宇宙が肺を満たしている 05

昔々あるところに一人の男の子がいました。
男の子は決して幸せではありませんでした。
男の子の家は大きな船でした。男の子はお父さんとお母さんの顔を知りません。物心ついたときにはもう船に乗って、働かされていました。朝早くから夜遅くまで扱き使われ、男の子はいつもお腹をすかせて、毎日泣いてばかりいました。
男の子は一人ぼっちでした。
その男の子の髪と目の色は他の誰とも違っていました。みんなが男の子の姿を見て嗤います。醜い、醜い。お前は化け物だ。怪物だと。
船の上は楽しみが少なく、男の子はみんなの玩具でした。不器用で失敗ばかりしている男の子を馬鹿にすることでみんなは退屈をまぎらわせていました。
とても辛い日々でした。
凍土のような世界でした。
頭を撫でてくれる人も、優しい言葉をかけてくれる人も、温もりを分け与えてくれる人も、誰もいませんでした。
見たくないものをたくさん見ました。
自分を守るためになかったことにした出来事がたくさんありました。たくさん、たくさん。
けれど悲しい日々は唐突に終わりを迎えました。
船から降りた男の子を拾ってくれた人がいました。その人は男の子の頭を撫でてくれました。優しい言葉を紡いでくれました。怖くて眠れない夜は一緒に眠ってくれました。
幸せな日々でした。けれど幸せな日々は長くは続きませんでした――。



「が、ひゅ……っ!」
電光石火の早業だった。ヴィクトルの手が首に絡みつき、ベッドに押し倒される。太股でがっちり腰を挟まれ、ユウリは身動きできない。
ぎりぎりと万力のような力で締め付けられ、自然と涙が浮かんだ。ヴィクトルの瞳が怒りに燃えている。
「ひ、ぐ、うう、ぐ」
必死にヴィクトルの指をはがそうとするが、一般人のユウリが力で彼に敵うはずもない。段々と意識がかすみがかってくる。
「びく、とる……」
つつ、と涙が頬を伝う。怒りよりも悲しみが勝った。ヴィクトルが自分を殺そうとしている。いつだって真摯にユウリの言葉に耳を傾けてくれていた彼が、怪物のように見える。眼差しから慈しみの色が消え失せ、ただただ氷の刃のような冷たさと鋭さだけがあった。
自分の言葉が、届かない。
耳を貸そうとすらしてくれない。
ヴィクトルはユウリを裏切り者だと決めつけている。騙されたと思い込んでいる。その事実がユウリの胸をずたずたに切り裂く。
(――もう、いいや)
激しい疲労感と倦怠感が全身を包む。こうなることなど最初からわかっていたのだ。わかっていたのに期待してしまった。ヴィクトルなら最後まで自分を見捨てないでいてくれるかもしれないと。だが結果はこれだ。
ヴィクトルはユウリを信じてはくれなかった。ユウリの味方でいることよりも、ユウリを疑うことを選んだ。
(もう嫌だ……)
他人の顔色をうかがうのも、周りに怯えながら生活するのも、親しい人に傷付けられるのも、もうたくさんだ。
ユウリは抵抗するのをやめた。
殺すならひと思いに殺せばいい。
走馬灯が脳裏をよぎる。思い出すのは育ての親と過ごした数年間のこと。そしてヴィクトルと過ごした数カ月間のことばかりだった。ユウリは唇をゆがめた。
ヴィクトルに殺されそうになっているのに、まだ心の底では彼を慕っている自分はなんて愚かで哀れな生き物だろう。
(窒息死した死体って醜いんだっけ……溺死するよりはマシかなあ。お葬式、なんてしてくれるわけないか。そりゃそうだよ。あはは)
そんなことをつらつら考えていると不意に腕の力が弱まった。ユウリはぼんやりとヴィクトルを見上げる。ヴィクトルは苦悶の表情を浮かべていた。
「殺さないの……?」
問えばギリリと歯軋りする音が聞こえた。
「俺は、軍人だ」
歯の隙間から呻き声が漏れる。ユウリは首を傾げる。ヴィクトルの言いたいことがわからない。
「軍人が民間人に私刑を加えるのは、法律違反だ」
「あなたの口から出てくる台詞とは思えないね」
ルールは破るためにあるものだと常日頃から吹聴しているヴィクトルが規律を重視するような発言をしているのがおかしかった。
「ユウリ……嘘だと言ってくれ」
「…………」
先程とは打って変わって弱々しい調子で訴えてくるヴィクトルをユウリは冷めた目で眺めた。ヴィクトルの声は震えていて、今にも泣き出しそうだ。
理性が戻ってきて怒りが落ち着いたらしい。ユウリはそっと自身の喉元に触れる。あれだけの力で首を絞められたのだから痣ができているに違いない。
「お前はこの町の善良な市民で、ただの灯台守だ。その通りだと言って、ユウリ。そしたら、そしたら俺は……」
どうするというのだろう。ユウリを殺そうとした事実は消えないのに。
ユウリはにっこりと笑う。意識して歯をむき出しにする。ヴィクトルを真似て太陽のようにまぶしい笑みを彼に浴びせる。
「残念でした」
幸せな日々はいつだって呆気なく崩れ去る。ないものねだりはしないと決めて生きてきた。
「僕は根っからの海賊だよ。人を殺したこともある。そんなこと知りもしないで僕に懐いてくるヴィクトルは滑稽だったよ。僕を楽しませてくれてありがとう」
さらば愛しき日々よ。ユウリは静かにこうべを垂れた。



灯台守の青年が捕まって投獄されたという噂はすぐに町中に広がった。住民の反応は様々であからさまに顔をしかめる者もいれば、困惑する者や冤罪だと憤る者もいた。
ヴァノヴァの住民の意見は予想外にも真っ二つに割れていた。ユウリは無罪だと主張する者と、ユウリは真実海賊の一味だと主張する者がいる。
本人は自分が海賊であり、人殺しであることを認めている。裁判になればおそらく極刑がくだされるだろう。しかし真実が定かでない内は裁判を開くこともできない。
(どうやって口を割らせようかなあ)
カツカツと軍靴の踵を鳴らしながらクリスはヴァノヴァ砦の内部を移動していた。地下通路へと続く階段を足早に降りていく。
現在ヴァノヴァ砦の地下牢には二十人弱の犯罪者が収容されている。彼らは鉄の檻の向こうから罵声と口笛を響かせてクリスを歓迎してくれた。
殺意のこもった視線を受け流し、クリスはユウリが囚われている牢の前に立つ。ユウリはベッドに寝転がってぼんやりと天井を見上げていた。
「はあい、ユウリ。僕のこと覚えてる?」
クリスはあえて朗らかに話しかけた。ユウリの肩がぴくりと揺れる。ゆっくりと首を巡らせる。クリスの姿を認め、彼が口元をほころばせる。
「こんにちは、クリス。あのときはどうもありがとう」
あのときとは砦の中に入れなくて困っていた彼を助けてやったときのことを指しているのだろう。
「何しにきたの? 僕と世間話をするために来たわけじゃないよね?」
ユウリが微笑を浮かべたまま首を傾げる。これは……手強い。クリスは眉根を寄せた。今のユウリは完璧に心を閉ざしてしまっている。彼の真意を聞き出せるかどうか怪しい。
「俺の友人がね、だいぶ参ってるんだよ。君のことで」
「…………」
ユウリの顔から微笑みが消えた。ベッドの上で身を起こした彼は能面のような無表情だ。クリスはユウリの一挙一動を観察する。眉の動き、指先の動き、目線、何一つ見逃すつもりはない。
「君がここに捕まってから不眠不休で仕事をしてる。倒れて仕事して倒れて仕事しての繰り返しだ。あのままじゃ彼は……」
近い内に駄目になる。その事実を率直に口に出すのはためらわれ、クリスは目を伏せた。
ヴィクトルはクリスにユウリの身辺調査を命じた。過去にヴァノヴァで何があったのか。ユウリが人を殺したというのは真実かつまびらかにしてほしいと。
ユウリをヴァノヴァに連行してきたとき、ヴィクトルの顔は真っ青だった。彼はひどく取り乱していて、普通ではなかった。あの男があんなふうに狼狽するところをクリスは今まで見たことがなかった。
「ヴィクトルは、自分を責めてる。ユウリを信じたいのに信じられなかった自分を恥じて、ユウリの無実を証明するために馬車馬みたいに働いてる。君が怒るのはわかる。でももう許してあげてもいいんじゃない?」
「僕は怒ってない。諦めたんだ」
クリスは息を呑んだ。ユウリが膝の上で拳を握る。手の甲に血管が浮くほど強く。
「もう疲れた……疲れたんだよ。もう終わりにしたいんだ。何もかも」
ユウリの瞳には生気がなく、幽鬼のようなありさまだった。彼は絶望しきっていた。生きようとさえしていない。クリスは唐突に理解した。彼は死を願っている。楽になりたがっている。だから申し開きも弁明もしない。ただ沈黙を貫いている。
クリスはため息をついた。仕方がない。彼の傷を抉るような真似はしたくなかった。だが彼の本音を引きずり出すには、他に方法がなかった。
「僕はこの数日、ずっと君のことを調べていた。過去に何が起きたのかおおよそ把握している。よく聞いて――ユウリ。ボリスが、君の養い親が死んだのは、君のせいなんかじゃない」
ボリス。その名前がユウリに与えた影響は絶大だった。ユウリが目をかっと見開き、全身をぶるぶると震わせる。頭をかきむしり、目を血走らせながらユウリは大声で叫んだ。
「違う違う違う! 僕のせいだ! ボリスが死んだのは僕のせいだ! 僕がボリスを殺したんだ! 僕がいなければボリスは死なずにすんだんだ!」
痛ましい魂の叫びだった。ユウリが壁に頭を打ちつけ始める。クリスはぎょっとした。
「やめろ! やめるんだユウリ!」
迷ったのは一瞬だった。クリスは扉の鍵を外し、牢の中に足を踏み入れる。じたばたと暴れるユウリを背後から羽交い絞めにしてなんとか身動きを封じる。
「ボリスを殺したのはこの町の子供たちだ」
耳元でささやくと、ユウリの動きがぴたりと止まった。
「この町の悪意が、君の養い親を殺した。本当は憎くて、憎くて、たまらないはずだ。俺たちのことも。でも、君は誰のせいにもしなかった。これまでずっと自分一人で抱え込んで生きてきた。なぜ?」
「ボリスが……言ったんだ」
うわごとのようにユウリがつぶやく。彼はどこか遠くを見つめていた。昔を懐かしむように。
「誰も悪くない。だからお前は誰も憎むなって。俺のことはさっさと忘れて、幸せになれって……それが最後の願いだったから、だから僕は……っ!」
「――ずっと頑張ってきたんだね。灯台に引きこもって、人と関わらないようにして、そうやって自分の心を守ってた」
ユウリの顔がぐしゃぐしゃにゆがむ。クリスはそっと彼の拘束を解いた。ユウリがよろよろと檻のほうに歩いていく。檻の向こう側にヴィクトルが立っていた。
「本当は俺たちが嫌いだったんだろう? 嫌いすぎて生きていけなくなるほど苦しかったんだろう? ユウリ。お願いだ。お前の心の声を聞かせてくれ」
「………きらい、だ」
「うん」
「みんな、みんな、だいっきらいだ」
「ごめん」
「きらいだ、きらいだ、きらいだ、だいっきらいだ。ボリスの代わりに僕が死ねばよかった! なんで生きてる? なんで僕は生きてるんだよ!? 優しくされる理由なんかどこにもないのにっ!!!」
ユウリの叫びがびりびりと空気を震わせる。クリスはヴィクトルに目配せして牢の外に出た。入れ代わりでヴィクトルが中に入る。床にくずおれてうわあああ! と泣き叫ぶユウリをヴィクトルは強く抱き締めて離そうとしなかった。


最初からずっとユウリの根底にあるのは人間不信だった。他者を拒絶して誰も踏み込ませなかった。だから火傷を負ったのは自業自得だとヴィクトルは思う。
ユウリが泣き止むのを待って三人はヴィクトルの執務室に移動した。囚人を勝手に牢から出したとなればお咎めを食らうかもしれないが、そうなる可能性は低いとヴィクトルは踏んでいる。
裁判をやったところで情状酌量の余地ありで無罪放免になるだろう。それ以外の結果を出させる気もない。
「僕は奴隷だったんだ。物心ついたときから海賊船に乗ってた」
ソファに座って頑なにうつむいていたユウリがぽつ、ぽつと過去を語り始める。ようやく腹をくくったらしい。
「髑髏の痣は奴隷だって証。……人を殺したり、物を盗ったりは、してない。でも、目の前で殺されそうになってる人を、助けなかったことはあるよ」
「それは……」
ユウリのせいじゃないとは口が裂けても言えなかった。非力な子供が野蛮な海賊共を相手取って何かできるわけもない。しかしユウリが今も罪の意識にさいなまれているのは事実だ。ユウリの苦しみはユウリにしかわからない。安易な共感や同情は相手を一層孤独にするだけだとヴィクトルは知っている。
「あの頃は毎日お腹を空かせてた。果物の芯だろうと野菜の屑だろうとなんでも喜んで食べてたよ。休む間もなく働かされて、殴られて、蹴られて。死んだほうがマシだっていつも思ってた。でも、ある日ひどい嵐が来て……僕は波にさらわれた」
ユウリは海に落ちたが近くを漂っていた板切れにしがみつき生き延びた。何日も沖を漂い、そしてヴァノヴァに辿り着いた。
「砂浜で倒れてた僕を拾ってくれたのがボリスだった。ボリスはそのまま僕を引き取って育ててくれた。だけど……」
ユウリがぐっと下唇を噛みしめる。壁に背を預けて話を聞いていたクリスが言葉の先を引き取った。
「それが周囲との軋轢を生む原因になった」
「……そう」
ユウリが両手を組んで背中を丸める。迫りくる恐怖と憎悪と憤怒から身を守るように。
「僕の意思じゃなかったとしても、僕が海賊船に乗ってたのは事実だ。僕は町のみんなに疎まれてた。ボリスが僕を引き取るって決めたとき、みんな反対した。ボリスはヴァノヴァの灯台守で、誰からも慕われてたから一層風当たりは強かったんだと思う」
「でもボリスは君を育てた」
「うん」
ボリスのことを思い出したのか、ユウリの表情がわずかにやわらぐ。ヴィクトルはほっと息をついた。先程からずっとぎりぎりの綱渡りをしているような気分だ。足を踏み外せばユウリ諸共奈落に飲み込まれてしまう。
「ボリスは僕を本当の息子みたいに思ってくれてた。髑髏の痣もかっこいいって褒めてくれた。ボリスが褒めてくれたとき、初めて自分を好きになれたような気がした」
最初はいちいちボリスの顔色を伺っていたという。彼の機嫌を損ねればすぐに拳や蹴りが飛んでくるのではないかと思って、許可がなければ何もできなかったと。優しいのは最初だけですぐに自分が嫌になるに違いないと。
ユウリには何も取り柄がなかった。ぐずでのろまで間抜けだった。なんの役にも立たないユウリをどうしてボリスが可愛がってくれるのかわからなかった。
「あるとき、思いきって聞いてみたんだ。どうして僕を息子にしたの? って。ボリスったらおかしいんだ。お前は嵐の海を漂流して生き残った幸運の持ち主だ。お前に恩を売っとけば必ず俺にも幸運が訪れるに違いないって。そんなことを真面目に言うんだ。それから、かな。僕はここにいていいんだって思えた」
今は何もできなくていい。いつか親孝行できるような人間になろう。ボリスに自慢の息子だと言ってもらえるような立派な人間になって恩返しをしよう。やっとユウリが前向きに生きる決心をした矢先に事件は起こった。
「買い出しに行ったんだ。僕とボリスの二人で」
ユウリの顔から笑みがはがれる。目が虚ろになる。果てしなく深く暗い穴を彷彿とさせる目だった。
「量が多かったから、待ち合わせ場所を決めて二手に分かれた。先に買い物を終えたのは僕だった。待ち合わせ場所でボリスを待ってたら、急にガツって音がして視界に火花が散った」
予期せぬ痛みにユウリは頭を抱え、うずくまった。手の平にぬるい何かが触れた。なんだろうと思って見てみると、それは血だった。ユウリは頭から血を流していた。足元には拳大の石が転がっていた。
「出ていけ! 野蛮な海賊め!」
遠巻きにこちらを眺めていた子供の内の一人が叫んだ。ユウリが海賊船に乗っていたこと、体に髑髏の痣があること、今はボリスのもとで暮らしていることは住民の誰もが知っていた。
子供は他者からの影響を受けやすい生き物だ。大人たちがユウリを忌み嫌うから子供たちもまたユウリを嫌悪していた。拾った石をぶつけてくるくらいには――。
「三、四人いたんじゃないかな。最初は一人だった。最初の子が石を投げるのをやめなくて、周りの子も一緒になって石を投げ始めた。僕は丸まって耐えることしかできなかった」
暴力に慣れた体は急所さえ無事なら命の危機はないと知っていた。下手に刺激をすればもっとひどくなる。ユウリは縮こまって憎悪の嵐が過ぎ去るのを待っていた。けれど。
「突然、痛みがなくなって。顔を上げたらボリスが僕の前に立ってた」
両手を振り回し、かんかんになってボリスは叫んだ。何しやがんだこのガキ共っ!! と。雷鳴のような大喝に子供たちは震え上がった。
「で、動揺したんだろうね。子供の一人がボリスにも石を投げて、その石が彼の眉間に当たったんだ。血は出てたけど、ボリスは平気そうだった。ざっけんな! てめえらも同じ目に遭わせてやろうか!? ってボリスが怒鳴って」
子供たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。ボリスは泣きべそをかきながら地面に這いつくばっているユウリを見て、やれやれと肩をすくめた。
「両脇に手を入れられて、視界がぐんと高くなった。肩車、してくれたんだ」
ユウリの声が震え出す。ひっ、ひっ、と不自然な呼吸を繰り返す彼をヴィクトルもクリスも急かしたりはしなかった。必死に耐えている彼を追い詰めるような真似はできない。
「ボリスは家に着くまでずっと肩車してくれた。負けるんじゃねえって彼は何度も言ったよ。生きていればきっと楽しいことがある。ほら、顔を上げてみろ。何が見える? って……海が見えた」
陽光に照らされて美しく煌めく青い海。遠くで飛魚が跳ねていた。空はどこまでも高く澄んでいてユウリの傷付いた心を慰めてくれた。
「海がきれい、空がきれい、それだけで生きてる理由には十分だって言った。ものすごく安っぽい台詞だけど、なんか納得しちゃって。ボリスがいるなら大丈夫だって思った。何があっても乗り越えられるって。でも、」
ユウリが苦しげに眉根を寄せる。肩の位置がどんどん低くなる。膝の上で組んだ両手に額を強く押しつけて、ユウリは小さくつぶやいた。
「その日の夜に、ボリスが死んだ」
ユウリの声はひび割れて不気味だった。聞いているだけで鳥肌が立った。絶望という闇の中をさまよいながら生きてきた青年のこの世界に対する恨み辛みは計り知れない。
「眩暈がするって言って夕方からベッドに横になってた。晩ご飯も食べなかった。僕はボリスが心配でずっと付き添ってたけど、眠気に負けて少しうとうとしてた。ボリスが僕の頭を撫でたのはそのときだと思う。記憶があやふやではっきりしたことは覚えてない」
ユウリと自分の名を優しく呼ぶ声を夢うつつで聞いていた。ボリスのささやき声をまどろみの中で耳にした。
誰も悪くない。誰のせいでもない。お前は誰も憎むな。俺のことはさっさと忘れて、幸せになれ。難しいことを言ってるのはわかってんだ。でもなあ、俺は見たくない。自分を呪いながら生きてくお前なんか見たくねんだよ。すまねえなあ、ユウリ――。
「はっと我に返ったら、ボリスの息が止まってた。何度名前を呼んでも、体を揺さぶっても、彼は目を覚まさなかった。死因は明らかだよね。石の当たり処が悪くて彼は死んだんだ。誰もまともに取り合ってくれなかったけど」
ユウリが口角を持ち上げる。嘲るような笑みだった。自分自身と町の住民たち。彼は何もかもを馬鹿にして嗤っていた。
「石を投げた子供を誰も罰してくれなかった。役所にも海軍にも訴えたけど駄目だった。結局ボリスは心不全で死んだってことになった。どうしてそうなるのかまるでわからなかった。僕を庇ったりしなければボリスは死なずに済んだ。僕さえいなければ。あの嵐の夜に僕が死んでいればあんなことにはならなかった……!」
石を投げた子供たちにも罪はある。だが抵抗しなかったのはユウリ自身だ。ボリスが死ぬとわかっていたら、どんな手段を使ってでも逃げたのに。
「……それで全部?」
「そう。僕の話はこれでおしまい。それで? 僕はいつ死刑になるの?」
無感情な眼差しがヴィクトルに注がれる。ユウリの瞳に映るヴィクトルは思っていたよりも冷静な表情をしていた。
(そうだ。俺はヴィクトル・ニキフォロフだ)
優しさや甘言を差し出すだけなら誰にでもできる。だがユウリはそんな子供騙しは求めていない。優しさでは彼を救えない。ユウリの期待を裏切ってしまったただのヴィクトルでは、どんな言葉も届かない。
ならばヴィクトルは軍人としての職務を全うするまでだ。
「ユウリは死刑にならないよ。そもそも罪を犯していないんだから裁く必要がない。――死にたいなら一人で勝手に死ぬといい」
「ヴィクトル!」
クリスから非難が上がる。ユウリの瞳に驚愕と狼狽の色が浮かんだ。そんなことを言われるとは思ってもみなかったという顔だった。ユウリの顔がぐしゃぐしゃにゆがんでいく。
「……なら、そうする。あなたがそれを望むならっ」
ユウリが執務室を飛び出していく。
「待って! いいからユウリの好きにさせろ」
追いかけようとしたクリスをヴィクトルは止めた。必死に自分の衝動を抑えつける。本心では自分だって彼を追いかけたくてたまらない。しかしこれは賭けだ。ここで自分がユウリの邪魔をしてしまったら何も変わらない。
(ユウリ、どうか気付いておくれ……)
他者より多くの不幸を味わったとしても、それでも人は希望にすがってしまう弱くて愚かな生き物なのだ。


ヴィクトルの執務室を飛び出したユウリはがむしゃらに外を目指した。幸いにも廊下で人とすれ違うことはなく、ユウリは易々と砦の外に出られてしまった。足をゆるめる。肩で息をしながらユウリはじっと門を睨んだ。
(どうすれば抜けられる?)
門には見張りが立っている。ユウリの人相を見張りが知っている可能性は高い。もし呼び止められてしまったら逃げ切れる自信はない。
(いや、おどおどしてたら駄目だ。後ろめたいことなんて何もない)
人が詐欺師に騙されるのは、彼らがあまりにも堂々としていて自信ありげだからだ。大胆な嘘は却って見抜きにくい。必要なのは度胸と事実を煙に巻く口の上手さだけだ。
(大丈夫。よし。行くぞ)
ごくりと唾を飲み込んで。ユウリは足を前に踏み出した。口を大きく開けて欠伸をしていた見張りの兵士がユウリを見つけて跳び上がる。
「お、お前っ! ユウリ・カツキ……っ!」
「たったの数日でだいぶ有名になったみたいだね」
ユウリは嫣然と微笑んだ。イメージするのは男を手玉に取る悪女だ。美しく、怪しく、男を喜ばせるのが上手い女。一夜限りの遊戯だと頭でわかっていても、選ばれたことが栄誉だと男が思うような女。
「そこ、通してくれる? 僕、仮釈放になったから」
「なんだと!?」
「当たり前だよ。僕が人殺しだっていうけど証拠は何もないんだし。自分から望んで海賊船に乗ってたわけでもない。僕を裁ける要素なんて何ひとつない」
言いながらユウリは笑い出しそうになった。どの口がそれを言うのか。自分で自分を裁こうとしているくせに無実を主張するなんて大いに矛盾している。
「ほら、どいて」
「っち……今の内に思う存分シャバの空気を吸っとくんだな」
暗に裁判ではどうなるかわからないとほのめかしてくる見張りにユウリは「ご親切にどうも」と素っ気なく返した。門を抜けててくてくと街道を行く。見張りが豆粒ほどの小ささになったところで、ユウリは詰めていた息を大きく吐き出した。
「はっ、はっ、はあ」
今になって動機が激しさを増し、膝が震える。耳の奥でやればできるじゃないかと自分を褒める声と、自分の浅ましさを笑う声が代わる代わる響いた。
ユウリは足を引きずるようにして前に進んだ。無性に海が見たくてたまらなかった。
(早く、早く、早く)
徐々に歩く速度が上がっていく。耐えられなくなってユウリは走り出した。四方八方から恐怖と嫌悪の混ざった視線が突き刺さるが、今は不思議と気にならなかった。
(だって、やっと終われる……)
港が見える。港から少し離れたところに愛すべき我が家がある。これで見納めだと思うと胸に木枯らしが吹いた。
ユウリは靴を脱ぎ捨てて裸足になった。砂浜に足を踏み入れる。砂粒が指の付け根をくすぐる。この感触がユウリは嫌いではなかった。
白い砂浜と、青い海と、同じ青い空。海にまつわる全てのものをユウリは愛していた。海の広大さ、美しさにはどんな苦痛も忘れさせる力があった。
養い親の影響もあるかもしれない。ボリスは一生を海に捧げると決めていた。長い航海へと繰り出す全ての人のために。
自分の命を還す場所は海だとユウリはずっと前から決めていた。そう。誰かに殺されるのではない。醜く無様な自分だからこそせめて幕引きだけはきれいな形で終えたい。
ユウリは一歩一歩前に進む。足が海面に浸かる。今日は天気がいいので海水はほどよい温度を保っていた。ユウリは久しぶりに無邪気な笑みを浮かべる。
こんな天気のいい日に死ねるなら、自分は幸せ者だ。ユウリはどんどん沖へと進んでいく。とうとう海面と胸の高さが同じになった。あと五歩も進めば全身が海水に包まれるだろう。
「――ユウリ」
自分を呼ぶ声が風に乗って届く。ユウリは睫毛を震わせた。ヴィクトルだ。必死に自分を追いかけてきたのか、いつもきれいに整えられている髪がぐちゃぐちゃになっている。顔は汗まみれで、とても悲しそうだった。
ユウリは「さよなら」と唇を動かした。太股を持ち上げて更に進もうとする。しかし。
「うそ、なんで……」
ユウリの意思に反して足はぴくりとも動かなかった。ユウリは愕然とする。
「なんでっ……!? なんでなんだよ!」
ずっと自分を責めながら生きてきた。ボリスの代わりに自分が死ねばよかったと思いながら生きてきた。そもそもあの嵐の夜に自分は死ぬ運命だった。だから終わりにしようと思ったのに――。
あはは、とユウリは乾いた笑い声をあげる。馬鹿みたいだ。本当に馬鹿みたいだ!
「さいていだ、さいていだ、さいていだ。まだいきたいとおもってるなんて……」
海賊船に乗っていたとき、毎日苦しかった。辛かった。楽になろうと思えばいくらでも楽になれたはずだ。凶器はどこにでもあったのだから。けれどユウリは死のうとはしなかった。だって狂おしいほどに恋焦がれているものがあった。夢見ているものがあった。
自分を抱き締めてくれる温もりを。惜しみなく愛を与えてくれる人を。眠れない夜に聞こえる優しい子守唄を。いつか自由な海に飛び出して、探しに行きたいと心の片隅で思っていた。
ボリスが死んだとき、ユウリは廃人一歩手前の状態に陥った。眠れぬ夜が続き、食べ物も喉を通らなくなり、ユウリはどんどん痩せ衰えていった。けれど町の人の声を聞いてしまった。灯台に火が灯らないので何日も船を出せていないと。流通が完全に止まってしまっていると。
自分にも何かできるような気がした。いや何かをしなければと強く思った。恋もせず、友人も家族も作らず、周りとの縁を切って一生を灯台で過ごせば償いになるのではないかと。
本当は心のどこかでわかっていた。ボリスは自分の死を受け入れていた。誰のせいにもしなかった。ユウリを庇ったのは彼の意思で、ユウリの意思は介在しない。きっと彼は満足していただろう。大事な一人息子を守れて安心して旅立っただろう。ボリスの死に顔はそれは安らかなものだった。
ユウリが死んでもどうにもならないことばかりだ。
ユウリは根っからの臆病者だった。自殺をしたくてもできなかったのだ。これまでずっとそうだった。心の奥底では生きたいと思っていた。そんな自分が浅ましくて恥ずかしくて惨めでどうしようもなくて。だから誰かの手で終わらせてほしかった。
じゃぶじゃぶと水飛沫の立つ音がする。いつの間にかヴィクトルがユウリの前に立っていた。彼は泣いていた。彼もまた傷付いている。
(僕が死んだらヴィクトルはどうなる?)
ふとそんなことを思ってしまった。彼が自分に対して特別な感情を抱いているのをユウリは薄々わかっていた。そして自分もまた彼を特別だと思っている。ユウリが死ねばヴィクトルは一生自分を責めるだろう。ボリスを喪ったユウリのように。彼にあんな悲しみを味わわせたいとは思わなかった。
だからといって自分を信じてくれなかった彼の手をもう一度取ることはできなかった。
「ヴィクトルのせいだ」
「そうだよ。俺のせいだ。何もかも」
「もう楽になりたかったのに」
「そうだね」
「頑張るのは疲れたのに」
「ごめん。ごめんねユウリ。それでも俺はもう一度ユウリに頑張ってほしいよ」
ヴィクトルが両腕を広げる。ユウリはゆっくりと彼に近付いた。彼の懐に額を強く強く押し付ける。
「死ねなかった」
「ユウリが死なないでいてくれて嬉しい」
「……でも無理だ。無理なんだ、もう。どうしても、」
「俺たちが……この町の人々が憎いかい?」
ヴィクトルがユウリの顔を覗き込む。海の色によく似た青い瞳はユウリのお気に入りだった。ユウリは鼻水をすすりながら頷く。
「ヴィクトルが僕の人生をめちゃくちゃにしたんだ……っ! あなたさえいなければ僕は、僕は、ずっと一人でいられたのにっ!」
「……ねえ、ユウリ。俺からひとつ提案があるんだけど」
ヴィクトルの両手がユウリの頬を優しく挟み込む。視界はぼやけているけれど、ヴィクトルがとびきり優しくて辛そうな表情をしているのはわかった。
「この町を出ていきなさい、ユウリ」
ユウリはヒュっと息を吸い込む。外の世界に飛び出すことなど今まで考えもしなかった。
「俺がユウリの平穏を、世界を壊したというのなら、責任を取る」
「どういうふうに?」
「軍人を辞めて俺が灯台守になる」
「なっ………!?」
「ユウリが帰ってくるまで毎日火を灯すよ。お前以外をベッドに誘ったりしない。ユウリがいつか俺たちのことを許してもいいって思える日が来たら、帰ってくればいい。ユウリが帰ってくる場所を俺が守るから」
ユウリはおそるおそるヴィクトルを見上げた。とても正気の沙汰とは思えない。けれど彼ならやるかもしれない。ユウリの心に新しい風を吹き込んだヴィクトルなら。
「ユウリを傷付けた代償にはとても足りないけれど……」
「一生帰ってこないかもしれない」
「それでもいいんだ。俺がそうしたいだけだから」
「…………そうだね。それもいいかもしれない」
ユウリは肩の力を抜いた。ヴィクトルのいないどこか。ここではないどこかで何かを見つけられたら、楽になれるかもしれない。非力だった自分のこと、自分を信じてくれなかったヴィクトルのことを許せる日が来るかもしれない。
「――僕はこの町を出ていく」
ユウリがきっぱり告げるとヴィクトルはやはり悲しそうに微笑んだ。


そろそろ日没の時間だ。真鍮色に染まった部屋を見回してヴィクトルは友人に言った。
「そろそろお開きだ。俺は仕事に行かないと」
「ほーんと、よくやるよねえ毎日毎日飽きもせず」
ティーカップのふちをクリスが爪ではじく。ヴィクトルとクリスは久しぶりに昼食を共にしていた。本日非番だったクリスが異国の珍しい茶葉を持ってきてくれたのだ。その茶葉は奇怪な緑色をしていたが意外なことに味は悪くなかった。極東の島国で手に入る緑茶という種類の茶葉らしい。
「あれから三年? 四年だっけ?」
「三年と五カ月」
クリスがピュウと口笛を吹く。こうやって彼が茶化すのはいつものことなので、ヴィクトルは肩をすくめるだけに留めた。
「あの子、今どこで何をしてるんだろうね」
「……さあね」
一ヶ月に及ぶ裁判が終わって。無罪放免が言い渡されるとユウリは少ない荷物をまとめてこの町から旅立っていった。出航の際はヴィクトルとクリスの二人で彼を見送った。
ヴィクトルは上層部の執拗な引き留めを全て無視して退役の手続きを済ませた。ユウリが寝起きしていた部屋はヴィクトルが使うことになり、灯台守の役目もヴィクトルが引き継ぐことになった。
――それじゃあ、僕はもう行くから。二人とも元気で。
またねともさよならとも彼は言わずに去っていった。あの日から三年が過ぎた。
ユウリからの音沙汰は一切なく、ヴィクトルはどこかで野垂れ死んでいるのではないかと時々心配になる。あるいは何もかも諦めて投げ出してしまったのではないかと。もう二度とユウリは戻ってこないかもしれないと。
それでもヴィクトルはユウリの帰りを信じて待ち続けている。それが彼と交わした約束だからだ。
「ユウリならきっと元気でやってるよ」
「そうだね……そうだといいよね」
ずっと自分を呪いながら生きていたユウリが屈託なく笑えるようになっていたらいい。彼がいつも背負っていた影が消えていればそれでいい。会えなくても、ユウリが幸せならヴィクトルはなんだってよかった。
「それじゃあ僕はそろそろお暇するよ」
「ああ。今日はありがとうクリス。また近い内に」
クリスがひらひらと手を振って部屋を出ていく。ヴィクトルはティーカップの片付けにかかる。キッチンに運んで水に浸けておく。洗うのは仕事のあとでもいいだろう。
背後でかすかにバタンと物音がした。クリスが忘れ物を取りに来たのだろうか? ヴィクトルは笑顔を作って振り向き、硬直した。
「…………ゆう、り?」
入り口で罰の悪そうな顔をして立っている青年にはあの子の面影があった。髪は伸びきってぼさぼさで。ださい縁眼鏡をかけている。麻のシャツとズボンという出で立ちで、肩にかけているずた袋はずいぶんくたびれていた。
「……ただい、ま。ただいま、ヴィクトル」
ヴィクトルはぎくしゃくとユウリに近付いた。頬をつねってみる。痛い。彼が恋しいあまり、自分の頭がおかしくなったのかと思ったがどうやらそうではなさそうだ。
「ユウリ? 本当にユウリなのか?」
「そうだよ。帰ってきたんだ。ヴィクトルのところに」
「ユウリ……っ」
感極まってヴィクトルはユウリに抱き着いた。ぎゅうぎゅう腕に力をこめる。いささか強すぎたらしく、背中をばしばし叩かれてしまった。
「痛い痛い痛いっ」
「あ、ごめん、つい!」
ヴィクトルは慌てて腕をほどいた。ユウリの肩に手を置いてまじまじと見つめる。本物だった。本物のユウリがそこにいる。しかし彼のまとう雰囲気はずいぶんと変わっていた。
「……どうして」
「ん?」
「どうして帰ってくる気になったの?」
勇気を振り絞ってヴィクトルは尋ねた。情けないことに声が震える。確かめるのは恐ろしかった。しかしこれをはっきりさせなければ自分たちは永遠に前に進めない。
ユウリは「そうだね」と頷いて目を細めた。
「僕はヴァノヴァを出て世界中を旅した。いろんな場所でいろんな人に会ったよ。だけどどこも僕の居場所じゃなかった。ずっとここに、ヴィクトルのところに帰りたかった。気付いたんだ。僕はあなたと一緒にいたかった。好きだった。愛してた。だから裏切られて悲しかった。でもそれはヴィクトルも同じだったよね」
そうだ。ユウリのことが大切で特別だったからこそ、頭に血が上った。彼に騙されていたことが悲しくて、悔しくて、憤ろしかった。
「僕のことを殺したいくらいに愛してた?」
「……過去形じゃない。今でも愛してる。ずっとこの日を夢見てた。ユウリ、ねえ、ユウリ」
ヴィクトルは跪いてユウリの手を取る。これでもかというくらい熱い眼差しを彼に送ると、ユウリは照れ臭そうにはにかんだ。
(きれいに、なった)
こんなに幸せそうなユウリをヴィクトルは初めて見た。楽しそうにしていてもどこか思いつめたような顔をしたユウリがなんの憂いもなく笑っている。ヴィクトルの望み通りに。
「あの日の愚かな俺を許してくれるかい?」
「――ヴィクトルのためなら僕は生きていける。ヴィクトルが笑ってくれるならもうなんだっていいんだ。僕はあなたが好きな僕を好きになりたい」
ヴィクトルにとってそれは最上級の告白だった。息ができなくなる。衝動に任せてヴィクトルは立ち上がった。ユウリのおとがいをすくいあげ、唇を重ねる。
「ね、ユウリ」
「んむ、ん、ふ、なに?」
「最初に好きになったのって俺のどこ?」
キスの合間に尋ねるとユウリの耳がぽっと赤く染まった。ユウリはなかなか答えようとしなかったがヴィクトルは辛抱強く待った。
「……目、かな。やっぱり」
「目?」
「夜空に輝く星みたいにきらきらしてて。宇宙を閉じ込めてるみたいだって思ったんだ。ヴィクトルの瞳は海の色だけど」
「ロマンチックだ。ユウリには詩人の才能があるよ」
ヴィクトルは唇をユウリの耳元に寄せた。意識して艶のある低い声を作る。
「ねえ、ユウリ。そんな素敵な宇宙も海もお前だけのものにしてみないか?」
忠犬よろしくずっと彼の帰りを待っていたのだ。ご褒美くらいねだったって罰は当たらないだろう。ヴィクトルがにっこり笑うと、ユウリは蚊の鳴くような声で答えた。
「お手柔らかにお願いします」
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