゅとキスの雨が降り注ぐ。額に、まぶたに、鼻に、唇に。くすぐったさに身をよじると逃げるなとばかりに押し倒された。
「うん、いっぱい、いっぱいお喋りしよう……ヴィクトル」
どうか聞いてほしい。たくさん泣いて、悩んで、苦しんで、それでも諦められなくて。みっともなくもがいて。溺れそうになりながらたったひとつを望んで駆けてきた日々のことを。
「ダー」
胸焼けしそうなほど甘ったるい声が鼓膜を震わせる。勇利は幸福に身をゆだねるべく目を閉じた。
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