宇宙が肺を満たしている 01

ヴィクトルは今にも歯をむき出して襲いかかってきそうなむくつけき男、ジャスを冷めた目で眺めた。
「――今回の難破事故に関して賠償金が支払われることはない。これは決定事項であり、覆ることはない。何度も伝えたはずだが?」
「納得できるか!」
ぺっと床に唾を吐き出すジャスにヴィクトルは眉間のしわを深くする。
「俺は舵取りを誤っちゃいねえ! あれは海賊の仕業だ! あるはずのないところに灯火が見えたんだ!」
「でも難破した君の船から金目の物は持ち去られていなかった。殺人も起きていない。いくつかの荷は海に流されたようだが、ほとんどが手付かずで残っていたと調書には書いてある。それは君も認めた事実だよね?」
「それはそれこれはこれだろうが!」
ジャスが吼える。だがヴィクトルは眉ひとつ動かさず、淡々と告げた。
「もう一度言うよ。これが最後通告だ。今回の、難破事故、は」
ヴィクトルは難破事故の部分をことさら強調する。
「海賊による襲撃では――」
「そうだ! ユウリなら何か知ってるかもしれねえ!」
ヴィクトルはぴたりと口をつぐんだ。脳内に詰め込んでいるありとあらゆる情報を検索するが、ユウリという名前には聞き覚えがなかった。
「ユウリ? それは誰?」
「灯台守のユウリだよ。生まれてからずっと灯台で暮らしてる。あいつは夜通し火の番をしてる。海に異変がありゃ気付くはずだ」
「ならすぐにでも報告をよこしそうなものだけどね」
ふんと鼻で笑い飛ばす。ますます激昂するかと思われたが予想に反してジャスは冷静だった。というよりも、奇妙な表情を浮かべている。まるで迷子になって途方に暮れている子供のような顔だ。
「あいつは……よっぽどのことがない限り灯台からは出てこねえ。この町の人間なら誰でも知ってらあ」
「そうなんだ。俺。噂話には興味がなくて」
「とにかくあんただっておかしいとは思ってるはずだ。ペルーもギランも腕は確かだぜ。この界隈で難破事故なんざ起こすもんか。堅物のあんたにゃわからんだろうがな」
最後は吐き捨てるように言ってジャスは足音荒く執務室を出ていった。と、タイミングを見計らったように次の来客を知らせるノックが鳴った。
「どうぞ」
扉が静かに開き、部下のクリスが顔をのぞかせた。ヴィクトルの階級は大将、クリスは中将である。どちらも提督と呼ばれる身分ではあるが、このヴァノヴァ砦においてヴィクトルの次に偉いのがクリスだった。
「今日は千客万来だなあ」
ヴィクトルが皮肉をぶつけるとクリスは肩をすくめて苦笑した。
「お疲れのようだねヴィクトル。君の殺気に新米たちが怯えてるよ?」
「ごめん。今はお喋りを楽しむ気分じゃないんだ」
ヴィクトルが眼差しを険しくするだけで大抵の者は震え上がり、言葉を失くしてしまうのだがクリスは「おおこわ」と腕をさすってふざけてみせるだけの度胸があった。二十五という若さで中将の地位まで上り詰めただけのことはある。それも家名などによらず実力だけで、だ。
ヴィクトルは今年で二十七になる。ヴィクトルは名門ニキフォロフ家の跡取り息子であり、今の地位と家名が関係していないとは決していえないが、その手腕と能力は折り紙つきだ。
ヴァノヴァ砦に着任して半年。最初はヴィクトルに不満を唱え、ことあるごとに反発していた配下の者たちも最近はすっかり大人しくなった。
「俺は仕事をしにきただけだよ。お喋りしたいのも本当だけどね。それで収穫は?」
「ない。前の二人と内容は同じだ」
「’あるはずのないところに火が見えた’?」
ヴィクトルは無言で首肯した。クリスがふうんと腕を組む。
「俺にはただの事故としか思えない。けど……」
「一月の間に三件の難破事故。確かに数が多すぎる。しかも舵を取っていたのは何れもこの辺りの海流を知り尽くしている船乗りたちばかり」
「不自然だ。でも誰かが何かを企んでいるとして目的はなんだ?」
「さあね。さっきの男が言ってたユウリ、だっけ? そいつなら何か知ってるんじゃないの?」
ヴィクトルは思わず苦笑をこぼした。
「クリース。盗聴は犯罪だよ」
「これも仕事の内ってことで」
腹の底が読めない笑みを浮かべてクリスは飄々とうそぶくのだった。


この世界で最も広大なウカニア大陸には大小併せいくつもの国々があり、アトゥーリア王国はその中のひとつだった。アトゥーリア王国はウカニア大陸の東に位置しており、海に面するかの国は貿易と商業で栄えた国だった。元々は大陸からの移民が集まってできた国であり、今では海洋国家としてその名を大陸中に知らしめている。
アトゥーリア王国はいくつもの港を擁しているが、貿易の要となっているのは最南端に位置するヴァノヴァ港である。アトゥール海を挟んで向かいにあるトラン大陸では珍しい香辛料や絹織物が安く手に入る。
アトゥーリア大陸のヴァノヴァ港とトラン大陸のフィノイ港。この二つの港を結ぶ航路こそ最も近く最も安全であり、双方に大きな利益をもたらすのだった。
となれば当然、甘い汁をたらふくすすろうという連中も現れる。海賊だ。海賊はこの辺りの海域に頻繁に出没し、殺戮を行い、積み荷を、時には女子供をさらって売り飛ばす。
海賊の被害から罪なき民草を守るため、港には砦が築かれ、海軍が常駐し、昼も夜も問わず監視の目を光らせている。
ヴァノヴァ砦の責任者がヴィクトルに変わってからというもの、その功績は目覚ましかった。彼は常に海賊の行動を先読みし、罠を張り、次々に賞金首を捕縛していった。酒屋で賞金稼ぎたちに絡まれたことも一度や二度ではない。
最近ではこの海域を避けているのか、海賊の襲撃はすっかり鳴りを潜めていた。
しかし――一月ほど前からヴァノヴァ港では不審な難破事故が相次いでいた。
嵐でもなんでもない穏やかな気候の夜に岩礁に衝突し、船がお役ご免になるという事案が三件立て続けに起きたのだ。船を操っていたのはこの辺りでは少しばかり名の知れた船乗りばかりで、その内の一人がジャスだった。
彼らにしてみればたとえ夜であろうとなんだろうと凪の海の航海など、ゆりかごに揺られているようなもののはずだ。
海流も潮の満ち引きの具合も長年の経験によって体得している彼らが船の操縦を誤るというのは考えにくい。彼らは一様に’あるはずのないところに灯火が見えた’‘海賊の仕業に違いない’と唱えているが確たる証拠はない。
船を難破させて積み荷を奪っていくのは奴らの常套手段だが、今のところ海賊の影も形も見えていない。
海賊の襲撃が遭った場合、国からは被害に見合うだけの賠償金が支払われる。だからこそジャスはあんなにも執拗にヴィクトルに食い下がってきたのである。彼らは船乗りだ。新しい船がなければ商売ができない。だからこそこんなにも話がこじれている。
「厄介な話だ」
ヴィクトルは小さくつぶやいて足を止めた。目の前には漆喰で白く塗られた長方形の扉がある。
ヴィクトルはユウリという人物に会うため、ヴァノヴァ港の岬に建つ灯台を訪れていた。
長い螺旋階段を上らされ、ヴィクトルはいささかうんざりしていた。息切れをしていないのはさすが軍人といったところだろう。常人であれば今頃は足をがくがく震わせ座り込んでいたに違いない。
ヴィクトルは息を殺して部屋の中の様子をうかがった。物音はしない。本当にここに人が住んでいるのだろうか。毎晩この灯台から見える炎が近海を照らしているのは知っていたが、誰が炎の番をしているかなど気にかけたこともなかった。
一応の礼儀としてかぶっていた軍帽を取る。ヴィクトルは控えめに扉をノックした。すると「はーい」とすぐさま返事があった。まだ若い青年の声だ。高すぎず、低すぎない、やわらかな声だった。
「デリックさん? まだ配達の時間じゃない……」
扉を開けて出てきた青年はヴィクトルの顔を目にし、ぽかんと口を開けた。ヴィクトルもわずかに目を瞠る。
黒い。それが青年の第一印象だった。
まだ十七、八くらいだろうか。青年はこの国では見かけない髪と瞳の色をしていた。髪は夜の色、瞳は鳶色で、野暮ったい縁メガネをかけている。麻のシャツとズボンという簡素な出で立ちで、肌は黄味を帯びており異国の血が入っているのが一目でわかった。
「えっと、あなたは?」
青年はアトゥーリア王国の公用語を話しているが、少しばかり訛っている。
「灯台守のユウリって君?」
ヴィクトルの問いかけに青年、ユウリは不安そうにうなずいた。
「俺はヴィクトル・ニキフォロフ。階級は大将。ヴァドヴァ砦を守護する任を与えられている。君にはいくつか確認したいことがあってね」
「えっと、えっと、あの、」
ユウリは目を白黒させながらも扉の脇に寄り、ヴィクトルが通れる道を作った。
「……とにかく、中にどうぞ」
「………ああ」
ほんの少しためらったあと、ヴィクトルは青年の部屋に足を踏み入れた。
部屋の中にはベッドがひとつ、丸テーブルがひとつ、椅子が二脚、台所と小さなチェストと鏡台があるだけだった。窓にはレースのカーテンがかかり、時折吹き込む潮風が裾をやわらかく揺らめかせている。
(質素だな)
生活感があまり感じられない。狭い部屋なはずなのに物が少ないせいか、がらんとしているように見えて物寂しさを増長させていた。
ユウリはテーブルを布で拭き、部屋の隅に落ちていた服をかき集めてチェストに詰め込みと慌ただしい。
「うわあ」
「っ!?」
つるんと足を滑らせてこちらに突っ込んできたユウリの体をヴィクトルは反射的に抱き留める。さすがに体重を支えきれず、ヴィクトルは一歩二歩よろめきドスンと尻もちをついてしまった。
「少しは落ち着いて」
呆れて言うとユウリはほんのり耳を赤くしてうつむく。
「すみません……ありがとうございます。お客様が来るのって初めてで……えっと今お茶を淹れますから座ってください」
「…………」
ユウリはさっと立ち上がるとキッチンに向かった。お茶というのは飲める代物なんだろうね。そう言いたくてたまらなかったがなんとかこらえ、ヴィクトルも立ち上がる。ズボンの埃をさっと払い、ヴィクトルは注意深く椅子に腰かけた。
やがて目の前に紅茶の入った液体が差し出された。ヴィクトルはほっと胸を撫で下ろす。色と匂いからしてまともそうだ。
「…………」
「どうですか? お口に合いますか?」
苦い。渋い。まずい。ヴィクトルは静かにカップを受け皿に置いた。ユウリはにこにこ笑いながらヴィクトルの感想を待っている。
ヴィクトルは顔面の筋肉を総動員させ、口角を持ち上げた。頬がぴくぴくと痙攣するが、この際致し方ない。
「よかった!」
ヴィクトルの微笑を都合よく勘違いしてくれたらしく、ユウリが喜んではしゃいだ声をあげる。もういい。こんな茶番は耐えがたい。さっさと用件を終わらせてしまおう。
「君、最近この界隈で起きた難破事故を知ってる?」
「あ、はい。そのことなら町のみんなが噂してますから……」
「その件について何か知っていることはないかな」
「……ヴィクトルさんは事故のことを調べているんですか?」
「それが俺の仕事だからね。それとさん付けと敬語はいらない。俺のことはヴィクトルと呼んで」
今まで幾度となく女性たちの心をわしづかみにしてきたきらきらしい笑みを惜しげもなく振りまく。とユウリの頬が朱に染まった。ほんの少しだけ彼の警戒がゆるまる。
「はい、うん、わかった。ヴィクトル、でいい? 発音大丈夫?」
「ばっちり」
ヴィクトルが太鼓判を押すとユウリは嬉しそうに微笑んだ。つられて笑み崩れそうになり、ヴィクトルは慌てて表情を引き締める。
危うくユウリがまとっているほんわかした雰囲気に流されてしまうところだった。
「それで何か思い当たることは?」
「うーん」
ユウリの目がふっと遠くなる。自身の記憶を探っているのだ。ユウリはしばらく黙り込んでいたが、やがて「あっ!」と声を出した。
「……僕も火を見た。十六日の夜に」
「十六日の夜に二件目の難破事故が起きた」
ヴィクトルは興奮を押し殺してささやいた。ユウリが目をごくりと唾を飲む。
「どの辺りで火が燃えてたのか覚えてる?」
「ちょっと待って」
ユウリは窓辺に立つとすっと腕を持ち上げ、町の西側を示した。
「あの辺り、かな」
「確かあそこには……」
「洞窟があるよ。引き潮のときにしか入れなくて、高台につながってる。あのときは子供たちが肝試しでもしているのかと思ったんだ。」
「……もしそこで実際に火が焚かれていたとして目的はなんだ? ただのいたずらか? それにしてはタチが悪い」
「罠かも」
ぽつりと漏らされたつぶやきにヴィクトルは息を呑んだ。ユウリは窓の外を見つめながら真剣に考え込んでいる。
「三回難破事故があって、三回海賊は現れなかった。軍の人たちは当然油断するよね? 夜の見回りも甘くなる。次に難破事故が起きても、また誰かがやらかしたのかって思うようになる。上手く言えないけど……」
自信がないのかユウリの声はどんどん尻すぼみになっていく。だがヴィクトルは一筋の光明を見出した気分だった。
「オオカミ少年の逆というわけだ。ありがとうユウリ。君のお陰で謎が解けた」
「……僕のこと、信じてくれるの?」
「ユウリは嘘をついてるの?」
問えばユウリはふるふると首を横に振った。
「なら疑う必要ないよね?」
「でも……僕はよそ者だから」
ユウリの唇からこぼれ落ちた一言は容赦なくヴィクトルの胸を抉った。
「君、は、」
ジャスは言っていた。ユウリはほとんど灯台から出てこないと。その理由の一端を垣間見た気がした。人は己とは異なるものを極端に嫌い、爪弾きにする生き物だ。
(でもなぜだ?)
ここはアトゥーリア王国が誇る港町、ヴァノヴァだ。この港町にはいろんな国からいろんな見た目の人間が集まってくる。ユウリの見た目は確かに珍しい。他の誰とも違う。だからといってユウリが差別されなければいけない理由がどこにあるのか、ヴィクトルにはわからなかった。
「俺、俺は、」
何か言わなければ。しかし思考は空転するばかりで何も思いつかない。天下のヴィクトル・ニキフォロフがなんというありさまか。クリスがいたなら腹を抱えて大笑いしただろう。
「俺にとってはユウリも守るべき一人だ」
「え?」
「君はこの町の住人で、俺はこの町を守るためにいる。ユウリはこの町で生きてるんだろ? なら俺は君の生活を守るよ」
この部屋の中にはベッドがひとつ、丸テーブルがひとつ、椅子が二脚、台所と小さなチェストと鏡台があるだけ。
けれど素晴らしく眺めがいい。水平線が見えて、飛び交うカモメの群れが見える。風を受けて勇ましく進んでいく帆船も。窓から吹き込む潮風も気持ちがいい。
「いつも俺たちを導いてくれて、俺たちの航海を守ってくれてありがとう、ユウリ」
「……っ」
ユウリの目からぽろりと涙がこぼれ落ちる。ユウリが流す涙は真珠のように煌めいて、宝石よりも美しかった。ユウリの涙を親指の腹でぬぐい、ヴィクトルは参ったなあと微笑む。
(こんなにきれいなものがあるなんて、知らなかったんだ)
じわじわと胸に込み上げてくる何か。淡い想い。名を付けるのは先送りにしよう。孤独に生きてきた相手に全てを求めるのは酷だろうから。
「ねえ、ユウリ。俺たちの作戦に協力してくれる?」
まずは友人になるところから始めよう。
ユウリは鼻水をすすりながら、小さく首肯した。
後日。ヴィクトルとユウリはユウリの部屋でささやかな祝勝会を開いていた。
ヴィクトルの立てた作戦が功を奏し、ヴァノヴァ港に潜伏していた海賊一味は一人残らず捕縛された。三件の難破事故が海賊の仕業であることも立証され、ジャスたちには無事に賠償金が支払われる運びになった。
「今回、ユウリには本当に世話になったよ」
「そんな……。僕はただ松明を振り回してただけだから」
ヴィクトルとユウリの読みはおおよそ当たっていた。あるはずのないところに見えた灯火というのは海賊たちが高台に用意した焚火だった。
火を焚いて商船を間違った場所に誘導し、難破させる。しかしヴァノヴァ港は海軍のお膝元だ。難破させた船で盗みを働いている内に周囲を囲まれるなんて事態に陥りかねない。そこで海賊は考えた。
商船を続けて三回難破させる。が、そのまま放置しておく。初めの内はすわ海賊の襲撃かとすっ飛んできた海軍も回数が重なるにつれ、足が鈍るに違いない。
そして海軍が隙を見せたところで商船を襲撃する。そういう筋書きだった。
確かに最初の一回目、ヴィクトルは部下を緊急出動させたが、三回目は放置を決め込んだ。だからこそ敵も次がチャンスだと思ったのだろう。だがそう上手くいかないのが世の習わしだ。
ヴィクトルは次に不審火が見えたとき、商船に見せかけた船を一隻、わざと岩礁に衝突させるという計画を立てた。船に乗り込んでいるのはもちろんヴィクトル配下の鍛え抜かれた兵士たちだ。
そしてのこのこ現れた海賊たちに攻撃を仕掛ける。乱戦になったところで外を包囲していた別部隊が突入し、勝機を決定づける。そういう作戦だった。
ヴィクトルがユウリに依頼したのは不審火が現われたら、灯台から何らかの合図を送り、それを自分たちに知らせてほしいというものだった。
ユウリはヴィクトルの指示に従って合図を送り、作戦は無事に成功に終わったというわけだ。
「本当なら俺の行き着けの店を紹介したかったんだけど」
「すっごく高いところなんでしょ? だめだめ! 僕お金持ってないし、服だって持ってない」
「俺が全部出すのに」
ヴィクトルが頬をふくらませるとユウリは困ったように笑った。今日はお祝いだ。しかしヴィクトルは自炊する術など持たない。というわけで夕食は全てユウリが作ってくれた。
カツ丼という食べ物は非常に美味で、ヴィクトルは三回もおかわりをしてしまった。
ヴィクトルはワインを呷りながら思う。ユウリはおそらく人前に出るのが怖いのだ。だからこの小さな部屋に閉じこもっている。ここは彼にとってゆりかごであり、繭である。ここにいる限り、ユウリにとって怖いことは何も起こらない。
(でも本当にそれでいいのか?)
こんなところにずっと独りきりで世捨て人のような暮らしを続けることがいいことだとはヴィクトルにはとても思えない。
「ねえ、ユウリ。少しでいいから、」
「あ、もう時間だ」
町に出てみないかというヴィクトルの言葉はユウリによってさえぎられた。
「仕事の時間?」
「うん。ごめんねヴィクトル。僕もう行かなきゃ。お皿とかはそのままでいいよ。あとで片付けるから。それじゃあ」
上着を羽織り、ランプを手にしてお別れを告げる猶予さえ与えてくれずユウリは部屋を出ていってしまう。一人取り残されたヴィクトルはしばらく呆けていたが、我に返ると腹立たしさが込み上げてきた。
「ユウリのやつは自分勝手すぎる!」
使い終わった食器をおっかなびっくり台所で洗うとヴィクトルは部屋の外に出た。階段を下るのではなく上り、頂上を目指す。頂上ではちょうどユウリが灯台に火をつけるところだった。ヴィクトルは少し離れたところでユウリを見守る。
ユウリが油に火をつけると、途端に周囲が温かくなった。先程まで紫色をしていた空が段々と藍色に染まっていく。幾千幾万の銀色の星が煌めき、波の音がやわらかに鼓膜を震わせる。
反射鏡の位置を調整して満足げにうなずくユウリにヴィクトルはそっと声をかけた。
「ユウリ」
「うわ!? ヴィクトル? まだいたんだ。仕事は?」
「今日は非番だよ。それよりまだいたってひどいなあ。俺がいないほうがよかった?」
「違うけど、でももう帰ったんだと思って……」
「帰らないよ」
「はい?」
「今日は帰らない。ユウリと一晩ここで過ごすんだから」
「つまんないと思うけど」
「楽しいよ」
ヴィクトルは両手を広げてユウリを抱き締めた。ユウリが悲鳴をあげて逃げようとするが、無駄な抵抗というものである。ヴィクトルはユウリの顔を至近距離からのぞき込んだ。
「楽しいよ。楽しいからユウリと一緒にいたいんだ。どうしてわかってくれない?」
「だって……変だよやっぱり。僕がヴィクトルみたいな立派な人と一緒にいるなんて」
ヴィクトルはむっとする。けれどほとんど世間を知らないユウリがヴィクトルのような人間を前にして気後れするのも、劣等感を抱くのも理解できなくはないのだ。だから今は我慢するしかない。
「じゃあひとつだけ聞かせて。ユウリは俺といて楽しい?」
「楽しい!」
即答である。しかも大輪の花のような笑顔つきだ。今はこれで満足するしかない。ヴィクトルはユウリの拘束を解いて、あーあとため息をついた。
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