宇宙が肺を満たしている 04

「頑張ってみるって言っただろユウリ! 観念しなさい!」
「それはそれこれはこれ! 大体なんで僕がヴィクトルのペースに合わせなきゃならないんだ! 普通逆だろ!?」
「ユウリが出不精だから俺がせっついてあげてるんじゃないか!」
喧々諤々と言い争う声が壁に反響して木霊する。ハアハアと肩で息をしながら二人は睨み合った。普段は血のつながった兄弟なのではないかというくらいに親密な二人だが、喧嘩をするのは珍しいことではない。
元々育った環境も価値観もまったく異なる二人だ。その分衝突する回数も多い。が、決定的な亀裂が走るほど深刻な事態に陥ることはない。ユウリは物事に頓着しない性格であるし、ヴィクトルは忘れっぽい性格である。
喉元過ぎればなんとやら、だ。怒るというのは意外にエネルギーを消耗する。一回冷静になってしまうとむきになっていがみ合っていたのが段々と馬鹿らしくなってくるのである。
「……ヴィクトル」
「……うん」
「僕、喉乾いた」
「俺もだよ」
今回も例によって例のごとく、二人は同時に白旗を上げ停戦協定を結んだ。ユウリがお茶を淹れるために台所に立つ。ヴィクトルは無言で椅子に腰かける。窓の桟には二人で町に出掛けたときに買った花瓶が置かれ、コスモスの花が活けられている。どちらもヴィクトルがユウリに贈ったものだ。
ピンクとオレンジの花びらが風に吹かれてそよそよと揺れる。花びらにちょんと触れてヴィクトルはふふっと微笑をこぼした。自分の贈り物が大切にされているのを知るのは存外嬉しいものだと二十七になって初めて知った。
「ヴィクトルが気持ち悪い顔してる」
「俺にそんなこと言うのはユウリくらいだよ」
目の前に紅茶の入ったティーカップが置かれる。ヴィクトルの指導のもと、ユウリの紅茶の淹れる技術は段々と上達していた。
「ん、美味しい」
「よかった」
二人はしばらく黙って紅茶の味を楽しんだ。
「で、さっきの話なんだけど」
「うん………」
「どうしても駄目?」
近々ヴァノヴァでは豊漁祈願のお祭りが行われる。お祭りは一週間続き、この間に町では様々なイベントが行われる。その中のひとつに武闘大会があった。
ヴィクトルは町役場の意向と自身も希望していることからこの武闘大会への参加が決まっている。お祭りの準備期間はどこも目が回るほどの忙しさだ。町民との親睦を深めるため、海軍は積極的に人手を貸し出している。ヴィクトルに望まれているのはいわゆる盛り上げ役だった。
ヴァノヴァ砦一の実力者であるヴィクトルと戦えるとなれば、地元の勇士たちや各地を放浪する傭兵たちが続々と集まってくる。ヴィクトルから直接指導を受けられる立場のない下っ端兵士たちもここぞとばかりに大会への参加を表明していた。ヴィクトルを倒して名をあげる絶好の機会だ。エントリーが開始された途端、窓口には参加希望者が殺到したという。
既に予選は終了し本戦への出場者は決まっている。大会は予選本戦共に勝ち抜き戦のトーナメント方式で行われ、一度負けた時点で即敗退となる。
先程の喧嘩は自分の応援に来てほしいとヴィクトルがユウリに言ったのが原因だ。
軍の訓練は原則非公開であるため、ユウリはヴィクトルが剣を持って戦うところを見たことがない。彼はそもそも荒事が嫌いなようで、肉体言語を介して友情が成立する男の世界が理解できないようだった。
ヴィクトルが酒場で喧嘩した相手と後日町中でばったり遭遇し意気投合して仲良くなったみたいな話をするとユウリは宇宙人を見ているかのような眼差しを向けてくるのだ。
それがヴィクトルには地味に辛いのである。
軍の仕事は非常に厳しい。心の病で去っていく者も少なくはない。だが過酷なだけではない。
戦士としての矜持。剣のきらめき。相手を上手く出し抜いたときの心躍る感覚。頂点を極めた者同士の手合せはもはやワルツを踊っているのかと思うほどに美しい。
剣の道は修羅の道だ。しかし暗く汚く血にまみれているばかりではない。人を殺すための剣ではなく、自分の魂を奮い立たせ、誰かを楽しませるための剣もある。圧倒的な強さが迷える子羊を導くこともあるのだとヴィクトルはユウリに知ってもらいたかった。
けれどもユウリは「興味がない」の一言でヴィクトルの要望をばっさり斬り捨てたのである。取りつく島もなかった。
「さっきも話したけど……人がたくさん集まる場所に行くのはまだ怖い。ヴィクトルがいるならいいけど、一緒にいるのは無理でしょ? ヴィクトルは参加者なんだから」
ヴィクトルは思わずにやけそうになった。自分が一緒ならいいというのは即ち彼が自分を頼りにしてくれている証拠だ。
(ユウリ気付いてないんだろうなあ……かわいい)
四日前に花瓶を買いに町に出掛けたとき、ユウリは雛鳥のようにヴィクトルの後ろにくっついていた。顔を隠しているだけでは不安だったのか彼はヴィクトルの服の袖をずっとつかんでいてヴィクトルは真顔を保つのにそれは苦労した。
先程はユウリがあまりにも素っ気なかったのでヴィクトルもむきになって食い下がり言い争いに発展してしまった。だがユウリがいつも以上に素っ気なくなるときは、自身の中にある不安や苦悩を押し隠して強がっているのを失念していた。
「じゃあ試合直前まで俺の控え室にいたらいい」
本戦への出場者には個々に控え室が用意される。人と接触するのが怖いならぎりぎりまでヴィクトルのそばにいればいい。
「ユウリは今まで一度もお祭りに参加したことないんだろ?」
「………それは、だって、その、」
ユウリが伏し目がちになる。ヴィクトルは慌てて手を振った。
「別に責めてるわけじゃない。ただもったいないと思っただけなんだ。お祭りの間は食べ物の屋台だってたくさん出るんだ。異国の料理とか食べてみたくない?」
「うう」
ユウリの瞳が揺れる。彼はご馳走にめっぽう弱い。もうひと押しだ。
「あと俺の剣舞見たくない?」
「え? ヴィクトル剣舞やるの!?」
ユウリが勢い余って立ち上がる。椅子がガタンと後ろに倒れた。
「やるよー。武闘大会の閉会式でね。有志で剣舞を披露するのが慣例なんだ。で、どうするユウリ?」
ヴィクトルはにっこり笑った。ユウリの顔を見れば彼がどうしたいかなんて一目瞭然だ。
彼は美しいものが好きで、ヴィクトルの見た目もそこそこ気に入っているらしい。軍服でいるときと私服でいるときとではユウリのテンションが若干異なるのだ。
華やかな衣装を着て剣舞を舞うヴィクトルの姿を見たくないはずがない。
「い、」
「い?」
「い、い、い、いき、ます……」
「やったあ!」
とうとうユウリが陥落した。
「俺、ユウリのために絶対優勝するからね」
ヴィクトルが茶目っ気たっぷりに片目をつむると、ユウリは「ガンバッテー」と遠い目をしながら答えたのだった。



とうとうお祭りの初日がやってきた。町行く人たちは大なり小なり着飾って、期待と興奮に目を輝かせている。ユウリはあまりの人混みに早くも目を回しそうになっていた。
(ヴィクトル早くきてーっ)
待ち合わせ場所に指定されたのは町の中央にある噴水広場だ。ヴィクトルは約束の時間になっても現れず、ユウリは周囲の視線が気になって仕方がなかった。
(僕のこと、誰にも気付かれてない、よね?)
ユウリはそわそわと前髪をいじる。視界に映る前髪は見慣れない色をしている。ユウリは今誰にも自分の正体を悟られぬよう、変装して町中に立っていた。
茶髪のかつらをかぶり、眼鏡は縁のないものに変えている。それらは全てヴィクトルの配慮だった。道具を用意してくれたのも彼だ。
ユウリが心からお祭りを楽しめるように、彼は最大限心を砕いてくれている。だからユウリもお祭りの間は難しいことは考えず、全て成り行きに任せようと決めていた。
ヴィクトルが執拗にお祭りに誘ってきた理由をユウリは薄々察している。
試合の応援に来てほしいというのも嘘偽りない本音だろうが、それだけではなく、ユウリがいつか堂々と胸を張って日の当たる場所に出ていけるようになってほしいとヴィクトルは願っているはずだ。
(余計なお世話だって昔の僕なら思っただろうけど……)
今はヴィクトルの好意が嬉しいと素直に思える。ヴィクトルと一緒にたくさん楽しいことをしてみたい。今日がその第一歩だ。
ユウリは胸に手を当てて自分の鼓動が高鳴っているのを確認した。
「ユウリー!」
不意に名前を呼ばれた。ヴィクトルが噴水広場の入り口で大きく手を振っている。ユウリも小さく手を振り返した。ヴィクトルは器用に人混みを避けてユウリの前に立った。
「ごめん。待たせちゃったね」
「ううん、僕も今来たところだよ」
定番のやり取りをして二人は笑みを交わす。ヴィクトルはユウリの全身をつぶさに観察したのち、恍惚とした表情を浮かべた。
「うーん……ユウリかわいい。さすが俺。茶髪もその眼鏡もよく似合ってるよ。もちろんいつものユウリのほうがずっと素敵だけどね」
「ほんとに? 僕変じゃない?」
茶髪なんてどう考えても自分に似合わないだろうと半信半疑なユウリにヴィクトルは親指を掲げてはっきりと言い切った。
「俺のセンスに間違いはない」
「……ヴィクトルが、そう言うなら」
渋々ユウリは納得した。ヴィクトルの審美眼は確かだ。ヴィクトルが大丈夫というなら本当に大丈夫なのだろう。
「さ、そろそろ行こう。試合まであんまり時間がない。ユウリお腹すいたでしょ? 何から食べよっか」
ヴィクトルに促されて歩き出す。目抜き通りには多くの屋台が並んでいた。肉の焼ける香ばしい匂いがあちこちから漂ってくる。ぎゅるる、とユウリのお腹が鳴いて空腹を訴えてきた。ヴィクトルがあはっと笑う。
「おーけいユウリ。まずは俺のおすすめ。タコスから行こう!」
ヴィクトルが手を差し出してくる。ユウリはおずおずと自身の手を彼の手に重ねた。手をつなぐ必要があるのかは疑問だったが、ヴィクトルのきらきらと輝く瞳を見たらそんなのはどうでもよくなった。
――きっと人生で最高の一週間になる。彼に手を引かれて歩きながら、ユウリはささやかな幸せを噛みしめていた。



屋台で散々飲み食いしたあと二人は闘技場に移動した。もうすぐヴィクトルの試合が始まる。第一戦目の相手はギオルギー・ポポーヴィッチ。流れの傭兵でそこそこ腕が立つらしい。彼は毎年武闘大会に参加しているらしく、ヴィクトルも過去に何度かやり合ったことがあるそうだ。
ユウリは入念に武器の手入れをするヴィクトルをかたい面持ちで見つめていた。
「ねえ、本当に大丈夫なの?」
今のヴィクトルは最低限の防具しか身に着けていない。革の胸当てと、籠手と、ブーツだけだ。鎖帷子や鎧は重すぎて満足に身動きできないという理由だった。
「大丈夫大丈夫。この大会、殺人はご法度だし、何かあったら審判に止められるから。ユウリが心配するようなことは何も起こらないよ」
ヴィクトルがこちらを見て安心させるように微笑む。ここまではっきりと言い切られてしまっては反論の唱えようがない。それでも彼の身に何かあったらと思うとユウリは恐ろしくてたまらなかった。
「ああ、でも食べすぎたからちょっと体は重いかなあ。出すもの出してすっきりしたいなあ」
「やめて! その顔でそんなこと言わないで!」
ユウリは悲鳴をあげた。ヴィクトルがズボンを下ろしてうんうん唸っている姿を想像してしまい、いたたまれなくなる。ユウリは頭を抱えた。目を閉じて深く息を吸う。
まぶたを押し上げる。ヴィクトルは口元に弧を描いたまま、泰然とした様子で自分の名前が呼ばれるのを待っている。
ヴィクトルの強さをユウリは疑ってはならない。唐突にそんな思いが浮かんだ。彼は自分に応援に来てほしいと言ったのだ。応援とはその人が必ず勝つと信じて行われるべきものである。
行き過ぎた心配が彼のためになるとはとても思えない。ならば自分が今彼にしてあげられることはなんだろう。
「――ヴィクトル」
体は自然と動いていた。気付けばユウリは身を屈めて、ヴィクトルの額に唇を寄せていた。ヴィクトルがぱちり、ぱちりと瞬きをする。
「が、頑張って。僕一生懸命応援するから」
ヴィクトルは呆然としたまま動かない。ユウリは段々と恥ずかしくなってきた。身を翻して控え室を飛び出し、一心不乱に観客席を目指した。
一方、控え室に取り残されたヴィクトルは想像もしていなかったユウリの激励に顔を真っ赤にして撃沈していたのだった。


「華麗なる紳士淑女の皆さま! 長らくお待たせいたしました! とうとうこの方の登場です! 我らが町のスーパースター! ウィンクひとつで老若男女の心をわしづかみ! 武闘大会の優勝候補筆頭! ヴィクトオオオオオオル・ニキフォロオオオオオフ!」
嵐のような拍手と歓声が会場を揺るがす。ヴィクトル! ヴィクトル! ヴィクトル! 熱気と興奮が渦を巻いて今にも爆発しそうだ。観客のコールに手を振って応えながらヴィクトルは通路から進み出た。歓声が一際大きくなり、口笛が四方八方から聞こえてくる。
ヴィクトルはユウリの姿を求めて観客席に素早く目を走らせた。いた。たとえ彼が変装していてもヴィクトルには一目でわかる。ユウリは最前列に座り、仕切りから身を乗り出すようにしてこちらを見つめていた。
一人で観客席に座るユウリはやはり心許なさそうにしていてヴィクトルはわずかに眉根を寄せた。
(俺を心配してくれるのは嬉しいけどね)
一生懸命応援するという言葉はどこに行ったのか。あんな辛気臭い顔をさせるためにお祭りに連れ出したわけではないのだから、もう少しだけ笑顔を見せてほしい。
(そう、さっきみたいに)
控え室で自分の額にキスをしてくれたユウリはとびきりかわいらしかった。頬は薔薇色に染まりきり、夢見る乙女のような風情だった。
(あ、)
目が、合った。ヴィクトルとユウリの視線が真正面から交錯した。ユウリの唇が動く。ヴィクトル。彼は確かに自分の名前を呼んで、それから小さくはにかんでみせた。迷子になっていた子供が親を見つけたときのような安心しきった笑顔にヴィクトルの鼓動が跳ねる。
(ユウリが笑った……)
屈託も憂いもなく。ただ純粋にこれから起こることを楽しみにして微笑んでいる。人がこんなにたくさんいるというのにヴィクトルだけをその瞳に映して、ヴィクトル以外を世界から締め出して、無邪気な子供のように瞳に星を散らしている。
ヴィクトルはふっと口角を持ち上げた。剣の柄に手をかけ、鞘から引き抜く。磨き抜かれた刃は陽の光を浴びて眩しいほどの輝きを放った。
(今だけはお前に俺の剣を捧げるよ、ユウリ)
剣の柄をくるりと回し、切っ先を地面に向ける。とっくの昔に廃れてしまった騎士の型を取るヴィクトルの凛とした勇ましさ、そして清らかな美しさにそこかしこから感嘆の吐息が漏れた。
「ニキフォロフ選手はやる気満々のようです! 彼の六連覇を止められる猛者はどこにいる!? 五年連続チャンピオンの座に輝くニキフォロフに挑むのはこの男! 愛の戦士ギオルギイイイイイイ・ポポーヴィッチ!!」
円形の闘技場にはふたつ、東と西に出入り口が設けられている。ヴィクトルが出てきたのとは反対側、西側の出入り口から特徴的な髪型の男がゆっくりと歩み出てきた。観客は拍手でギオルギーを迎えた。ヴィクトルに向けられる声援に比べれば劣るが、彼もまたこの武闘大会でなかなかの人気を誇っている。
四方八方に投げキッスを飛ばしながら歩いてきたギオルギーはヴィクトルから腕一本分の距離をあけて止まった。
「今年こそお前の膝を地につかせてみせるぞ、ヴィクトル!」
「やあ一年ぶりだねギオルギー。芝居がかった物言いが変わってなくて安心したよ」
二人の間でばちばちと火花が散る。血液が煮えて胸が躍る。ギオルギーは強い。ヴィクトルと互角にやり合えるくらいには。そんな人間は軍の中にも滅多にいない。
久しぶりに手応えのある相手と戦える。ヴィクトルは静かに興奮していた。
双方武器を構えて所定の位置に立つ。
「それでは――はじめっ!!」
審判の持つ旗が勢いよく振り下ろされる。先に仕掛けてきたのはギオルギーだった。彼の得物は短槍だ。空気を切り裂く音がする。鋭く速い突きが繰り出される。ヴィクトルは上半身をよじって攻撃をかわした。
太刀打ちの部分を脇に挟んでからめ取ろうとしたヴィクトルだったが、本能が危険を察知した。ヴィクトルが後退するのとギオルギーが槍を回すのはほぼ同時だった。石突きが顔面に迫り来る。ヴィクトルは剣でそれを受け止めた。ガキィ! と鉄と鉄のぶつかる音がする。
「さすがだねギオルギー」
今のは危なかった。もしとっさに後退していなかったら石突きで顎を砕かれていたかもしれない。
「俺の本気はこんなものではないぞ」
ヴィクトルは柄を握る手に力をこめた。思いきり槍を振り払う。今度はこちらが仕掛ける番だ。大きく踏み込んで斬りかかる。突く。突く。突く。目にも止まらぬヴィクトルの猛攻に観客の興奮はピークに達した。ギオルギーの額に冷や汗が浮かぶ。
ギオルギーはぎりぎりのところでしのいでいるが、剣の切っ先が彼をとらえるのも時間の問題だろう。ヴィクトルは己の勝利を確信して一気に間合いを詰めた。しかし。
「――な!?」
ギオルギーが槍を宙に放り投げた。ヴィクトルは驚愕に目を瞠った。ギオルギーの体が前に倒れ込む。自分はまだ彼に一打も浴びせていないはずだ。まさか負傷をおして戦っていたのか。ヴィクトルは一瞬戸惑った。そこに隙が生まれた。
ギオルギーが地面に手をつくのがスローモーションで見えた。その勢いのまま彼は逆立ちになり、そして次の瞬間――。
「っ!?」
重い一撃がヴィクトルの脳髄を揺らした。足だ。ギオルギーはその場でくるりと回転すると、遠心力を利用してヴィクトルの頭部に見事な踵押しを決めた。衝撃に耐えきれずヴィクトルはふらつく。視界の端で何かが光る。
(まずいっ)
落ちてきた槍をギオルギーがつかむ。ヴィクトルは咄嗟に防御の姿勢を取ったが遅かった。穂先が脇腹を切り裂く。肉の斬れる鈍い音がして鮮血が辺りに散った。
「くそっ!」
ヴィクトルは利き手とは逆の手で太刀打ちをつかんだ。力任せに槍を引っ張る。予想外の反撃にギオルギーの体が再び傾ぐ。ヴィクトルは咄嗟に腰を沈めた。邪魔な剣を捨てて身を軽くする。勢いよく回し蹴りを繰り出す。ヴィクトルの長い足はギオルギーの胴体を絡め取った。
ギオルギーの手が槍から離れる。ヴィクトルの蹴りを食らい、ギオルギーは地面をごろごろ転がっていった。
ヴィクトルはすかさずギオルギーを追いかける。上半身を起こしたギオルギーの喉元に奪った槍の穂先を突きつける。
「……私の負けだ」
ギオルギーが苦笑いを浮かべながら両手を上げる。刹那、耳をつんざくほどの歓声と拍手が巻き起こった。
「降参! 降参です! ポポーヴィッチ選手惜しくもニキフォロフ選手に敗れました! 二人の健闘に盛大な拍手をお願いします!」
ヴィクトルはギオルギーに手を差し出した。ヴィクトルの意を汲んだギオルギーが差し出した手を握る。彼を引っ張り起こして、ヴィクトルは観客席にいるはずのユウリの姿を探す。
とてもいい試合だった。実力も経験も拮抗している自分たちの戦いを彼は楽しんでくれただろうか。今自分は土埃と汗にまみれているが、とても清々しい気持ちでいることを彼はわかってくれるだろうか。
ヴィクトルはぐるりと観客席を見回した。二度三度瞬きをする。あれ? とヴィクトルは首を傾げた。
(ユウリがいない……?)
試合が始まるまでユウリが座っていた席がいつの間にかもぬけの殻になっていた。


ユウリは人混みでごった返す通りをふらふらとさまよっていた。耳鳴りと眩暈がひどい。世界が揺れている。家まで無事に辿り着けるかどうかも怪しい。
(やっぱり駄目だった……)
試合の途中まではよかった。ヴィクトルの言葉通り、二人の戦いは素晴らしいものだった。まるで体の一部のように易々と武器を操る二人は、見ていて本当に楽しそうだった。どちらも相手のことを心の底から尊敬しているのが表情から伝わってきた。どちらが勝ってもおかしくない試合で、気付けばユウリは無我夢中になってヴィクトルに声援を送っていた。
不思議と恐れは抱かなかった。二人の勇ましさにユウリは感銘を受けた。なのに。
ヴィクトルの体から流れ出る血を見てしまったら、耐えられなかった。
あの人も大量に血を流して死んだ。そうだ。人は簡単に死んでしまう生き物だ。病気で、怪我で、飢えで、すぐに死ぬ。みんなユウリを置いていく。
震えが止まらなくなって、吐き気が込み上げてきた。ユウリは席を立って会場から逃げ出した。一刻も早くあの場所を離れたかった。
(怖い、怖い怖い怖いっ、怖いよ、ヴィクトル……っ)
誰かが傷付くところなんて見たくない。本人がよしとしているのだからいいじゃないかと理性は訴えてくるが、感情を制御しきれない。
突然いなくなった自分をヴィクトルはどう思うだろう。憤慨するだろうか。今度こそ愛想を尽かされたかもしれない。当たり前だ。ユウリは彼との約束を破ってしまった。
ヴィクトルの期待にユウリは応えられなかった。その事実がユウリを更に打ちのめす。
(ヴィクトル、ヴィクトル、ヴィクトル)
こんなにも弱い自分がどうしようもなく惨めで、情けなくて。ユウリはだらだら涙を流しながら家路を歩く。周囲の人たちはユウリの顔を見てぎょっとしていた。当たり前だ。楽しいお祭りの最中に大の男が号泣していたら、誰だって不気味に思うだろう。
やっと砂浜が視界に入ったとき、ユウリは心の底から安堵した。自然と足が速くなる。ユウリは走った。走って走って走って灯台の内部に飛び込む。螺旋階段を駆け上がって部屋のドアを乱暴に開け放つ。
ドアを閉めてユウリはずるずると座り込んだ。慣れ親しんだ静寂が全身を包む。
ヴィクトルの隣を堂々と歩けるようになりたかった。何も恐れない強さが欲しかった。諦めたくなかった。けれど無理だった。過去の亡霊がユウリを捉えて離さない。
「助けて、助けてよ、ヴィクトル……」
救いを求める声は誰に聞かれることもなく澱のように沈殿して消えていく。


頭が痛い。覚醒して最初に思ったのがそれだった。ユウリはぼんやりと天井を見上げる。どうやら自分は泣き疲れて眠ってしまったらしい。ベッドに寝転んで毛布にくるまったところまでは覚えているが、その先の記憶がなかった。
「……仕事しなきゃ」
窓から差し込む夕日が部屋を茜色に染めている。日没が近い。腹ごしらえをして夜に備えなければ。
のろのろと身を起こしたユウリは、部屋を見回して動きを止めた。部屋の中にヴィクトルがいた。すっかり定位置となった窓際の椅子に腰を下ろして、テーブルに頬杖をついて窓の外を眺めている。
「……ヴィクトル」
蚊の鳴くような声で彼の名を呼ぶ。ヴィクトルがゆっくりとこちらを向いた。
「おはよう、ユウリ」
ヴィクトルのやわらかな声が耳朶を震わせる。ツンと鼻の奥が熱くなった。声音からわかる。彼はユウリに対して怒ってもいなければ、失望してもいない。
彼が口元に微笑を浮かべる。けれど瞳には憂いの色があった。
「ごめんね、ユウリ」
ユウリは小さく首を横に振った。謝るのは自分のほうだ。こんなときでも彼は紳士的で優しかった。
「俺のわがままがお前を苦しめた。お前はあんなに不安そうにしていたのにね」
ヴィクトルが移動してくる。ベッドに腰掛けて彼はユウリの頬に手を添わせた。
「逃げ出したくなるほど、怖がるなんて思わなかったんだ」
「ヴィクトルは、悪くない。僕が悪いんだ。僕が弱くて、意気地なしで、だから、だから……っ」
視界がぼやける。ああ、まただ。また泣いてしまう。ヴィクトルと一緒にいるようになってからユウリは泣き虫になってしまった。
「泣かないで、ユウリ」
ヴィクトルは何も聞かなかった。ユウリがなんらかの事情を抱えていることなど、聡い彼はとっくに気付いているはずだ。けれど彼はただそばにいて、温もりを分け与えてくれる。
もしもヴィクトルが本当に自分を大切に思ってくれているのなら。
もしも自分が彼にとって特別だというのなら。
今だけは身も心もゆだねてしまっていいだろうか。甘えても許されるだろうか。
「ヴィクトル………」
腰を浮かしてヴィクトルの首に腕を回す。ユウリは濡れた瞳でヴィクトルを見つめる。彼の吐息が首筋にかかって背中が甘く痺れた。
「僕を泣きやませて……どんな手段を使ってもいいから」
ヴィクトルが息を呑んだ。
「ユウリ、それは、」
「お願い、ヴィクトル」
「………わかった。目を閉じて、ユウリ」
「ん……」
ユウリは言われるまま目を閉じた。唇にやわらかな感触が落ちてくる。キスだ。今自分はヴィクトルにキスをされている。
ヴィクトルはついばむようなキスを何度か繰り返したあと、舌でそっとユウリの上唇をなめた。
「ね、怪我は、大丈夫なの……?」
「あれくらい大したことない。それよりキスに集中して」
「ん、ふぁ、んん、む」
ヴィクトルの舌がユウリの歯列をなぞる。肌が粟立つ。舌を絡ませ、唾液を渡し合う。どんどん下腹部が重たくなって意識が朦朧とする。
「ユウリ、万歳して」
ぼーっとしながらユウリは大人しく両手を上げた。ヴィクトルがユウリの服の裾をたくし上げる。胸元の辺りが唾液でぐっしょりと濡れていた。
服を脱がされ、ユウリは上半身裸になった。快楽にとろけた脳味噌ではまともな思考が働かない。だからユウリは失念していた。自分の体を見てヴィクトルがどんな反応をするかということを。
「……ユウリ、これ、何」
「………え?」
ヴィクトルがある箇所を指し示す。ヴィクトルの視線の先を追ってユウリはさっと青ざめた。
腰と尻の境目。そこには禍々しい髑髏の刺青が彫られていた。ヴィクトルが鬼のような形相でユウリを睨んでいる。
「ユウリ、お前、お前は」
違う、待って、誤解なんだ。いくらでも弁解のしようはあった。しかしユウリの舌はひりついて一向に動かない。
「お前はずっと俺を騙していたのか」
髑髏の刺青。それはユウリが海賊の一味であることのれっきとした証だった。
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