異国情緒

目を覚ますと雨音がやんでいた。勇利はまぶたをこすりながら窓の外を見る。レースのカーテンの向こう側。分厚い雲の隙間から針金のように細い光の柱がいく筋も降り注いでいる。
一緒に昼寝をしていたはずのヴィクトルの姿は寝室のどこにもなかった。勇利は眼鏡をかけるとリビングに足を向けた。
リビングにもヴィクトルはいない。マッカチンもだ。ローテーブルの中央に置いてあるメモパッドには文字が書きつけてあった。勇利は用紙を破り取ると伝言を声に出して読み上げた。
「雨が上がったからマッカチンの散歩に行ってくるよ! ではここでクイズだ。俺は今どこにいるでしょう? 携帯に送った写真がヒントだ、か。ふふっ」
ずいぶんと遠回しなデートのお誘いである。勇利は口元をほころばせた。
ヴィクトルと勇利の間にあるものがただの師弟愛ではなくなってから、ヴィクトルは時々クイズと称してこういう遊びを仕掛けてくるようになった。
この街のどこかにいるヴィクトルの居場所を写真を手掛かりに探し当てるゲームだ。時には勇利が仕掛け人の側に回ることもあるし、リンクメイトを巻き込んで大々的にやることもある。
このゲームが行われるのは大抵誰かが、親しい友人や家族や恋人に紹介したいほどとびきり素敵なスポットを見つけたときだった。
今日のヴィクトルはどんな魅力にあふれた場所を発見したのだろう。勇利はわくわくしながら出掛ける準備をした。
玄関で靴を履き、メールに添付された四枚の写真を確認する。
一枚目はどこかの屋台でカラフルな果物を売っている黒人女性、二枚目はベンチに座って日向ぼっこを楽しんでいる老夫婦、三枚目はバスストップで音楽を聴きながらバスを待っている高校生くらいの男の子、四枚目はどこかの建物の屋上で抜けるような青空を背負って白いハトの群れにパンくずをやっている金髪の少女、の写真だった。
一通り写真を確認して勇利はうなった。前々から思っていたがヴィクトルは写真を撮るのも上手い。彼がシャッターで切り取る一瞬は瑞々しい生気や活力にあふれていて、透明感がある。
彼がフィギュアスケーターではなくフォトグラファーの道を歩んでいたら、やはり華々しい成功を収めていたに違いない。
(プロの人に怒られそうだけど)
どうしても贔屓目で見てしまうのは仕方がない。
勇利はエレベーターに乗り込みエントランスホールに降り立った。
「こんにちは、アガフォン」
「やあ、出掛けるのかい?」
エントランスホールに常駐しているコンシェルジュに挨拶をすると彼は気さくな笑顔で応えてくれた。
「ヴィクトルを探しに行くんだ」
勇利が言うとアガフォンはにやりと笑った。
「例のゲームか?」
ヴィクトルと勇利のお遊びはこのアパートの住民全員が知っている。このゲームを始めた当初、ヴィクトルの行先が全くつかめなかった勇利が真っ先にやったのは彼らの知恵を借りることだった。
「どれどれ、俺にも写真を見せてくれよ」
勇利は笑って携帯を差し出した。
「二枚目と三枚目はわかるんだ。マッカチンの散歩のときよく行く公園にこのベンチがある。このバス亭は僕もよく使うとこだし……。でもこの屋台と屋上がさっぱりなんだ」
勇利の説明を聞きながらアガフォンがふんふんと相槌を打つ。睨むように画面を見つめていたアガフォンはややあってから何かに気付いたような表情を浮かべた。
「待てよ。今日は金曜日だよな? この女、フリーマーケットで見かけたことがあるぞ」
「ほんと? じゃあ……」
「マーケットに行って四枚目の写真を見せれば居場所がわかるかもしれないぞ」
「ありがとう! 早速行ってみる!」
勇利は喜び勇んでアパートの外に出た。
マーケットまでは少し距離があったが雨上がりの街を散策したかったので、勇利は徒歩で向かうことを選んだ。
石畳のあちこちにできた水たまりが、雨に濡れた建物の輪郭や屋根のふちが、きらきらとはちみつ色の陽光を反射している。
勇利は街が奏でる雑多な音楽に耳を傾けながら、ゆっくりと歩いた。やがてマーケットが見えてくる。
物売りの威勢のいい呼び声、渋い顔をしながら熱い値引き合戦を繰り広げる客と商人、肉の焼ける香ばしい匂い、新鮮な魚の生臭さ、鬼ごっこをしている子供たちの笑い声、観光客の財布や持ち物を虎視眈々と狙うスリたち。
様々な思惑が交錯し、マーケットは独特な活気に満ちあふれていた。
人混みに混ざりマーケットを練り歩く。きょろきょろ辺りを見回していると、写真に映っていた黒人の女性を見つけることができた。
勇利は屋台に近寄り、レモンをふたつ買い求める。勇利が代金を支払うと、こちらの顔をじっと見つめていた彼女が口を開いた。
「あんた、ユウリ・カツキ?」
訛りがきつい。蓮っ葉な物言いはどことなく姉に似ている。勇利が訝しく思いながらうなずくと、彼女はやっぱりと目を細めて微笑んだ。
「さっきヴィクトルが来たよ。飼い犬も一緒だった。もう少ししたらあんたも来るだろうからよろしくってさ」
「ヴィクトルそんなこと言ったんですか……」
見ず知らずの他人を巻き込むのはさすがにやめてほしい。ちなみに彼女がヴィクトルや勇利の名前を知っているのは不思議でもなんでもなかった。
勇利が顔を赤くして縮こまっていると、彼女はある方向を指し示した。
「ヴィクトルならあっちのほうに歩いてったよ」
「あ、ありがとうございます」
恐縮しつつ勇利は礼を言い、そそくさとその場をあとにした。歩きながら四枚目の写真に映っている建物を探すが、なかなか見つからない。
立ち止まり頭を悩ませていると「あの、すみません」と控えめな声が勇利を呼んだ。
顔を上げると一組のカップルが勇利を注視していた。声をかけてきたのは男性のほうだった。
「僕に何か?」
用件を尋ねるが男性は恥ずかしげにもじもじするばかりで何も言ってこない。それを見かねたのが女性が「まったくもう!」と柳眉をひそめた。
「彼、あなたの大ファンなの。よかったらサインをいただけないかしら? 親愛なるニックへって」
「レ、レベッカ! そんな急に。失礼だろ」
「何よ。ハネムーンでここに来たいって行ったのニックじゃない。私はベニスに行きたかったのに。あわよくばって思ってたの、私にはお見通しなんだから」
「新婚さんなんですか? おめでとうございます」
勇利が祝福するとレベッカは喜色満面の笑みを浮かべた。
「ありがと!」
ぶつくさ文句をこぼしているが、彼女は幸せそうだった。愛している人と特別な時間を過ごせれば場所なんてどこでもいいのだろう。
勇利は微笑ましく思いながら、手渡されたマジックでニックのTシャツの背中側にでかでかとサインを書いた。勇利がサインを書いている間、ニックは歓喜に打ち震えていた。
「そうだ。お礼代わりにちょっと聞かせてほしいことが。あなたたちはこの場所をご存知ですか?」
尋ねてみたものの勇利はさして期待していなかった。しかし写真を見た二人はぱっと瞳を輝かせた。
「知ってるわよ!」
「さっき僕たちが通り過ぎた場所だ」
「ここをまっすぐ行くともう誰も住んでいないアパートがあるの」
「そこの屋上で撮った写真だと思うな」
「中庭でカフェもやってたわ」
「コーヒーとパウンドケーキが絶品だった」
どうやら無事にヴィクトルを見つけられそうだ。勇利はニックとレベッカに別れを告げて走り出した。カフェはすぐに見つかった。
茶色のレンガ塀で四角く区切られた敷地内に数本のパラレルが立っている。パラレルの下に真っ白な丸テーブルと椅子が配置され、敷き詰められた石のタイルの隙間から草花が顔を出している。
ヴィクトルは椅子に腰を下ろしてコーヒーを飲みながら勇利を待っていた。
マッカチンが勇利の姿を見つけて立ち上がる。
「ワン! ワン!」
「来たね勇利!」
ヴィクトルが立ち上がって両手を広げる。勇利は迷うことなく彼の胸の中に飛び込んだ。厚い胸板に顔を埋めて、お日様の匂いを堪能する。
ハグを終えると勇利はヴィクトルの隣に腰を下ろした。
「今日はちょっと遅かったね」
「うん。全然見当もつかなかった。ここ、いいね。前から知ってたの?」
「いや? 俺も今日初めて知った。マニラが教えてくれたんだ」
「マニラって?」
「果物屋の店主。黒人の」
「あの人かあ。そういえばさっきファンに会ってね、サインを頼まれたよ。ハネムーン中の夫婦だった」
「ちゃんとサインしてあげた?」
「もちろん。いい思い出になるといいけど」
「なるさ。大好きな勇利のサインをもらえたんだから。いいなあ。俺も勇利のサインが欲しい」
「何言ってるんだか」
勇利は笑ってヴィクトルの唇に人差し指を当てた。
「サインだけで満足できるの? ヴィクトルは」
「わーお。そんな挑発をしていいのか? 明日がハードになるぞ」
「僕の体力なめないでよね。……僕、ここのパウンドケーキ食べたいなあ。絶品なんだって」
勇利が小首を傾げてヴィクトルの顔をのぞき込むと、彼は両手を上げて降参の意を示した。
「許す! ただし俺とはんぶんこだからね!」
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