勝負下着が決まらない

 今夜はなんだか漂う空気がいつもと違う。家の中がいつもよりずっと静かで、がらんとしていて、しんみりしている気がする。
 そんなふうに思うのは僕が今途方もない寂しさを感じているからかもしれない。
 ベッドに横になり、掛布にくるまったまま手だけで枕の横に置いたはずの携帯を探す。指先が硬質な何かに触れる。つかんでたぐり寄せる。
 携帯の電源ボタンを押すと、ぱっと液晶の明かりがついて四桁の数字が画面に浮かんだ。0236。午前二時三十六分。
 朝が来たらヴィクトルは飛行機に乗ってロシアへ帰ってしまう。
 世界選手権が終わって僕らは無事にオフシーズンを迎えた。ホームリンクをロシアのサンクトペテルブルクに移すにあたって、僕とヴィクトルは何度も話し合いの席を設けた。ときには家族や、スケ連の人や、ヴィクトルが個人で契約しているエージェントが話し合いに加わることもあった。
 ヴィクトルの復帰戦をどこに定めるか。住むところはどうするのか。いつロシアへ渡るのか。
 一番難航したのは僕の住む家を決めることだった。
 僕は最初からチムピオーンの寮に入るつもりだった。けれどこれを知ったヴィクトルは激怒した。
 どうして俺の家に来ないんだ!? と寮の契約書を発見したヴィクトルにものすごい剣幕で詰め寄られたときは、危うくちびりそうになったほどだ。
 美人は怒ると迫力があって本当に怖い。鋭い眼光で睨まれたとき、僕は殺されるんじゃないかと半ば本気で思ってしまった。
 ゆーとぴあかつきにヴィクトルが居候するのと、僕がヴィクトルの家に居候するのとではわけが違う。
 ここには僕の家族がいるけど、あっちにはいない。マッカチンがいるとはいえ、サンクトペテルブルクに行ったら僕が頼れるのはヴィクトルだけになる。
 僕がヴィクトルの家に住み着いたりしたらヴィクトルの気が休まる暇がないじゃんか。二十四時間三六五日僕という存在を気にかけなきゃならなくなる。
 好きなときに恋人や友達を家に呼べなくなるし、ヴィクトルの夜遊びの頻度が行き過ぎていたら文句だって言ってしまうに決まってる。
 人と人とが良好な関係でいるにはほどよい距離感が大切なんだよ――と説いてもヴィクトルは頑として聞き入れなかった。
 勇利に一人暮らしなんて絶対無理、あっちじゃ英語話せる人少ないのに甘く考えすぎ、長谷津で受けた恩を返したい、勇利に何かあったら俺はトシヤたちに顔向けできない、勇利が一緒に暮らしてくれないなら俺も寮に住む、などなど。
 ヴィクトルが子供のような駄々をこね始めたところで僕は折れた。
 ヴィクトルの言い分はあながち間違っていなかった。僕が生まれ育ったこの家は温泉ということもあり、営業時間が長く連日連夜人の気配が絶えない場所だったし、デトロイト時代はずっとピチット君がいてくれた。
 ヴィクトルが俺の家においでよと言ってくれたとき、本当は安心したのだ。寮で一人暮らしなんて始めたらホームシックで暴飲暴食の末、子豚になっていた可能性が非常に高い。
 ヴィクトルに少しでも鬱陶しいと思われたら僕のガラスのハートは粉々に砕け散ってしまう。それが嫌で寮に入ろうとしたのだけど、ヴィクトルに変な遠慮はやめろと言われてしまえば、それ以上反対意見を唱える気にはなれなかった。
 色々なことが次々と決まっていき、あとに残っているのはもうヴィクトルの帰国と、僕の渡露だけだ。
「やっぱり辞退すればよかったかな……」
 本当はヴィクトルについて僕もロシアに渡ってしまいたかった。けれど僕は国別対抗戦に出場が決まっていて、ホームリンクを移すのはそのあとのほうがいいという結論に落ち着いたのだった。
 国別対抗戦なんて一種のお祭りみたいなものだ。本当は出なくたってよかった。でも昨年散々世間を騒がせた罰だ、キャプテンとしてチームを引っ張っていってくれ――なんてスケ連の偉い人に言われたら断れなかった。
 ヴィクトルは一足先にロシアに戻り、準備万端整えて僕が来るのを待つという。
 離れるのはちょっとの間だけだとしても、ヴィクトルが長谷津に来てからはほとんどずっと一緒だったのだ。コーチとしてヴィクトルはずっと僕を支えてくれていた。その瞳に僕を映して、僕だけに愛情を注いでくれていた。
 長谷津とロシアではヴィクトルを取り巻く環境は一八〇度違う。少し離れている間にヴィクトルは僕の知らないヴィクトルになってしまうかもしれない。それが怖い。
 枕を引き寄せてぎゅうぎゅうと抱き締める。そうすればちょっとでも不安を減らせるかと思ったけど、これっぽっちも効果はなかった。目はすっかり冴えてしまって、とても眠れそうにない。
 どうしよう。ちょっとだけ外走ってこようかな。ヴィクトルにばれたら怒られるかな。寝坊するかもしれないし。でもこのままベッドの上でじっとしているのはしんどいな。
 どうしよう、どうしようと僕がぐるぐる考え込んでいると不意に廊下の床板がギシリと軋む音がした。思わず息を詰める。ギシ、ギシと床板を軋ませる足音は僕の部屋に近付いてきて止まった。建て付けの悪い木製の引き戸がガラ、ガラと重たげに開かられる。
 僕はゆっくりと上半身を起こした。
「ヴィクトル」
 予想通り、部屋の入り口に立っていたのはヴィクトルだった。
 ヴィクトルと目が合う。暗くて、遠くて、ヴィクトルがどんな表情を浮かべているのかよく見えない。
「勇利」
 でも僕を呼ぶヴィクトルの声は春の雨垂れに似た優しい響きを含んでいて、今ヴィクトルはきっと穏やかに微笑んでいるのだろうなと想像がついた。僕はヴィクトルマスターだから、口調だけで彼がどんな顔をしているかわかるんだ。
「うん」
「起こしちゃってごめんね」
「いいよ……僕も起きてたから」
「気が高ぶってるのか眠れなくて……ねえ勇利」
「なんでしょうか」
「一緒に寝ちゃ駄目……?」
薄暗がりの中、ヴィクトルがこてんと首を傾げるのが見えた。僕は何度か口の開け閉めを繰り返す。
「僕のベッド、狭いよ」
「知ってる」
「かび臭いし」
「そんなことない」
「ダニとかノミとかいるかも」
「禿げなければなんでもいい」
 あまりにもいい加減なことをヴィクトルが至極真面目な調子で言うものだから、僕は思わず噴き出しそうになった。
「じゃあ……お入りください」
 掛布の端っこをつまんで、体をベッドの隅に寄せる。なんとなくヴィクトルに背を向けてしまったのは気恥ずかしかったからだ。ヴィクトルが僕の体温を求めてくれたのが嬉しくて、にやける顔を見られたくなかった。
 ヴィクトルはそんなのお構いなしに空いたスペースに潜り込んでくると、背中から僕をぎゅっと抱き締めてきた。
 ヴィクトルの厚い胸板が僕の背中に密着する。不意打ちもいいとこで口から心臓が飛び出そうになった。
「もうすぐ朝が来るね……」
 ヴィクトルがささやく。ヴィクトルの熱い湿った吐息が耳にかかって僕はびくんと身をすくませた。
「帰りたくないなあ……ずっとここにいられたらいいのに」
 ヴィクトルは本気で長谷津に残りたがっているようだった。僕は思わず泣きそうになる。
「そんなの、駄目だよ。ヴィクトルは帰らなきゃ」
「なぜ……?」
「だって、だって、ロシアにはヴィクトルの帰りを待ってる人がたくさんいるし、それに、それに……ヴィクトルが帰ってくれないと、僕、宿無しになっちゃう……」
「……っふ」
一瞬の沈黙のあと、ヴィクトルは何がおかしいのかくすくすと笑い始めた。
「そうか、俺がいないと勇利は宿無しになっちゃうのか、そうかそうか」
「僕だけじゃないよ。マッカチンもだよ。だからヴィクトルはロシアにいてくれないと、困る……」
 最初は寮に入ろうとした僕がこんなことを言うのはずいぶん虫がいいと思う。でもヴィクトルはそのことには触れなかった。笑うのをやめたヴィクトルが僕の肩に顎をうずめてはーっとため息をつく。
「勇利とマッカチンを家なき子にはしたくないからね。……我慢するよ。大丈夫。我慢には慣れてるさ。ああ、早く勇利をみんなに紹介したいなあ。俺の自慢の弟子が来たよって。みんな勇利の美しさに骨抜きになる。勇利はあっという間に人気者になって、俺はヘリウムガスみたいな存在に成り下がるんだ」
「その例えわかりにくいよ」
「勇利はこんなときでも俺に厳しい」
ヴィクトルが肩を震わせてまたくすくすと笑う。
「それに……ヘリウムガスになるのは、僕のほうでしょ」
言おうかどうしようか迷って、結局僕は自分の不安を素直に打ち明けることにした。こんなときじゃないととても話せないと思ったから。
「帰国したらヴィクトルはあちこちから引っ張りだこになるでしょ。僕を構ってる暇なんか、なくなるよ。そういう意味ではヴィクトルの家に居候することにしてよかったのかも。マッカチン、ずっとにぎやかなところにいたから、一匹でお留守番させるのは可哀想……」
「俺は?」
「え?」
「帰国したら勇利を構う暇なんてなくなるくらい忙殺されるだろう俺のことは? 可哀想に思ってくれないの? あ、今のはもちろん比喩だから。俺は勇利を構って構って構い倒すつもりだからね。心配しなくていいよ」
「構い倒すって……ヴィクトルは僕がいなくても大丈夫でしょ」
「大丈夫じゃないよ」
 僕を抱き締める腕の力が強くなる。ドクンと大きく鼓動が跳ねた。ヴィクトルの声はゆらゆらと揺れていて、何かを切望しているようだった。
「大丈夫じゃないから、そんな冷たいことを言わないで……」
 僕が感じているのと同じくらいの寂しさをヴィクトルも感じてくれているのかな。そうなら僕はとても嬉しい。一人で帰国するヴィクトルを気の毒に思うけど、でも、嬉しい。
 僕のお腹に触れているヴィクトルの手をゆっくりと撫でる。ヴィクトルがハッと息を呑む音が聞こえた。
「ヴィクトルがずっと練習してきたリンクで滑るの、すごく楽しみ。想像しただけでわくわくする。早くヴィクトルと一緒に滑りたい」
 僕はよっこらせと寝返りを打った。暗闇の中でヴィクトルの宝石みたいな瞳が青く輝いている。僕が言いたいこと、ちゃんと伝わったかな。ずっと憧れていたリンクで滑れるのは最高だ。でも僕の隣にはヴィクトルがいてくれないと嫌だ。ヴィクトルがいないなら、どこで滑ったってなんの価値もないんだ。
 僕が見つめているとヴィクトルのまなじりが不意にゆるんだ。どろどろにとろけた眼差しが僕を射抜く。そんな甘やかな目で見つめられると、全身の細胞がさざめいて落ち着かない。ざわざわする。
 ヴィクトルがおでこを僕のおでこにくっつけてくる。
「勇利……俺とお前の関係はただのコーチと生徒だけれど、俺は――恋人を迎えるつもりでお前を待ちたい」
「……えっ」
「俺の家に居候するんじゃなくて、俺と同棲するって気持ちで、勇利にはサンクトペテルブルクに来てほしい。……いいかい?」
 ヴィクトルの声がかすかに震えた。僕に拒絶されるかもしれない恐怖と不安がヴィクトルの瞳の中に見え隠れする。それでもヴィクトルは勇気を振り絞ったのだ。自分が傷付くことを恐れずに。
「……いい、よ」
 考える前に僕の唇は言葉を紡いでいた。僕のために勇気を振り絞ってくれたヴィクトルをどうにか安心させてあげたくて、彼の胸板に頭をこすりつける。
「……いいよって……勇利ちゃんとわかってる?」
「何が?」
 ヴィクトルを見上げる。ヴィクトルは自分から告白してきたくせに、ひどく困ったような顔で僕を見ていた。
「俺は勇利に欲情するってこと。勇利をオカズに抜いてるんだぞ。コーチという立場を利用して、下心こみで勇利に触れてた。そんな俺が気持ち悪くないの?」
「気持ち悪くない……嬉しいよ。でもヴィクトルのオナニー事情は知りたくなかった……」
 本当にそれだけは心の底から知りたくなかった。でもお相子だ。最近の僕のオカズはもっぱらヴィクトルだったんだから。
 僕がそれを言うとヴィクトルは酢を飲んだような表情を浮かべた。僕はヴィクトルに微笑む。
「僕が僕の心をまるごとあげられるとしたら、相手はヴィクトルしかいないよ。僕はヴィクトルがいい。僕の全部をヴィクトルにあげたい。ちゃんとわかってる。僕はヴィクトルを……あ、あ、あい、してる、から」
 そういう関係になりたいと漠然と思い始めたのはいつからだろう。わからない。でもそんなの重要じゃない。大切なのは今僕がどう思っているか。ヴィクトルがどう思っているかだ。
「僕もヴィクトルの全部が欲しい」
 僕がささやくとヴィクトルの睫毛が震えた。僕の不器用な告白はヴィクトルにちゃんと受け取ってもらえたみたい。ヴィクトルが花が咲いたみたいに口元をほころばせる。
「あげるよ。この心も体も全部勇利のものだ。勇利……愛してる。この先ずっとお前だけを愛すると誓うよ」
 午前三時九分。僕とヴィクトルは初めて恋人として唇を重ねた。甘く痺れるような情熱的なキスだった。

 ヴィクトルの乗った飛行機が段々と遠ざかっていく。飛行機雲が青空ににじんで、溶けて、霧散していく。その様を僕は国際線の送迎デッキでじっと見上げていた。
 僕と同じように誰かを見送りに来ていた人たちが、一人また一人と送迎デッキを去っていく。。にこやかに笑っている人もいれば、涙ぐんで鼻水をすする人もいた。
 飛行機雲が完全に見えなくなる頃、僕もようやく送迎デッキから立ち去る決心がついた。ヴィクトルはもう行ってしまった。いつまで待っても帰ってくることはない。
 ぽっかりと胸に穴が空いて、そこからすうすうと隙間風が入り込んでくる。
 しばらくヴィクトルと会えないのはものすごく心細い。でもしっかりしなくちゃ。次会ったとき、ヴィクトルに腑抜けたスケーティングを見せるわけにはいかないから。
 博多に寄ろうかどうしようかちょっとだけ迷って、僕は唐津に戻ることにした。今すぐリンクで滑りたい。リンクで滑れば、少しは気分も晴れるはずだから。
 福岡空港から地下鉄のホームに移動している最中、僕の携帯が震えてメッセージの着信を知らせてくる。携帯を確認するとヴィクトルからSMSが届いていた。今時の飛行機は機内でもWi-Fiの電波が飛んでいるから、携帯をネットに接続することができて、暇を潰すのに事欠かない。僕たちのようなしょっちゅう国内外を飛び回る人間にはありがたい話で、科学の力ってすごい! と感嘆せずにはいられない。
 足を止めてヴィクトルからのメッセージを確認する。短い英文でこんなことが書かれていた。

――勇利が俺の家に来たら、お前を抱くよ。覚悟して。

 メッセージを読む。手の甲でまぶたをこする。メッセージを読む。二度三度ぱちぱちと瞬きをする。メッセージを読む。深く息を吸って吐く。メッセージを読む。
「はああぁああああ!?」
 長い時間をかけて文章の意味を理解した僕はその場に跳び上がって叫んだ。道行く人たちが何事かと僕のほうを振り返る。やばいやばい。これじゃあただの不審者だ。危ない人だ。でも、だ、だ、抱くってなんだよどういうことだよセクハラだよこんなの! 何考えてるんだよヴィクトルっ!
 無意識に力いっぱいに携帯を握りしめていたらしく、ミシミシと携帯から割れるような音が聞こえてきて、僕はハッと我に返った。タタタタタッと文章を画面に打ち込んでヴィクトルに返信する。

――抱くって何!? 意味がわからないんですけど!

 一分もしない内にヴィクトルから返信が返ってきた。

――そのままの意味だよ。勇利トップやりたいの? なら俺がボトムやってもいいけど?

 そういう! ことじゃ! ない!
 むきいいいいっと僕は歯をむき出して地団太を踏む。確かに! 僕は昨晩! というか今日! ヴィクトルに告白しました! 僕の全部をあげたいとか言いました! よくあんな恥ずかしいこと言えたよね!? 馬鹿じゃないの僕!? 雰囲気に流されたからってヴィクトルの全部が欲しいとか! 馬鹿じゃないの!? あああぁああぁ……。
 僕は頭を抱えてその場にうずくまった。「ママーあの人変ー」「しっ、見ちゃいけません」幼稚園くらいの女の子と女の子のお母さんがお決まりなやり取りをしながら僕の目の前を通り過ぎていく。
 顔がものすごく熱い。今の僕、耳まで真っ赤になってるんだろうな。ほんと、馬鹿だ。僕も馬鹿だけどヴィクトルも馬鹿だ。馬鹿。馬鹿馬鹿馬鹿。
 僕はスケートを学ぶためにロシアに行くのに。恋愛を楽しむためじゃないのに。ヴィクトルに抱きたいと言われて喜んでる僕がいる。舞い上がってる。
 ヴィクトルとえ、え、えっちなことをするのは嫌じゃない。恥ずかしいけど興味はある。童貞の僕がトップをできるとはとても思えないから、ヴィクトルがトップをやるのだって、構わない。デトロイト時代、ゲイの知り合いは何人もいたから男同士のやり方もなんとなくわかる。
 でも、ヴィクトルはひどい。だって僕はしばらくヴィクトルに会えないのに、今こんなことを言われたら、どうしたって意識してしまう。ヴィクトルの温もりや体の感触を思い出して、落ち着かなくなって、切なくなる。
 そんなことを素直に伝えたら絶対ヴィクトルは調子に乗るだろうから、僕は続々と届くヴィクトルのメッセージを全部無視することにした。
 ヴィクトルは僕と同じくらいのじれったさやもどかしさを感じて苦しむべきなのです。ざまあみろ!
 地下鉄に乗り込んで僕は真っ直ぐ唐津に向かった。唐津駅からバスに乗ってアイスキャッスルはせつの最寄りのバス亭で降りる。携帯はしばらくヴーヴーと震えていたけれど、いつの間にか鳴らなくなっていた。
 てくてくと歩いていると数分もしない内にアイスキャッスルはせつの建物が見えてきた。階段を駆け上がってロビーに入る。ロビーにたむろっているお客さんたちの視線が一気に僕に集中する。僕は気にしない素振りをしながら、受付にいる優ちゃんに話しかけた。
「優ちゃん」
 スケート靴を棚にしまっていた優ちゃんがこちらを向いてぱあっと笑顔になった。
「勇利くん! ヴィクトルは? もう行ったの?」
 今日がヴィクトルの帰国日であることは周知の事実だ。僕はうんとうなずいた。
「今お見送りしてきたとこ」
「そっかあ。これから寂しくなるね。ヴィクトル、すっかり長谷津に馴染んでたもんね。あっちこっちで知り合い作ってさ」
「お別れ会で飲み仲間のおじさんたちが泣いてたもんね……ちょっと滑りたいんだけど、いいかな?」
 僕がおずおずと尋ねると優ちゃんは腕を組んで思案顔になった。
「今日土曜日だから結構混んでるけど……大丈夫?」
「軽く汗を流したいだけだから。スケート靴も持ってきてないし……」
 ただお見送りに行くだけなのにスケート靴なんて持っていったら絶対ヴィクトルが、俺のお見送りはスケートのついでなんだ勇利お前はなんて薄情な男なんだ、とか言い出して機嫌を損ねるとわかっていたから、スケート靴は家に置いてきていた。持ってこられるなら持ってきたかったけど。
 本気で滑るつもりはないことを優ちゃんに伝えると、優ちゃんは優しく微笑んでくれた。
「わかったよ。ヴィクトルが帰っちゃったのに、家でじっとなんてしてられないよね。好きなだけ滑ってきて」
 優ちゃんが僕のサイズのスケート靴を棚から出してくれる。優ちゃんにお礼を言って僕は更衣室に向かった。スケート靴は持ってこれなかったけど、トレーニングウェアは一式リュックの中に入っている。
 更衣室で着替えをして財布とスマフォだけ手元に残して荷物を全部ロッカーにしまう。これで準備は完了だ。
 更衣室を出て廊下を歩く。リンクに続く扉を開けると心地よい冷気が僕の頬を撫でた。慣れ親しんだ氷の匂いを思いきり吸い込む。清廉な空気に脳味噌が目覚めていく。体が芯から澄んでいく。
 丁度リンクは製氷中で、製氷機を操作していた西郡が僕を見つけて「よお」と声をかけてきた。僕は手をあげて西郡に応える。
「うわ、見て見て、勇利くんだ……」「嘘! 超ラッキー! サインもらえるかな」「やめときなって。勇利くんの邪魔しないほうがいいよ」「有名人生で見たの初めて」「同じ男とは思えん……」
 優ちゃんの言った通り、リンクサイドには結構な数の人がいた。お客さんたちが僕を見ながらひそひそとささやき声を交わす。でもありがたいことにサインや握手を求められることはなかった。
 ベンチに財布とスマフォを置いて準備運動をする。屈伸をしたり、手足をぶらぶらさせたり、丁寧に全身の筋肉をほぐしていると、不意に女の子たちの甲高い声が僕の耳を打った。
「えー彼氏と別れたの!? なんで!?」
「だってあいつマジで信じられないんだもん! ほんとサイテーのクソ野郎だよ!」
 僕から少し離れたところに高校生くらいの三人の女の子たちが固まって座っていた。ショートカットの女の子と、ポニーテールの女の子と、眼鏡の女の子。話の輪の中心にいるのは真ん中に座っているポニーテールの女の子のようだった。
「サイテーのクソ野郎って……何があったの? やっちゃんが付き合ってたのって滝川くんだったよね?」
 眼鏡の女の子が質問する。僕はなるべく話の内容が聞こえてこないように背を向けてみたけれど、無駄な努力だった。女の子たちの声は大きくて、盗み聞きをするつもりはないのに耳が会話を拾ってしまう。
「この前……滝川ん家に泊まりに行ったの。親が旅行で数日留守にするからって」
「えー嘘ー!」
 ポニーテールの女の子改めやっちゃんの話にショートカットの女の子がきゃーと可愛らしい悲鳴をあげる。
「それって、つまり、そういうこと?」
「うん……。学校からあいつの家に直行してさ、しばらくは滝川の部屋で漫画読んだりゲームしたりしてたんだけど、外が暗くなってきて、なんとなくそういう雰囲気になって……」
 話を聞いている内に僕は段々と居たたまれなくなってきた。どう考えてもこれは僕が聞いていい話じゃない。早く製氷終わらないかな……っていうか最近の高校生ってすごいんだな……。いや僕が普通じゃないだけなのかもしれないけど……。
「ベッドに押し倒されて制服脱がされたんだけど、滝川、なんて言ったと思う?」
「なんて言ったの?」
 眼鏡の女の子が興味津々というふうに問いかける。聞き上手だなあ、なんて思いながら僕はスケート靴に足を突っ込んだ。製氷がやっと終わったらしく、西郡が手で僕に合図を送ってくれる。
「なんだよこの下着。だっせえ。ババアが着てるのと一緒じゃん。萎えるわ……って言ったんだよ。ありえなくない!? 私初めてだったのに!」
 そのときの怒りを思い出したのか、やっちゃんの声が段々と大きくなる。ショートカットの女の子が「どーどー」となだめる声が背後から聞こえた。僕は靴紐を結ぶ振りをしながら、思わず女の子たちの会話に耳をそばだてる。
「私その日肌色のスポブラとパンツ着てたのね。いきなり誘われたから勝負下着なんて用意する暇どこにもなかったんだよ!? なのにあいつ、私の下着姿見てボロクソにけなしてきてさ。言い返したら逆ギレしてくるし。めちゃくちゃむかついたからその場で別れたよね。ほんっとマジありえない!」
「いやーそれはないわ。クソだわ。別れたの正解だわ。サイッテーあいつ」
「うん、それは滝川くんが悪いよ。そもそも下着の色、校則で決まってるのにね。あの校則も私はおかしいと思うけど」
「うううう、ありがとー。持つべき者は友達だわ。もーほんと最悪だった。しばらく恋愛はしなくていいかなー」
 滝川くんなる男の子をひたすら扱き下ろす女の子たちの会話を聞き流しながら、僕は呆然と突っ立っていた。女の子たちの会話には気になるワードがいくつも存在していた。
 ださい下着は、時と場合によっては、相手を萎えさせる。初めて体を重ねる場合、相手は自分の下着に、何らかの期待を、寄せている、かもしれない。
 その事実に僕はひたすら衝撃を受けていた。


 数日後の夜。僕はヴィクトルと一緒によく通った居酒屋に西郡を呼び出していた。この店を経営しているおじさんは商工会にも所属している人で、お父さんとは古くからの知り合いだ。僕と西郡が店に行くとおじさんは気を利かせてわざわざ座敷席になっている個室に僕たちを通してくれた。
「生でいいよな? 生二つ!」
 上着を脱いでハンガーにかけながら西郡がおじさんにお酒といくつかのつまみを注文する。おじさんは「あいよ! 今夜は好きなだけ飲んでってくれよな!」と人好きのする笑みを浮かべて厨房に引っ込んでいった。
 僕も西郡に倣って上着をハンガーにかける。座布団の上に腰を下ろして、西郡と机を挟んで向かい合う。おしぼりで手を拭きながら、僕は西郡にどう話を切り出そうか考えていた。
「そろそろ上着もいらなくなるかもな。優子の奴さ、次の休みに衣替えしたいから子供たち連れて実家に帰れとか言うんだぜ。まあ、俺の親は孫を溺愛してるからいいんだけどな。相談もせずに勝手に決めるのは勘弁してほしいよなー」
 西郡が肩をすくめて苦笑する。愚痴をこぼしながらもその目は優しくて、西郡は普段から優ちゃんや三つ子たちを大切にしているいい父親であることがうかがえた。
 そう、西郡は子持ちだ。そして既婚者だ。西郡は優ちゃんと結婚している。優ちゃんはお母さんだ。二人の間に子供がいるってことは、二人は性行為をした経験があるってことだ。
 僕はごくりと唾を飲み込む。
「で、話ってなんだよ? お前が俺を呼び出すなんて珍しいじゃん」
「あー、えっと、その、西郡にちょっと聞きたいことがあって……ビール来てからでいい?」
「なんだよ、素面じゃできない話か?」
 西郡が茶化すように言う。僕は思いきり首を縦に振った。「へいお待ち!」障子戸が開かれ、タイミングよく生ビールの入った大ジョッキとお通しが運ばれてくる。障子戸がきっちり閉められたところで、僕は大ジョッキを持ち上げた。
「とりあえず乾杯。乾杯しよ」
「まあいいけどな。今日も一日お疲れさん!」
 カチン! とガラスとガラスがぶつかって硬質な音を立てる。ごくごくごく。僕は生ビールを勢いよく喉に流し込んだ。あっという間に生ビールの半分が消えてなくなる。お通しの厚焼き玉子を口の中に放り込んでもぐもぐと咀嚼する。
 厚焼き玉子を食べている間にいい感じに酔いが回ってきた。頭の奥がふわふわして、まるで雲の上を歩いているような気分になる。注文したおつまみが次々と運ばれてくる。テーブルがお皿でいっぱいになって、大ジョッキを空にしたところで、僕は西郡に問いかけた。
「あーのーさー……西郡と優ちゃんが初めてエッチしたとき、優ちゃんどんな下着着けてた?」
 ぶーっ! と。西郡が口に含んでいた生ビールを噴き出す。美味しそうな料理の数々が生ビールの雨を受けてべちゃべちゃになった。うわ、きたな。これ全部西郡に食べさせよ。
 げほげほとむせている西郡を放置して、僕は濡れてしまったテーブルをおしぼりで拭く。幸い床や服には被害は及んでいなかった。あらかた生ビールを拭き取ったところで、西郡がお化けを見るような目でこちらを見ていることに僕は気付いた。
「何? どうかした?」
「どうかした? じゃねえよ! お、お前、まさか、人の嫁をそんな目で……?」
 西郡ががたがたとおこりにかかったみたいに全身を震わせる。
「言っとくけどなあ! 俺はお前と穴兄弟になる気はねえからな!」
 ひとつだけ言わせてもらいたい。僕と西郡は今酔っていてまともな思考回路は持ち合わせていない。
「ちちちち違う! 別にそんなつもりはないから! ただ、初体験のときってやっぱり勝負下着を用意するものなのかなって気になっただけ!」
 僕が優ちゃんを好きだったのは、もう昔の話だ。西郡家の幸せをぶち壊そうなんて思っていない。
「はあ……? 勝負下着だあ……?」
 西郡はまだ僕を疑っているらしく、鋭い眼差しで僕を睨んだ。大柄で強面の西郡が凄むとそれだけでかなりの迫力がある。僕は思わずたじろいだ。
「その、これは僕の友達の話なんだけど」
「…………友達の話ねえ」
「そう! 友達の話!」
「で、その友達がどうしたって?」
 僕は事の起こりをできる限り丁寧に西郡に説明した。
「僕の友達がある日ずっと憧れていた人に告白されて付き合うことになったんだ。でも困ったことに僕の友達は男で、友達の憧れの人も男だった。二人は両想いで今度同棲を始めることになったんだけど、憧れの人から一緒に暮らし始めたらセックスしようって誘われて……嫌じゃないけど不安はあるんだ。お互いに気持ちよくなれなかったらどうしよう、とか。自分の体に相手が反応しなかったらどうしよう、とか」
 話しながらちらりと西郡の様子をうかがう。西郡はチベットスナギツネのような顔をして僕の話に耳を傾けていた。
「そんなふうに不安になってるときに、こんな話を聞いちゃったんだ……。ある女の子が下着姿を彼氏にけなされたっていう……。肌色のださい下着を付けてるときに恋人とそういう感じになって、いざ服を脱いでみたら、萎えるとか母親が着てるのと一緒だって文句言われて、喧嘩になって別れちゃったって……それで、やっぱり、勝負下着って重要なのかなって……。ユニシロとかしもむらで買ってきたやつじゃ駄目なのかな……?」
「いや、待て、待て待て待て、ちょっと待ってくれ。何? お前ヴィクトルと付き合ってんの?」
「は? 僕の話ちゃんと聞いてた? 僕とヴィクトルの話なんかしてないよ! これは僕の友達の話!」
 僕がきっぱり言い切ると、西郡はチベットスナギツネのような顔に加え、死んだ魚のような目で僕を見た。
「……わあったよ。これはあくまでお前の友達の話なんだな」
「そう! 僕の友達の話!」
 なんだ、ちゃんとわかってるんじゃないか。僕は西郡がどんな意見をくれるのか、期待に胸をふくらませて待った。長い長い沈黙のあと、西郡はようやく口を開いて言った。
「勇利、お前、今日ここで聞いた話は絶対誰にも漏らさねえって誓えるか?」
「え、なんで?」
「理由はどうでもいい。誓えるのか? 誓えないのか?」
 その物言いはちょっとだけオタベックに似ていた。西郡が真剣なのが伝わってきて、僕はぴんと背筋を正す。きっと、ここで返答を間違えたら、僕と西郡の友情には取り返しのつかない亀裂が入る。
「誓うよ。誓う。今日聞いたことは絶対誰にも喋らない。ヴィクトルにだって。男と男の約束だ」
 西郡の強い視線を僕は真っ向から受け止める。重たい沈黙が僕たちを包み込んだ。やがて西郡は満足そうな微笑を口元に浮かべて言った。
「――よし。なら、話してやる。俺と優子の初体験はな、失敗だったんだよ。俺は緊張しちまってまったく勃たなかったんだ。高校生の性欲なんてサル並みだぜ? ほぼ裸の女を前にして勃たないなんてありえねえだろ? でも俺は勃たなかった。優子はフェラまでしてくれたのによ。付けてる下着なんて、関係なかった」
「そ、そうなんだ……」
 あまりの生々しさにくらくらと眩暈がする。そもそも僕はこれまで友達と猥談なんてしたことがなかった。ピチットくんとはスケートとヴィクトルの話しかしてこなかったし。
 西郡が話すをためらった理由がわかる。だってこれは西郡と優ちゃん、二人の名誉に関わる問題だ。
「ようやく挿入できたのは三回目くらいのときだ。気持ちいいとお互いに感じるようになったのは七回目くらいからだぜ? だからさ、本当に愛し合ってるなら下着なんて関係ねえよ。お前の友達とやらの相手が経験豊富ならそういうのは全部任せときゃいいんじゃねえの?」
 ヴィクトルはおそらくというか確実に童貞じゃない。ゴージャスな美女と一夜を過ごしたことなんて数えきれないほどあるんだろう。
「そんでその憧れの人とやらが着るものにこだわるような人間なら、用意できるもんは用意しときゃいいじゃねえか。相手のためじゃなくて、自分を安心させるためにな」
 ヴィクトルはかなりの着道楽だ。何よりも質を重視して服を選んでいる節があった。ヴィクトルが履いていたブリーフだってどこかのブランド物なのだろう。布が擦り切れそうになっている僕のトランクスとは品質も値段も天と地ほどの差があるに違いない。
 相手のためじゃなく自分のため。自分に自信を付けさせるため。少しでも自分を魅力的に見せるため。なるほど。西郡の言うことには一理ある。
 ヴィクトルが僕の体に反応しなかったら、そのときはそのときだ。セックスだけでしか愛情を表現できないわけじゃない。当たって砕けるしか――ない。
「ありがとう! 西郡! どうするか決まったよ! 僕、自分に似合う最高の下着を探してみる!」
「あーはいはいお幸せにー……」
 すっかり酔っ払っていた僕はいつの間にか僕の友達の話ではなく、僕とヴィクトルの話をしていることに最後まで気付かなかった。


「チムピオーンスポーツクラブへようこそ!」
 謳うように高らかに声を弾ませてヴィクトルがリンクへと続く扉を開けてくれる。雑誌やテレビで何度も目にした光景が眼前に広がり、僕は「わあっ!」と歓声をあげた。
 昨日、僕はとうとう長谷津を旅立ってヴィクトルとマッカチンの待つサンクトペテルブルクに居を移した。長旅で疲れきっていた僕はヴィクトルの家に着くなり睡魔に襲われて、話もそこそこにヴィクトルが僕の寝室としてあてがってくれたゲストルームで爆睡してしまった。
 眠る前明日はチムピオーンの中を案内するよと言ったヴィクトルに辛うじて返事をしたのは覚えている。そのあとの記憶はまったくない。
 目を覚ますといつの間にかマッカチンが僕のベッドに入り込んでいて、ヴィクトルは目玉焼きとトーストというオーソドックスな朝食をリビングに用意してくれていた。それだけじゃ飽き足らず、ヴィクトルはドリップコーヒーまで淹れてくれた。急き立てられるようにシャワーを浴びて、髪を乾かして、着替えをして。ヴィクトルの車に乗せられた。
 リビングレジェンドにご飯を作らせて、おまけに運転手までさせているという現実に僕は顔を青くしたけれど、ヴィクトルはチムピオーンに着くまで終始ご機嫌だった。ふんふんと鼻歌まで歌っていてヴィクトルはわかりやすく浮かれている様子だった。
 そんなヴィクトルの様子を見ていたら、僕は本当にサンクトペテルブルクに来たんだなあってじわじわと実感が込み上げてきて嬉しくなった。僕はこれからチムピオーンに行くんだ! って思ったら、緊張と期待で心臓が破れ鐘みたいな音を立て始めた。そうして今に至る。
 僕はそろそろと歩を進める。ひんやりとした空気が僕の全身を包み込む。リンクにいた人たちの視線が一気に僕に集中した。
 胡散臭そうに僕を見る人、瞳を輝かせている人、舌打ちする人、満面の笑顔を浮かべる人、反応は様々だ。ヴィクトルのリンクメイトたち。みんなが僕を値踏みし、見定めようとしている。背中がぞくぞくして心が躍る。僕がGOE満点のクアドフリップを披露したら、みんなどんな顔をするんだろう!?
「やれやれ。アウェイに強いのは勇利の長所だけど、今日は我慢だよ。正式なお披露目はまた後日、ね」
 静かに興奮している僕に気付いたヴィクトルが苦笑を浮かべて僕の肩を叩く。リンクサイドでユリオに指示を出していたヤコフコーチがこちらを振り仰ぐ。ユリオも僕の到着に気付いたみたいだ。ニヒルな微笑みを浮かべて首を親指でかっきるジェスチャー。その好戦的な態度に相変わらずだなあと僕は笑う。昨日は結構素直に僕を歓迎してくれてたような気がするんだけど。
 ヤコフコーチのもとに向かうヴィクトルの後ろをくっついていく。
「ハイ、ヤコフ! 勇利を連れてきたよー! これから色々と面倒かけると思うけどよろしくね」
 ヴィクトルの言葉にヤコフコーチは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「お前に面倒をかけられるのは今に始まったことではない。――来たな、ユウリ・カツキ」
「はい。今日からよろしくお願いします。僕をチムピオーンスポーツクラブに受け入れてくださって、ありがとうございます」
 僕がここのリンクを使う許可が出たのは、ヤコフコーチが裏で手回しをしてくれたからだとヴィクトルに聞いた。僕が感謝を述べるとヤコフコーチは口角を持ち上げてほくそ笑んだ。
「ユウリ・カツキ。カツキの実力は誰もが認めるところだ。カツキのスケーティングを正当に評価できない者はここにはおらん。だが、だからといって全員が納得しているわけではない。ロシア国民以外がこのリンクで滑るのは初めてのことだ。中にはカツキを快く思わない者もいる」
「覚悟はしてきたつもりです」
 僕に突き刺さる視線の数々。その中に含まれているかすかな敵意に気付かないほど、僕は鈍感じゃない。むしろそういう視線には敏感なほうだ。でも今の僕にはその敵意が心地いい。ここにいる人たちが僕を脅威だと感じるのは、僕がヴィクトルの唯一の弟子だと認識されているからだ。
 ヴィクトルはあとにも先にも僕以外のコーチをする気はないと宣言している。ロシアの英雄を独り占めして妬まれないほうがおかしい。怖気づいたりはしない。僕の居場所は僕自身の力で奪い取ってみせる。
 僕がまったく臆していないことが伝わったのか、ヤコフコーチは腕を組んで満足そうに目を細めた。
「ならばよろしい。チムピオーンにようこそ。歓迎するぞ、ユウリ・カツキ。カツキのスケートから我々が学ぶことはたくさんあるだろう。カツキもここでより多くを学び、自身の血肉に変えてゆけ」
「はい、ありがとうございます」
 僕ははーっと詰めていた息を吐き出した。ヴィクトルがヤコフコーチから見えないようにこっそりと手でOKサインを作る。第一印象は上々、ということらしい。
「挨拶も済んだことだし、更衣室と食堂を案内するよ。ロッカーの鍵は? もらってるよね?」
「あ、うん。さっき受付で」
 チムピオーンでは自分の使うロッカーの場所が最初から決まっているらしい。僕のロッカーはヴィクトルが使っているロッカーの隣だという。自分専用のロッカーがあるなんて、アイスキャッスルはせつじゃありえなかった。デトロイトでだって、自由に好きなところを使うことができた。やっぱりロシアはすごい。国の威信を賭けて選手を育成しているだけのことはある。
「じゃあ行こう。邪魔して悪かったねユリオ!」
 ヴィクトルに背中を押されて歩き出す。うっせーばーか! さっさと行っちまえとユリオの減らず口を聞きながら、僕たちはリンクをあとにした。
 みんな練習中なのか、更衣室には人っ子一人誰もいなかった。僕から鍵を受け取ったヴィクトルが、「ここが勇利のロッカーだよ! 俺の隣!」とわざわざ扉を開けて場所を教えてくれる。
「ちなみにロッカーの鍵にはスペアがないんだ。鍵をなくすと再発行の手続きとか、鍵を交換する手続きとか、事務員に文句言われたりとか結構面倒だから注意してね」
「わかった」
 神妙にうなずくとヴィクトルは「いい子だ」と僕の髪をぐしゃぐしゃにかき回した。
「ちょっ、やめてさあ!」
「それにしてもさっきの勇利、最高だったなあ。っふ、くくっ」
 僕が手ぐしで乱れた髪を整えていると、くつくつとヴィクトルが喉の奥を鳴らして笑い始めた。ロッカーの扉を閉め、僕の胸ポケットにロッカーの鍵を滑り込ませて、堪えきれなくなったのか、ははっ! とヴィクトルが腹を抱えて笑い始める。
 僕は目を白黒させてヴィクトルが爆笑する姿を眺めるしかない。
「な、何……? 僕なんか変なことしちゃった……?」
 自分では上出来な受け答えだと思ってたんだけど。ヴィクトルがあまりにも愉快そうに笑うから、徐々に不安になってくる。僕がそわそわしているとヴィクトルは目尻に浮かんだ涙を親指の腹でぬぐいながら言った。
「ごめん、そうじゃないんだ。ただ、勇利は強い子だなあって感心したんだよ、俺は」
「どういう意味? 僕生意気だった?」
「違う違う。俺、ずっと心配してたんだ。ヤコフはああいう性格だから、きっと勇利に揺さぶりをかけるだろうなって。それで勇利が不快な思いをしたらどうしようとか、勇利のメンタルが崩れたら俺がフォローしなきゃとか、ずっと考えてたんだ。でも全然心配することなかったね! さっきの勇利はすごく立派だったよ。毅然としていて、堂々としてて。俺、誇らしかったなあ。みんな、びっくりしただろうなあ」
「そ、そうかな……?」
 ヴィクトルに手放しに褒められて悪い気はしない。でもちょっと恥ずかしい。僕は顔がにやけないようにするので精一杯だ。気を抜くとだらしなく顔がゆるんでしまいそう。
 僕が必死に真顔を保つ努力をしていると、ヴィクトルが急に距離を詰めてきた。僕は思わず後ずさる。背中にロッカーの扉が当たって「あ」と声が出た。これ以上は下がれない……。
 僕が焦っているとヴィクトルがニヤリと笑った。
「勇利、どうして逃げるんだい……?」
「だ、だって、ヴィクトルが近付いてくるから……」
 耳に吐息を吹きかけられて僕は「ひゃうっ!?」と悲鳴をあげた。ぞわぞわと全身の産毛が総毛立つ。
「や、やめてよ……なんでこんなことするの……?」
 涙目でヴィクトルを見上げる。ヴィクトルの腕が伸びてきて、僕の体をすっかり囲い込んでしまう。僕、今、ヴィクトルに壁ドンされてる……どうしよう。逃げられない。ヴィクトルの顔がゆっくりと近付いてくる。ちょっと動いただけで唇が触れ合ってしまいそう。
「勇利が、強くて、美しくて、かわいいのがいけない……誘われてるのかって思うくらい……」
「や……っ」
 長い指に耳たぶをつままれて僕は身をよじる。顔に熱が集まっていくのがわかる。ヴィクトルは笑顔を浮かべているけれど、目が笑っていない。ぎらぎらと飢えた狼みたいな眼光を放っている。
――勇利が俺の家に来たら、お前を抱くよ。覚悟して。
 ヴィクトルから送られてきたメッセージを不意に思い出して、全身の血が沸騰した。ぼこぼこ真っ赤な泡が弾ける音が耳の奥から聞こえる。
 ヴィクトルが唇を開く。どうしよう。このままじゃ、僕、僕、ここで処女奪われちゃう……っ!!
 
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