宇宙が肺を満たしている 02

水平線から太陽が昇る。その瞬間が勇利は一等好きだった。
日の出はユウリにとって仕事の終わりを意味する。灯台の火を落として空が薔薇色に染まるのを見届けて階段を駆け下りる。
解放感に包まれながら砂浜でステップを踏んでくるくると回る。朝の澄んだ空気の中で踊るのは気持ちがいい。白い光が海面を煌めかせている。遠くで魚が跳ね、カモメが頭上を旋回する。
ユウリに踊りを教えてくれたのは、ミナコという名前の旅芸人だった。あるときふらりとヴァノヴァにやってきて、三ヶ月ほど逗留していた。ミナコはなぜかユウリを気に入ってみっちり芸を仕込んでくれた。
おかげでユウリは貴族が踊るようなワルツも、町人が踊るようなブランルも完璧にマスターした。
新鮮な潮の香りを胸いっぱいに吸い込む。右足に力を込める。大きく股を開いて高く高く跳躍したそのとき――パチパチパチとどこからか拍手が聞こえた。
「誰っ!?」
ユウリは驚きすぎて着地に失敗してしまった。砂浜に手をついて転ぶ。顔をしかめていると「あはは」と高く澄んだ笑い声が聞こえた。
「あなた、人間にしては踊りが上手いのね」
ユウリは注意深く辺りを見回す。しかし周りには誰もいない。それにしても人間にしてはというのはどういう意味だろう。妙な言い回しである。
「どこにいるの? 君は誰?」
「姿を見せてあげてもいいけど、あたしに魅了されたりしないかしら?」
「それは……ないと思う」
「んま、失礼ねー!」
そっちが言ったんじゃないかという言葉をユウリはぐっと飲み込んだ。
ユウリは今年で二十四になる。恋人がいてもおかしくない。ユウリと同じ年齢で所帯を持っている若者はヴァノヴァの町に大勢いる。
(僕って人の見た目に興味ないからな……)
たとえば。たとえばヴィクトルほどの美貌だったなら一瞬で目を奪われてしまうのだろうけれど。実際、ユウリは初めてヴィクトルを目にしたとき、この人は絵画から抜け出てきたのだろうかと真面目に疑ってしまった。
(いやいやヴィクトルは男だろ。何考えてんだ僕)
恋とか愛とか惚れたとか腫れたとか。そんなのはヴィクトルとは無関係だ。ユウリはぶんぶん首を横に振った。
「あの、僕、そろそろ限界なんだけど、」
ふああ、と欠伸がこぼれる。今の内にしっかり眠って夜に備えなければ仕事に支障が出てしまう。部屋に戻ろうとユウリが踵を返すと「待って待って待って!」と焦燥の滲む声が追いすがってきた。次いでざぶんと飛沫の跳ねる音がする。
「こっち向いて。私あなたと友達になりたいの」
ユウリは億劫そうな様子を隠しもせずに上半身をひねった。最初に目に入ったのは葡萄酒を彷彿とさせる赤毛だった。勝気そうな微笑み。生気のあふれる瞳。輝くような真珠の肌はほとんど布に覆われておらず、貝殻を胸当てに使用している。
悩ましい曲線を描く腰。その下に視線をやったユウリは大きく目を見開いた。
「え?」
美しい娘の腰から下に足はなく、足の代わりに鱗で覆われたひれが生えていた。
ユウリははくはくと口を開け閉めする。だが驚きのあまり言葉が出てこない。ユウリの様子を見て人魚は満足そうな笑みを浮かべた。
「私はミラ。ミラ・バビチェヴァよ。見てわかる通り、私は人魚。驚いたかしら?」
ユウリは激しく首を縦に振った。驚きすぎて心臓が飛び出るかと思った。
「本当にいるとは思わなかった……」
「あら。この世界には私の仲間以外にも多くの生き物が暮らしてるわよ。あなたたちの目が節穴だから見つけられないだけ」
「………っていうか誰かに見られたらまずくない!?」
「大丈夫。町の人たちが起き出すのはもっとあとだもの。でしょう?」
「まあ、そう、かな」
ユウリはおっかなびっくり肯定する。ミラはどうやら人の生活にも詳しいらしい。
「本当は人間に私たちの存在を知られるのってすっごくまずいのよね。でも、どうしてもあなたと話がしてみたくて」
「どうして?」
ユウリは首を傾げた。ユウリは決して社交的な性格ではない。彼女を喜ばせるようなお喋りなどできない。それなのにどうして自分なんかと話がしたいのか。心底不思議だった。
(ヴィクトルもよく似たようなこと言うけど)
時間を共にしたいと思ってくれるのは嬉しい。けれどヴィクトルの周りにはユウリよりも素敵な人がたくさんいるはずだ。それなのに彼は頑なにユウリを選ぼうとする。
(僕みたいな人間が珍しいからかな)
だから気紛れを起こしたのだろうか。近付いてみたいと思うのだろうか。いいことなんて何もないのに。どうせいつか離れていくに決まっているのに。
「あなたのダンスが素敵だったから! ねえ、私の歌に合わせて踊ってくれない? それとあなたの名前を教えて」
「僕はユウリ。ミラは歌が得意なの?」
ユウリは踊りと同じくらい音楽も好きだ。美しい音楽があればいつまでも踊っていられる。ユウリが問うとミラはいたずらっぽく微笑んだ。
「私がユウリを満足させられるか試してみる?」
「――いいね」
久しぶりに胸が弾む。わくわくする。どきどきする。相手が人魚なら劣等感に苦しむこともない。ユウリは靴の中で何度も足の指を握ったり開いたりした。


悩みすぎて禿げるかもしれない。ヴィクトルは花屋の軒先で大きなため息をついた。店主は花を束ねながら戸惑った表情を浮かべている。
いつも陽気なヴィクトルがあからさまに沈んだ様子を見せているのが理由だろう。店の入り口で辛気臭い空気を振りまかれては商売上がったりだろうに、お人好しの店主は何も言わずにヴィクトルの要望を叶えようとしてくれている。
商売人には向かないが、長生きはできるタイプだ。
「憂鬱だ……」
いっそ死んでしまえたらどんなに楽か。戦場の最前線にいたほうがまだマシだ。
店主に花束の代金を支払いながらヴィクトルはもう一度大きくため息をついた。
先日すっかり恒例と化したユウリとのディナーを終えたあと、ヴィクトルを天国から地獄へ叩き落とすような出来事が起こった。
とても素敵なことがあったんだ。そう話してくれたユウリの頬はアルコールでほんのりと赤みを帯び、瞳は夢見る乙女のように輝いていた。
眉尻を下げ、ふにゃふにゃと笑み崩れるユウリをヴィクトルは幸せな気持ちで見つめていた。誰も信用できない。敵の振りをした味方や味方の振りをした敵に囲まれ、息つく暇もない。気を抜けば足元をすくわれ、命を落とす。そんな殺伐とした世界で生きているヴィクトルにとって、ユウリとの時間はかけがえのないものと化していた。
ヴィクトルが置き去りにしてしまった平凡な幸せを、穏やかな日常を、ユウリは手の平に乗せて差し出してくれる。焼き立てのパンが美味しかったとか。砂浜できれいな貝殻を拾ったとか。ユウリが聞かせてくれる何気ない日常はヴィクトルの心を癒してくれる。
今度はどんな幸せをお裾分けしてくれるのだろう。ヴィクトルはわくわくしながらユウリの言葉を待った。けれど。
――ヴィクトルに会わせたい人がいるんだ。
照れ臭そうにはにかみながら告げられたその一言にヴィクトルはむせた。
(会わせたい人? 俺に? 満ち足りた顔でそんなこと言ってくるってことはつまりそれって、それって……)
ユウリの恋人? という問いをヴィクトルは寸でのところで飲み込んだ。背を丸めて咳き込むヴィクトルをユウリは心配そうに見つめていた。ヴィクトルは内心では激しく動揺していたが、決してそれを悟られぬよう必死に平静を装った。
もしも本当にユウリに恋人ができたならそれは喜ばしいことのはずだ。世捨て人のような暮らしをしているユウリの世界に新たな風を吹き込んでくれるかもしれない。外の世界へ踏み出す勇気をユウリに与えてくれるかもしれない。
そう自分に言い聞かせたがどうしても自身の中に芽生えた面白くないという感情は消えてくれなかった。
(この町でユウリと一番親しいのは俺だと思ってたのに)
つまりはそういうことだった。ユウリは決して人懐こい性格とはいえない。野良猫のように気紛れで警戒心の塊だ。ヴィクトルは彼に嫌われぬよう慎重に振る舞い、距離を縮めてきた。ユウリから卑屈っぽさが消えたのはつい最近のことだ。
ようやく屈託のない笑みを向けてくれるようになったユウリのことをヴィクトルは憎からず思っていた。もっと信頼して打ち解けてほしいと思っていた矢先にこれだ。正直やっていられない。
「俺はいつからこんな女々しい奴になったんだ」
親友ができたばかりの恋人に夢中になって構ってくれないからとすねている少女のようではないか。
「あの子が幸せなら俺はいいんだ」
声に出して言い聞かせてみる。だがそのつぶやきはどこか白々しかった。
鈍い真鍮色から目にも鮮やかな薔薇色へ。薔薇色から神秘的な紫色へ。空の色は刻一刻と変化し続けている。今日もヴィクトルはユウリとディナーを共にする約束を交わしている。もうすぐ約束の時間だ。ディナーが終わったあと、ユウリはヴィクトルに恋人(仮)を紹介するつもりでいる。
ヴィクトルは重い足を引きずりながら灯台へと向かった。ユウリに会えるのは嬉しい。けれどユウリが誰にも見せないような微笑みを彼の特別な人に披露するところは見たくない。
相反するふたつの気持ちを抱えたまま、ヴィクトルは灯台の内部へと入った。階段を上りユウリの部屋の前に立つ。ノックをするとすぐに扉が開いた。
「いらっしゃいヴィクトル。ナイスタイミングだね。丁度夕食の支度が終わったところなんだ」
「こんばんは、ユウリ。とてもいい匂いがするけど今夜のメニューは何かな?」
「それは見てからのお楽しみ」
ユウリがくすくす笑いながらヴィクトルを部屋に招き入れる。ヴィクトルは背中に隠していた花束を差し出した。
「受け取ってくれる?」
ユウリの部屋は質素だ。花束を飾れば少しは雰囲気も明るくなるだろう。喜んでくれるものとばかり思っていたがユウリの反応はヴィクトルの想像とは少し違っていた。
花束を受け取ったユウリは根が生えたようにその場から動かなかった。彼は明らかに困っていた。
「……迷惑だった、かな?」
「あっ! ちが! 大丈夫! すごく嬉しいよ。ありがとう!」
ヴィクトルがおそるおそる尋ねると彼はハッと我に返ってそう言った。こちらに背を向けたかと思えば慌ただしく食器棚を漁る。ガチャガチャと騒々しい音が響く。しばらくしてからユウリは満足そうな顔で立ち上がった。
「このグラス、うちにあるので一番いいやつなんだ。きれいでしょう?」
ユウリが「ほら」と見せてくれたのはふちが花びらのように波打ち広がっているグラスだった。アイスクラックと呼ばれる技法が使用されていて、表面には細かなひびの紋様が入っている。淡いライム色のそのグラスは美しく、確かにそこそこ値が張りそうな代物だった。
ユウリはそのグラスに水を入れて花束を活ける。ユウリの行動を黙って見守っていたヴィクトルは自身の機転の利かなさに絶望した。
(この家には花瓶がなかったのか…………)
だから先程ユウリは花束を渡されて途方に暮れていたのだ。もらった花束をどうしたらいいのかわからなかったのだとヴィクトルはようやく気付く。
(俺が甘かった)
花なんて生きていく上ではなんの役にも立たない。ただの嗜好品だ。ヴィクトルの家にはあって当たり前のものを慎ましやかな生活を送るユウリが所持しているとは限らない。
(俺ってすごく嫌なやつじゃないか)
自分の行いが金持ちの道楽だとユウリに思われていたら自己嫌悪で軽く死ねる。
「ユウリ、その、」
「謝らないで」
ヴィクトルは謝罪しようと口を開いたがユウリに先手を打たれてしまった。ユウリはうなだれているヴィクトルの顔をじっと見つめ、ふっと口元をほころばせた。
「価値観の違いって簡単に埋められないし、誰が悪いとかって話でもないでしょ? 仕方ないことなんだからそんなこの世の終わりみたいな顔しないでよ。僕は嬉しいよ。花束なんてもらったの生まれて初めてなんだ。あなたから僕はたくさんの初めてをもらってるんだ」
「ユウリ……ありがとう。君の寛大さに感謝する」
ユウリはにこりと笑ってヴィクトルに席に座るよう促した。今夜の夕食はカレーだそうだ。ヴィクトルは鍋の中身を温めるユウリの背中を見つめながらこっそりため息をついた。
(仕方ないっていうのは諦めてるのと一緒じゃないか)
ヴィクトルとユウリの間にある溝は一生埋まらないと宣言されたも同然だった。理解をする努力すら放棄する言葉だった。
(俺はユウリとは対等になれない?)
ここにいる俺は軍人でも貴族でもないただの一人の男なのに。
はっきりと線引きをされてしまった。境界線を踏み越えようとすればユウリはヴィクトルから逃げるだろう。
手を伸ばしても届かない。つかめない。自分たちの関係がいかに不安定なものなのかを突きつけられ、ヴィクトルは少しだけ悲しくなった。


今夜の海は凪いでいる。鼓膜をくすぐる穏やかな波音は子守歌の調べによく似ていた。
「ねえ。ユウリは一体どこに俺を連れていくつもりなの?」
夕食が終わるとユウリはヴィクトルを外に連れ出した。例の紹介したい人とやらが近くまで来ているそうだ。しかし灯台の周囲に自分たち以外の人影はなかった。
ヴィクトルが困惑しているとユウリは腕を持ち上げてある方向を示した。そこには桟橋があり、桟橋にはユウリがよく釣りで使用しているというボートが係留されていた。
「ヴィクトルはボートに乗って待ってて。あそこの小島まで行くから」
ヴァノヴァ港の周囲には大小の無人島がいくつか点在している。灯台から最も近い島を落ち合う場所として指定されたのだとユウリはいう。
顔を合わせるためだけに海に漕ぎ出すなど手間のかかる話だ。ヴィクトルは不思議に思ったが大人しくユウリに従った。
ユウリがもやいをほどき、櫂を手に取る。重心が傾いてボートがわずかに揺れた。
「じゃあ、出発進行」
ユウリが足で桟橋を蹴る。ボートはゆっくりと沖へ漕ぎ出した。ユウリがヴィクトルの正面に座り、櫂を操作する。
凪いだ海は鏡面のように滑らかだった。頭上に散らばる宝石のような星屑がそのまま眼下に映し出されている。幾千幾万もの銀のきらめきと明々と光る丸い月。状況が状況でなければ完璧なシチュエーションだった。
「ねえ、ユウリ」
「なあにヴィクトル」
ヴィクトルはごくりと唾を飲み込んだ。口の開け閉めを何度も繰り返す。俺に紹介したい人ってもしかしてユウリの恋人とか? 冗談めかしてそう尋ねるつもりだった。しかし唇からこぼれたのはまったく違う質問だった。
「今日のカレー、隠し味に何を入れたの? 今まで食べたどのカレーよりコクがあったような気がする。とても美味しかった」
「うっそだあ。ヴィクトル普段美味しいものばっかり食べてるんでしょ? 僕のカレーが一番美味しいとかありえないでしょ」
「お世辞ではないよ。こんなことで嘘ついてどうする。ユウリは信じないだろうけど」
「……そりゃそうだよ。でも、まあ、悪い気はしない、かな。ちなみに今日の隠し味はチョコとコーヒーだよ」
「なるほど! 今度レシピを教えてよ。うちの奴らに作らせるから」
カレーの話に花が咲いて二人は目的地に着くまで延々と食べ物の話を続けた。会話に困ったときには天気の話と食べ物の話をすればいいという先人の教えはあながち間違っていない。
「待って、ユウリ」
「ヴィクトル……?」
無人島に降り立ったヴィクトルは先に行こうとするユウリを引き止めた。注意深く辺りを見回すヴィクトルにユウリは困惑している。
軍人として幾多の戦場を駆け抜けてきたヴィクトルの本能が警鐘を鳴らしている。ぴりぴりと肌に突き刺す空気。何かがおかしい。何かよくないものがこの島にいる。ここは危険だ。
「ユウリ、一旦ボートに、」
戻れとヴィクトルが言いかけたそのとき。絹を裂くような悲鳴が入り江の物陰から聞こえてきた。二人が立っている場所からいくらか距離がある。
ヴィクトルとユウリはとっさに顔を見合わせ、ほぼ同時に悲鳴の聞こえたほうへ駆け出した。
走りながらヴィクトルは無意識に腰に手をやっていた。いつも腰に刷いている軍刀を執務室に置いてきたのを思い出しほぞを噛む。
ユウリを怯えさせたくない一心で彼と会うときは武装を避けていたが、それが裏目に出てしまった。
女の悲鳴と複数の男の怒鳴り声が交差する。争いは入り江に生えている大岩の裏で繰り広げられているようだった。しゃにむに飛び出そうとしたユウリの腕をヴィクトルはとっさにつかんで、物陰に引きずり込む。
「離してヴィクトルっ!」
「し、静かに! 向こうに気付かれる。俺が先行するからユウリはここで待ってて」
「でもっ!」
「っ伏せろ!」
ヴィクトルはユウリの口を手で塞ぎ、無理やり地面に伏せさせた。先程まで騒がしかった一帯が急に静まり返る。いつの間にか悲鳴も怒鳴り声も聞こえなくなっていた。
さくさくと砂を踏む足音が近付いてくる。ヴィクトルはそっと拳を握った。剣術ほど得意ではないがヴィクトルは格闘技もたしなんでいる。素手でも負ける気はしなかった。
「……気のせいか?」
足音が止まり、頭上から声が落ちてくる。男の声だ。上からのぞき込まれたら、あるいは裏に回り込まれたら、自分たちがここにいるのがばれてしまう。ヴィクトルは手の平が汗ばむのを感じた。自然と心音が早くなる。
「おい、何やってんだ。さっさとずらかるぞ!」
「ああ……そうだな」
少しずつ人の気配が遠のいていく。ヴィクトルはユウリの口元から手をどかした。
「ミラっ!!」
ユウリが一目散に飛び出していく。
「ミラ! どこにいるの! 出てきてよ! ミラっ!」
ユウリが必死に叫ぶ。ミラ、ミラ、ミラと。だがいくら呼んでもミラという人物は現れなかった。ユウリが呆然と波打ち際に座り込む。彼の顔は夜目にもわかるほど真っ青だった。
「さらわれた……ミラがさらわれた……僕のせいだ……僕の……」
僕のせいだと繰り返し自分を責めるユウリは、思わず顔を背けたくなるほど痛々しく哀れだった。ヴィクトルはそっと彼の肩に手をかける。
「ユウリ、今やるべきなのはそんなことじゃないだろう?」
「ヴィクトル……」
「ミラというのは誰だ? なぜさらわれた? ユウリは理由を知っているのか? 民間人が犯罪に巻き込まれたならここからは俺の領分だ」
「助けて……くれるの?」
涙で濡れた目がヴィクトルを射抜く。ヴィクトルは沈黙を選んだ。情報が少なすぎる。現段階では否定も肯定もできない。
「すぐには無理だ。情報を集めるための時間がいる。私情で軍を動かすわけにはいかない。それはわかるね?」
ユウリが弱々しく首肯する。彼が理解を示してくれることにヴィクトルは安堵した。
「だけど俺は、俺個人としては最大限ユウリの力になるつもりだ。ユウリは大切な友人だから。友人が悲しんでいるところは見たくない」
「僕、僕は、そんなつもりじゃ、」
「利用してよ」
ヴィクトルは砂浜に片膝をついた。ユウリの両手をぎゅっと握る。
「俺の地位も権力もユウリは存分に利用していいんだ。なぜだと思う?」
「わ、からない。ごめん、ヴィクトル」
「簡単なことだよ。ユウリは無欲な人間だと俺が知ってるからだ。ユウリは財産や、栄光や、名誉や、権力を自分から欲するような人間じゃないだろ? 俺が持ってるものはユウリにとって価値がないものばかりだ。だからユウリのためなら惜しみなく俺はそういうものを差し出してもいいと思える」
ユウリはヴィクトルに軍人であることを求めない。ユウリのそばでならヴィクトルはありのままの自分でいられる。それがどんなに得難いことか、きっとユウリにはわからない。
それでもいいとヴィクトルは思う。埋められない溝があったとしても、異なった価値観を持っていたとしても、友人でいられるはずだ。自分たちがそう望むなら。
「ここでユウリを見捨てたら、俺は君の友人でいられなくなる。俺はそんなのは嫌だよ、ユウリ。さあ――この手を取って」
ヴィクトルの差し出した手にユウリがおそるおそる自身の右手を重ねる。ヴィクトルはユウリの手を握ったまま腰を浮かした。「わ、わっ!」ヴィクトルにつられてユウリも立ち上がる。
「忘れないでね。俺はユウリが大好きなんだ」
「うん、ありがとう。本当にありがとう」
ユウリは落ち着きを取り戻したようだった。彼の背中を軽く叩いて、ヴィクトルは距離を取る。改めて周囲を観察する。この場に残されているのは足跡のみだ。手がかりになりそうなものは何もない。
(ん? ちょっと待て)
視界の端できらりと何かが光ったような気がして、ヴィクトルは慌てて視線を戻す。砂浜に埋もれていたそれを拾い上げ、ヴィクトルは小さく息を呑んだ。
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